第二十章 帰路と岐路
十七時時半を少し過ぎた空模様は、朝方ほど煩わしくも、昼頃ほど眩しくもなく、この
時期の一日における最も良い塩梅にあった。上昇し続けた気温は下り坂の中程まで落ち着き、じくじくと鳴り響く蝉の声はそのトーンを下げており疎が感じられる。先日までの長雨で濡れていた町並みは降り注ぐ日差しによってすっかり水気を飛ばしており、そこから生じた湿度についても幾度となく吹き抜けた風がさらったことで、あたりに満ちる空気は意味もなく深呼吸を誘うほどに澄んでいた。
その爽やかな夕方を、僕とシュウは並んで歩いていた。自転車から降りて、舗装された歩道の上を転がしている。片一方が足を挫いたわけでもなければ、タイヤがパンクしたわけでもない。ただ、頭の中で整理しなければならないことが多々あり、そのような考え事に脳の機能を割きながら、集中力散漫の状態で軽車両を運転したくなかったのである。
走行時には気付かなかったが、僕の自転車の目に見えぬどこかに錆が浮かんでいるらしい。歩行に合わせてゆっくりと自転車を押すと、前輪が一周する毎に、きいきいと微かな異音が車体の奥底から漏れ出し、チェーンが巻き取られる音と混ざりながら閑静な帰路に溶け込んでいく。
それらの音は僕の心境をなだめ、物思いへの集中を高めた。
合わせて、三十分前の出来事を改めて振り返る作業を捗らせた。
「――……好きです! 付き合っていただけませんか!」
これが漫画であれば、「ドンッ!!!」という書き文字が背景全面に描かれていたことであろう。あるいは映画であったならば、「バァァン!!!」といった迫真の効果音がセリフをかき消しかねないほど大きく流されていたことであろう。
僕とシュウがトイレの前から離れ、自動ドアから館外へと身を出すか出さないかといった瞬間、力也の勇ましい告白が耳に届いた。
その声量は申し分なく、雑踏による喧騒にも負けずに力也の思い人へと確実に届いたに違いない。同時に、周囲の一般客の幾人かも間違えて注目したに違いなく、あからさまな反応はせずとも、通りがかりの何人かはその視線を彼の方へと向けてさり気なく注目していたように見えた。
僕はその場で後ろにひっくり返りそうになった。勿論、実際にそうなったわけではなく、あくまで心情に関するところだ。そして、これは僕の隣にいたシュウにも言えたことであろう。合わせて、僕とシュウよりも現場に近いところにいた、雪花にも。
力也からの直球かつ熱血なプロポーズを受けた彼女は大層驚き、困惑していたようだが……そんなことは些末な事実であった。僕とシュウはとんでもない取り違えをどこかで犯していたということに、この時となってようやく気が付いた。
力也の熱い思いが向けられていた先は……千夏先輩であった。
彼は続けた。「常に我を通す強気な姿勢を尊敬する」と。「ずばりとした物言いに惹かれた」と。「そんなあなたのことを、もっと知りたい」と。
千夏先輩の瞳が本来の大きさを露わにする機会を、僕は相当長らくぶりに目撃した。それほどまでに彼女は驚愕し、露ほども想定していなかったであろう展開に対して、日頃見せない動揺を隠さずにいた。
突然の事態に不意を突かれた千夏先輩は「あっ……ぁあ~?」と、まともな形を成していない相槌をとりあえず打ちながら、力也の熱弁に後ろから追い付くようにして少しずつ状況の理解を進めていたらしい。
やがて、力也は告白の成否を待つ段階に至り、この後に空を覆う夕焼けよりもなお濃いであろう赤に耳の先まで染めながらも、向き合う決意は泰然に返事を待っていた。
千夏先輩についても自らを中心とした時局について把握したか、平生の形へと目を細めながら腕を組んで調子を取り戻し始めたが、遠慮がなく鋭い弁までは準備できていないらしく、薄い唇はもだもだとずれては戻るばかりで開くことはなかった。
僕とシュウと雪花は、当人たちよりもなお身動きが取り難く、示し合わせたかが如くその場にびたりと静止して風景を装っていたが、その維持にも静寂にも耐えられなくなってきたあたりだろうか。千夏先輩は一言、「トライアル期間ってのはあるか?」と返し、力也は首を縦に力強く振った。
それを聞き遂げた僕たちは、だるまさんが転んだにおいて鬼が背を向けた直後か……あるいは、警官にフリーズを強要された民間人が誤解を解かれた直後かのように……一時の脱力を得ながら、今度こそ解散前の集合を果たすに至ったのである。
「どこで勘違いしてたんだろうなぁ、俺たちは」
「力也が『可愛い』って呟いたところから、だろう」
「そう、それだ。後出しジャンケンなら幾らでも勝てることは抜きとして、だ……あの一言そのものは勘違いじゃあなかったと思うぜ」
「どういう意味だ」
「言葉通りの意味さ。力也は雪花を一目見て『可愛い』と思ったんだろうよ。ゲーセンのぬいぐるみとか、生まれたての動物を見た時と、同じ感じでな」
「恋愛感情じゃあ、なかったってことか」
「多分な」
「それじゃあ、何だ。僕たちの成果ってのは、『力也を美術室へ連れて行って千夏先輩と引き合わせること』になるのか」
「わぉ、俺たちは矢を放つまでもなくキューピッドだったってわけだ」
「それは結果論だ。僕たちの肩書にはむしろ、狙っていた矢を外した出来損ないのキューピッドの方が相応しい」
「だがまぁ、結果は悪くない。そうだろう」
シュウは悪びれもせずに同意を求めた。
確かに最後の形だけを見れば、力也の恋心は見事に成就し、その感情の向かう先に立っていた千夏先輩についてもそうまで悪い顔をしていなかったとあらば……この「作戦」とやらは成功を収めたと言える。
だが、僕の中には作戦中に対面した不慮の事態が未だに尾を引いている。いや、むしろこれから付き合っていかなければならないものとして、誘導路として僕の先へとはっきり舗装されたと表現した方が近い。その両脇はご丁寧にも三角コーンとポールで阻まれており、一歩でも内側に入り込んだならば途中で脇道に逸れることはできず、何かしらの結論を抱いてから出口までたどり着かなければならない、そのような道筋である。
ここではっきりと述べておこう。
僕はこの日、この時点で、雪花のことを無視できなくなっていた。
ただの級友としても、ただ部活動を同じくする知人としても括ることのできない、そのような特例の一個人として、僕は雪花のことを認識していた。そして、「認識」という単語で曖昧にしているが、より強い語を以て、より正確に断言しよう。
僕は、雪花のことが、好きになっていた。
少し謙遜が強く、一歩退いたところに自分の居場所を見出している節はあるものの……ふとした拍子に垣間見える、彼女の真の笑顔やはしゃぐ姿を……目の前にいるときは見たいと思い、いないときは想像してしまう……これが恋心でなければなんだと言えるのか。
この結論に至るまで、彼女と顔を合わせてから約二か月を有した。その期間を長いとみるか短いとみるかについては読者諸君の各々の感性に任せるとして、さて、僕個人の感覚として、この導出までの過程は余りに短過ぎるものであった。
と言うのも、人間という業の深い生物において一番か二番に面倒事との縁が深い感情――恋愛――に関して、そもそも僕は欲していなかったのである。そうして、傍から見れば哀れで寂しい人間として、胸を打ち震わせる情動とは終ぞ無縁のまま、静かに生涯の幕を引きたかったのである。
それは何故か。もう分かりきっている読者もおられるだろうが、僕の口から改めて説明しよう。
僕は砂になる。動悸が乱れるに合わせて手先が、足先が、背中が、青白い砂へと無意識に変化しては崩れ、ぱらぱらとこぼれ落ちるのである。原因は問わない。僕の心臓が早鐘を打つのであれば、長く走ることでも、急に肩を叩かれることでも、壇上に立ってスピーチを控えた緊張でも、熱い風呂に浸かり続けるだけでも、例外なく砂となる。
その中には誰かを強く慕うことによる熱意もまた含まれているであろうと、僕には前々から予想が及んでいた。
だから、自覚したくなかったのである。誰かを特別に認め、その言葉を、その仕草を、その親切を意識するたびに胸が高鳴る……それは即ち、その者から離れねばならぬことを意味していた。手にした関係性を、親交を、思い出を……自らが砂へと成らぬようにするために……手放さなければならないことと同義であった。
だからこそ僕は、気付かずにいたかったのである。かのような唯一無二の存在としてではなく、ただひたすらに鈍感を貫くことにより、平均水準よりも少しばかり仲の良い友人として微温湯のような間柄で結び付いていたかったのである。
だが、それはもはや叶わぬ願望となった。
僕は雪花のことが好きだと、一度認めてしまった。
この感情を否定すること……それは自らを否定し、常に彼女へと背を向けたまま関係性を続けることを意味している。
この感情を肯定すること……それは自らの特異体質がこれまで以上の脅威と成り、彼女との関係性を絶たねばならぬ必然性を押し上げることを意味している。
このどちらも僕は望んでいなかった。僕の本心は、彼女との屈託のない関係性を築くことが不可能である以上はせめて、純心を欺くことで拍動の浮き沈みのきっかけすらも意識の外に追いやりながら無難な関係を維持するところにあった。
だが、今は二者択一の明確な問いが僕の胸に突き立てられている。
はいか、いいえか。
YESか、NOか。
是か、不是か。
お前は砂になりたいのか、なりたくないのか。
……なりたくないに決まっているだろう。
それならば、今までの全ては気の迷いだったと認めて彼女と距離を取るか。
……それも、望んでいない。
「――……贅沢なやつだな」
はっ、と視線を隣に向けた。
シュウは僕よりも僅かに左後ろで自転車を止め、とある民家の庭先を眺めていた。
彼がぼうっと見つめる先には木製の犬小屋で食事中のゴールデンレトリバーが座っている。皮膚の端々に刻まれた皺や弛みからは歳を感じさせるが、毛並みは艶やかで発色も良く、老犬と呼ぶにはまだ少々早いようにも見えた。
その大型犬は目の前の皿に盛られたドッグフードを三分の二以上残しながらも、庭に面する宅の窓越しに家主たちの夕餉を見つめ、はっはっと唾液を垂らしながら物言いたげに喘いでいる。
犬は食事に飽きることはないと聞いたことがあるが、あの一匹は格別な美食家なのか、それとも間食の摂り過ぎで既に満腹なのであろうか。どちらにせよ、捉え方にもよるが、食には不足していないであろうことは明らかであった。
ちなみに、僕はその雄の犬に黄金丸という大層な名が付けられていることを前々から知っていた。彼は基本的に大人しいものの、どうにもトラックやバスと言った大型車両が気に召さないらしい。そのような類がアスファルトを駆け抜けて、彼の一軒家を揺らす度、威嚇のつもりか恐怖を紛らわすためかは定かではないが、毎回のようにおんおんと二、三度、吠えるのである。その黄金丸の住処と僕の家が五十メートルも離れていないことから、僕が自室で横になっていたとしても鳴き声が毎度聞こえることは自然の成り行きであったが、それが原因で寝不足になったことは幸いなことに今のところない。
僕はその黄金丸の姿を視界に映し、考え事に集中している内にいつの間にか自宅のすぐ近辺までたどり着いていたことに、そこで気が付いた。それから先はもはや帰路とも呼べぬほどであったため、僕は自宅の正面ではなく、その手前にあたるこの曲がり角でシュウと別れることを決めた。
「一人で帰ることはできるか」
「この距離で家を見失うようなら、僕はまず眼鏡を用立てに向かうだろうね」
「違いない。じゃあ、またな。 ……っと、ヤベぇ」
シュウは自転車のペダルを踏み込もうとしたようだが、そこで失念していた事柄を思い出し、サドルに跨ったまま振り返った。彼は上着の内ポケットを探り、小さな紙袋をひとつ取り出すと、高い山を描くような軌道で、僕に向けて放り投げた。
「何だ、これ」
「土産」
「僕に?」
「んなわけないだろ。海月にやってくれ、行きたがってたんだろう」
無地の小袋の口は三回ほど折られたところで赤いテープによって留められており、その赤には白い文字で金獅子ペットランドの文字とロゴマークが書かれている。その外装の大きさは手のひらの半分もないが、見た目に依らずそこそこの重さが加わったため、密度の高い小物の何かしらが納められていることだけは伝わった。
正直な話、この時の僕は当日の朝にあった妹との会話が完全に頭から抜け落ちていた。シュウから言われることで今更ながらその内容を思い出し、それと同時に、目の前の男の記憶力の良さと気遣いに感心するばかりであった。
「お前はホントに、出来た男だよ」
「惚れるなよ?」
「言ってろ」
シュウはくっくっと笑うと、ペダルを漕ぎながら背中越しにひらひらと手を振り、今度こそ目の前の角を右に曲がって彼の帰路についた。
お前も見習えばどうだ。
……僕が? 誰のために?
しらばっくれるなよ。相手は決まっているだろう。
……似たようなことは、したさ。
ゲームセンターで獲得したクッションを雪花に渡した時のことを思い出しながら、僕はガレージへと自転車を転がし、玄関の扉を開いた。
帰宅した僕は真っ先に洗面台へと向かい、自転車のハンドルで汚れることになった両手をまずは洗った。満足を得られるまでに両の手のひらに水を流した後、濡れないように脇へと置いていた小袋を再び手に取って居間へと立ち寄ると、先に用事が完了していたらしい海月が今朝と同じ姿勢でやはりスマートフォンを弄りながら、くたりとソファにもたれかかっていた。
「おかえり~……楽しかった?」
前半分よりも、続く後ろ半分の声音がどれだけかじとりと湿っており、海月が今朝のやり取りを根に持っていることは明白であった。
たとえ考えていた事の本意がズレていようとも……僕はシュウのファインプレーに感謝した。この置き土産の力があれば、一緒に行くことができずとも、一緒に行ったような気くらいにはなるだろう。
シュウが僕へとやったように、僕は海月へと手元の小袋を放り投げた。
「わっ、と……何、これ?」
「土産」
「ひぇぇ、嵐の前触れぇ」
海月はそう言いながらテープを剥がして中身を取り出した。僕もまた、内容物がどのようなものか知りたかったため、爆発物でも扱うかのような妹の態度は見なかったことにして、その手元に目を配った。
「へぇ~……綺麗」
海月の人差し指には輪っか状の紐が掛けられ、反対側の一端は細長い筒状のガラスと結び付いている。五センチほどの円筒容器の内部には薄い青に着色された液体と、白い小さなマスコットが封入されている。そのマスコットは浮力によって円筒の上部へとふわふわと上昇し、全体をひっくり返すと、代わりに上端となった丸みを帯びた底の方へ向かってまたふわふわと上昇していく。
「オイルボトル、か」
「中身のこれ、なんだろ」
「クラゲだろ。多分」
「あぁ、確かに……うん?」
海月は僕との会話に噛み合いの悪さを感じ取ったらしい。自分で買った商品のことを何故理解していないのか、その理由を尋ねた。
その土産の送り主がシュウだということを告げた直後、海月は再現に難しい奇声と共にソファから飛び上がり、想い人へと送信するお礼のメールを考えるべく自室へと向かったが、肝心のスマートフォンを忘れたらしくすぐさま居間へと引き返して机から道具をひったくり、改めて騒々しく二階へと駆け出して行った。
贈り物というのはかくも重要なものかと僕は魂で理解したような気がした。
合わせて、金獅子ペットランドにて獲得した景品を雪花に渡せたことに関し、僕はあの時の自身の直感を褒め、在庫処理に励んでいた例のゲームセンターにひそりと感謝した。




