第十九章 点火
この自伝を書き進めるにあたり、僕はかなりの情報の取捨選択を行っている。それは、当時に起きた僕の身の回り全てについて全知全能の神の如く把握しているわけでもなければ、よしんばそうであったとしても、それをつまびらかに文章で表現することで読者が得られる満足よりも、おそらくは回りくどさの方が上回るであろうという、そのような配慮のためである。
よって、この日、僕たちがふらりと遊びに出かけた先でどのように過ごしていたか、その履歴を一から十まで書き連ねることについてもまた、ある程度の省略を施すことに関して事前に断っておくことにしよう。
また、前述したように、この金獅子ペットランドは施設の全貌を列挙するに際して原稿用紙の升目が不足するまでに豪華絢爛、荘厳美麗、満漢全席といったわけではない。加えて、この遊園地はその前身である釣堀センターに各施設が後から足されたことで成立した経緯があることから、これからの場面が一見して遊園地とは思えぬようなものに切り替わるようなところも多々見受けられるかもしれないが、その点についても予めご了承願いたい。
さて、金獅子ペットランドの入退場門の正面には大きな建物がひとつそびえている。この施設と、左隣に広がる遊園地部分を合わせて全体が構築されているわけだが、当時の僕たちはまずこの建物の方へと進んだことから、先に館内について触れることにしよう。
その館内は大きく二つに区分されている。入退場門に近い側を手前、遠い側を奥としようか。
手前側にはゲームセンターやフードコート、客入りの多い日に行われるヒーローショーの舞台などが設えてある。屋内であること、ここだけでも十分な面積を有すること、前後左右に外へと通じる出入口が用意されていること、以上の便の良さがあるため、この複合施設の中心部は、遊園地ではなくむしろこの館内手前半分にあると言えよう。
館内奥半分については後に述べるとして、僕たちはその一階のほぼ全てを、隣接するフードコートと分け合っているゲームセンターにて暫し暇を潰していた。
繰り返しとなるが、この遊園地における全ての施設を合算したとしてもそれらを全て見て回るに一日では時間が足りないということはまずなく、合わせて、本日の来客数が想像よりもかなり下回っていたことで待ち時間や混雑、その他諸々のレジャーランド特有の不便についてもまた過敏になる必要が予見されなかったため、僕たちはこのようなふらふらとした行き当たりばったりな放浪の中で都度予定を立てていたのである。
僕たちがどのような筐体に触り、どれだけの金子を費やし、幾つのプライズを獲得したか、その仔細については本筋には影響しないためかなりの量を割愛させていただくが、ただ、この機会故に、ゲームセンターというものについては少し触れておくことにしたい。
ゲームセンターと聞いて浮かぶは、景品なぞそうそう出るものではないという先入観であろう。実際、その通りである。
慈善事業であらばともかく、それを商いとするのであれば、出ていくものには原価以上の稼ぎを果たしてもらわなければ原理的に成立し得ないことは明白である。合わせて、仕入れの過程にも費用が掛かり、筐体とフロアを動かす電気代が掛かり、場所代が掛かり、人件費が掛かるとなれば、これはもう原価以下で取れるのではないかと期待する方がおかしな話であり、一般的には原価を基準としてその三倍前後は必要となるのが常であるとはどこかで聞いた話だ。
そもそもの話、ゲームセンターが提供するは、そのマシンを客が動かせるようにして遊ばせるところにある。筐体の中に置いてあるものはクレーンなりなんなりを動かして遊び終えた結果、その運びで「偶然にも」バランスが崩れ、客が手に取れる位置に落ちてくる、ただそれだけのものである。よって、マシンが動かないのであればともかく、景品がろくすっぽ位置を変えずに鎮座しているように見えること、これに関しては店員にとやかくは言ってはならない。客がマシンを正常に動かせた時点で、向こうとしては義理を通しているという理屈であるためだ。
かと言って、では景品が全く出ないかと言うと、これもまた違う。
店舗が有限の空間にある以上、扱える景品の上限もその規模に依存して定められる。一切景品を出さないとあらば、在庫は膨れ上がり、古い景品ばかりが並んで目新しさと求心力を失い、筐体に投入される硬貨は少なくなる一方である。それ以前に、還元のカの字も考慮しないまでに渋い運営であれば、そもそも店舗の評判の面からどこかで見限られてしまうだろう。
そうならないように、各店舗は自らの帳簿に赤を出さないように、それでいて客にも過剰な赤を押し付けない程度に景品の出払う金額を設定し、その値を逸脱せぬよう適宜手を加えながら運営しているのである。
だが、それでも溢れる景品というものはある。設定を絞りすぎて旬を逃したか、仕入れの数が多過ぎたか、需要がそもそもなかったのか、食品であれば賞味期限が迫って来たか。いずれにせよ、店舗からすれば早めに倉庫から捌きたいものが、どれだけ優れた運営であっても、いつでも多少は存在するのである。
話を戻そう。そのような事情についてある程度は承知済みだった僕は、皆でふらりとフロアを回る中で「サービス中!」と印刷されたポップが貼られた筐体のひとつに注目した。
そのような謳い文句自体には大した信憑性がないこと、これについても理解していたが、その筐体の中には時期を少し外れたようなぬいぐるみが分別なく雑多に詰め込まれていたこと……それにもかかわらず1プレイの料金が百円ではなく二百円に設定されていたこと……そして、筐体内部の隅に吊り下げられた歩数計――おそらく、古い筐体のため出払った景品の数を手動で数える必要があったのだろう――の値が、他は二桁にも満たないものばかりの中で、ここだけが突出して数え上げられていたこと……以上を判断材料として、僕は半ばこの店舗に対するお布施のつもりで二百円を投入し、適当にクレーンを操作した。
投入されていた景品に別段興味があったわけではなかった。楕円に三角が二つ生えた猫の典型的なデフォルメに、漫画調の目鼻口とヒゲが描かれた、平たいクッションである。伸ばした片腕ほどの大きさがあり、その原価が八百円を上回らないにしても、そこそこの需要と、それに伴うどれだけかの無駄銭を期待されて本来は仕入れられていたことだろう。
とは言え、無視するにはやはり惜しい程度には上述した条件が悪くなかったことと、根拠こそないがその景品がどことなく雪花が気に入りそうに思えたため、裏で糸が交差する集まりに彼女を巻き込んだことに対するせめてもの償いという面と、個人的な謝礼としての面を満たすためにも、ひとつ渡せれば御の字と考えたのである。
思惑通りに事は運んだ。三本の爪の先端には滑り止め用ゴムが付いていなかったが、そのような状態など意に介さず、猛烈な力で景品を掴み上げ、危なげのひとつも見せぬまま獲得口の真上までアームは移動し、そこで手を離した。
救済措置によるアームパワーの上昇が丁度この時に発動したのか、あるいは常に発動するような設定であったのか、今となっては確かめる手段はないが、とにかく僕は二百円と引き換えに、どこか気の抜ける表情のクッションをひとつと、十五秒にも満たぬ時間で件の先入観を覆された知人一行からによる称賛を得ることができたのである。
ちなみにこの景品は後に雪花へと譲り、更に紆余曲折を経て再び僕の手元へと戻り、今現在はベッドサイドの棚に置かれている。その首元に該当する一端には獲得時にはなかったプラスチック製の細長い円筒容器が斜めに掛けられ、内容物によって青白く染まっているが、そのような手が加えられた経緯については追々語ることになるだろう。
さて、ゲームセンターで少々を過ごし、次いで僕たちは手荷物をひとつのコインロッカーに押し込んで手ぶらとなり、館内から外へと出た。
金獅子ペットランドには入退場門があると前述したが、それはあくまで車両や人の出入りを制限するための簡素な縁石上の切れ目であり、博物館や美術館などの出入り口に備えられたアームゲートのような本格的な仕切りが用意されているわけではない。誰しもが手続きなく、自由に敷地内へと足を踏み入れることができるのである。
また、先の館と遊園地部分を明確に区分する境界もなく、入退場門から敷地内へと入って直接遊園地部へ向かうこともできれば、館内の出入口のひとつを経由して入ることもできる。
そのような構造であるが故に、この遊園地には入場料は存在せず、代わりに遊具の使用料が都度必要となるシステムが採用されている。正確には、アトラクションに参加するにあたり、専用のチケットを指定された枚数手渡す形式だ。よって、来客は各々の都合や予定に合わせて、一枚で幾ら、十枚綴りで少し割引された幾ら、といった金額を払い、先にチケットを何枚か購入する。
全てのアトラクションを一通り体験できるだけの枚数を綴った徳用のセットもあったが、僕たちはそれより少ない枚数を各々購入した。理由については簡潔に述べることにするが、要は雪花は持病の喘息を、僕は持病の特異体質を、それぞれ懸念した結果である。
雪花はジェットコースターやバイキングなど――所謂、絶叫系に分類される――アトラクションには乗れないとのことであった。彼女の喘息は運動誘発性――即ち、心筋や肺の乱れによる過剰な呼吸によって引き起こされるもの――であり、直接的な要因ではないにせよ、無暗な身体への負担全般に関してはそれが完全なる制御下にない限り、念を入れて距離を置いているとのことである。
僕の理由については読者諸君は既にご存じのことであろう。雪花とは症状が異なるが、動機が乱れることによって僕は身体が砂となって崩れ去る。彼らがジェットコースターから降りる際……あるいは、お化け屋敷の出口を捲り上げて外に出た際……振り返った背後に雪だるまならぬ砂だるまがひとつ転がっている、そのような事態はお断りであった。
無論、僕の理由については正直に明かすことはできなかったため、シュウ以外の当事者たちから見て、この時の僕は相当なビビりに映ったことだろうが、その誤解については彼らがこの自伝にいつか目を通したとして、その折に解消してくれることを願うばかりである。
さて、そのような僕と雪花の個人的事情と、遊園地部分の規模が控えめであるところ、この二点が組み合わさったことで、僕たちはさほど長くは外にいなかったことになる。
どのようなアトラクションにせよ、基本的には大なり小なり心身に訴えかける迫力を供するものであり、僕たちはその中でも過分な衝撃とまではいかないであろう幾つかを選び、それらを楽しんだ。
すると、少ない枚数を買い求めたにもかかわらず、各々の手元には使い切れなかった端数のチケットが最後にどれだけか残ってしまった。その数枚を用いれば幼児向けの簡単なアトラクション程度であれば体験することができたものの、その内容のどれもがいい歳した高校生が心底没頭できるようなものではなかったため、僕と雪花は端数のチケットをシュウたちへ渡し、彼らの手持ちと合わせて、心の臓腑に怒涛をもたらす激しいアトラクションのひとつにでも挑戦してみるよう提案した。
彼らは僕たちの誠意を受け取り、その見返りとして缶ジュースをおごって寄越したためシュウと力也と千夏先輩がお化け屋敷に入り、無事に出てくるまでの間、僕と雪花は手頃なベンチに腰を下ろして彼らの帰還を待つことになった。
ごうごうと回転するコースターの滑車の音……アトラクション開始前に鳴り響く安全確認の警笛……見栄えと涼のために積極的に吹き上がる噴水の飛沫……そして、正午をまもなくとした時分となってようやく人数を確保し始めた園内の賑わい……教室や図書館における作為なきBGMと似て非なるようで、やはり似ているそれらの音と動きに合わせて、ちらちらと空は青く瞬き、爽やかな風が抜け、傍を流れる金獅子川のせせらぎが聴こえこそしないが感じられるようであった。
本来であれば、ここに座るは力也であるべきはずであった。そうなるように事を運ぶことができれば最良であったが、僕もシュウも自然に誘導できる案が思いつかず、この時ばかりは裏もなく成り行きのままに、僕がここに席を持つことになったのである。
「わざわざ、すみません」
シュウたちが入場したお化け屋敷を正面とするベンチに腰かけていると、右隣に座った雪花がまずはそう切り出した。
雪花の視点からすると、今の僕は絶叫系アトラクションに参加できない彼女を独りきりで待たせまいと、敢えて自らも身を引いたように捉えられていたようである。僕は、自身が稀代の小心者であると強調し、孤独に時間を持て余さずに済んだ現状にこちらこそ感謝したいと告げると、それを聞いた雪花は少し微笑んだ。
「こういった形で外に遊びに出かけることが、実は初めてなんです」
「こういった形、って」
「お友達と予定を立てて、約束に合わせて出かけること、です」
「へぇ。僕も出不精だから、まぁ似たようなものだよ。今まで一度もない、とまでは言わないけど」
「その方がどれだけか一般的だと思います。おそらく、ですけれど」
「たしか、転校が多いんだったっけ」
「はい」
僕は以前に偶然目にした、雪花のスマートフォンの画面を思い出した。交友関係の数については、少なくとも僕や千夏先輩のそれと比べて随分と多いように見受けられたが、その各人物とのやり取りに関しては、どれもが遠く前の日付を最後としていたような記憶があった。
「転校した後も仲が良いって人は」
そのように聞くと、雪花は小さく首を横に振った。随分と寂しげな動きであった。
「今まで出会った皆さんが良くしてくれました。親切で、頻繁に声もかけてくれて。その点、私は恵まれていたみたいです」
「人間関係で悩む人も多いから、確かにそれは恵まれていると言えるね」
「それほどに良い人たちであったから……声をかけてもらった私も幸福でしたし、皆もまた、私と知り合う前から既に幸福な生活だったでしょう」
「かも、しれないね」
「私がいてもいなくても十分に過ごしていたのであれば、遠く離れた者をわざわざ追ったり、気にかけたり……そうする必要もまた、なかったのではないでしょうか」
「そういうものなのかな」
「そういうものなのです」
雪花はオレンジジュースのアルミ缶に口を付けて中身を流した。液体が送られるに沿って彼女の白い喉もくつくつと動く。その運びは、今しがた喉元まで上がりかけていた感情を押し戻しているかのようにも、僕には見えた。
「ですので、私は今までお友達と遊びに出たことがなかったのです」
「いつ別れるか知れないにしても、それくらいのわがままは通してもよかったんじゃあないかな」
「誘われることはありました。断ってましたけども」
「どうして」
「仲良くなるとそれだけ、別れる時の騒がしさと、その後の静けさが、辛くなりますから」
「それじゃあ、今回はどうして誘いに乗ってくれたの」
「……どうして、でしょうね。私にも分かりません」
雪花は僕の疑問が完全に想定の外にあったのか、あるいは別の理由でもあったのか、目を丸くして少し考えた後、そのように答えた。
丁度その時、正面の館の出口に垂れ下がっていた暗幕が揺らいだ。
内より出でたるは見知った偉丈夫二人と、その間に挟まれるような位置にいる小柄な女一人である。シュウも力也も千夏先輩も、その頭髪が白く染まって顔色が真っ青になるとまではいかずとも、額にはびしゃりと汗を吹き、片息を隠そうともせず、疲労に満ちた様子で陽の下へと飛び出すと、恐怖の現場から生還したことを実感し、大きく溜息をつきながらその場で脱力した。
「まぁ……あの誘いには乗らなくて正解だったかも」
視線の先にて這う這うの体で喘ぐ三人を指すと、「確かに、そうですね」と雪花は返して、どれだけか表情を明るくした。
アトラクションをぐるりと回った後、僕たちはフードコートで食事を摂り、次は釣堀を前にした場面へと移ることになる。
先に述べた通り、この場所の前身は釣堀センターであり、その名残というわけでもないだろうが、外には幾つかの種類の釣堀が用意されている。巨大な溜池がひとつ設えてあるようなものではなく、小規模なビニールプールや合成樹脂の深型トレイに小魚やザリガニといった小型の水生生物や、スーパーボールやその類の玩具が浮かべられた様子は、どちらかというと縁日の何々すくいと言い表した方が近い。
ただ、その中で最も大きな堀に関して、こちらについてはまさに釣堀と称してもイメージと乖離が少なく、僕たちはそこで釣り具の一式を借りて一時間かそこらを過ごすことにした。
木組みで長方形が縁取られたその釣堀には鯉が放たれていた。時間当たり七百円だか八百円を支払うことで、釣糸と針が既に結ばれた竿を一本と、口の広い玉網、練り餌が渡される。後は時間が来るまで好きに釣っては放し、気に入ったならば延長したり、あるいは早々に帰ってもよしと、そのような形式でこの閉鎖的環境を利用できる。
ここでは力也が実に頼もしく感じられた。というのも、一行の中で今までに釣りについて実際に触れたことのあるものが彼だけであり、その腕前が本職のバスケの技量には及ばずとも、全くの素人とは比較にならぬまでに手慣れていたためである。
これは後に力也から聞いた話だが、彼の親戚には釣りを趣味とする叔父が含まれているらしく、何度かその趣味に付き合ったことから経験が培われたとのことだ。
一般的な釣堀における食い付きの数について詳しくは知らないが、初心者が見様見真似で餌を投げ込む度、五分、十分とかからずに糸が張ったことから、この釣堀の魚たちはそれなりに飢えており、同時に勝気であったと言える。
力也が雪花と千夏先輩に懇切丁寧に手順を教授し、各々に掛かった鯉たちを鮮やかな手際をもって解放する様子を横目に、僕とシュウはぬめぬめとした手触りの鱗を目前にきゃあきゃあと悲鳴を上げながら、もたもたと釣り針を外して再び玉網を堀へと戻すまでに、ウキを浮かべている暇と同じくらいの時間を都度要していたものだから、その様子が大層不格好であったことを隠すつもりはない。
あの釣堀にて今なお過ごす鯉に、ここで陳謝したいと思う。
力也たちではなく、僕とシュウに釣られた者よ、その節は不手際にて余計に辛い思いをさせてすまなかった。
釣堀の制限時間を迎えると、時刻は三時半を少し過ぎた頃合いだったはずだ。僕たちは残る一か所を訪れ、そこで時間を費やしていた。
館内手前半分について述べた折、後述するとして一度脇に置いた奥半分について、ここで解説したい。
端的に表せば、施設の奥半分はペットショップであった。これについて意外に感じるところは少ないであろう。全体が金獅子ペットランドという名称である以上、その名に含まれる機能を有した施設部分がない方が不自然だとも言える。
扱う動物は多岐に渡り、哺乳類や爬虫類、両生類、魚類、果ては彼らの胃袋に献上するための植物や昆虫までも扱っているものだから、そこに仮の住居を構えるものの種類については両の手はおろか、合わせて両足の指を加えてもなお総数に遥か及ばないまでに充実していた。
ペットショップである以上、そこに含まれるインタラクティブに関してはゲームセンターや遊園地と比べて遥かに少ないものの、それでもガラ・ルファ――ご存じだろうか、別名でドクターフィッシュと呼ばれるこの小さな魚は好むか好まざるか、人の角質を食するのである――と触れ合うための天板が開け広げられた水槽だったり、磯臭い屋根の下に並んだ生簀を回遊する錦鯉を間近で見学できる場だったり、それなりに楽しめるポイントが幾つかあったことは事実だ。
とは言え、僕たちの内の誰かが新たな家族を売買しようと考えていたわけではなく、ここに顔を出した理由については、財布すら持たずに百円均一ショップやレンタルビデオ店を訪れる衝動とさして変わりはしなかった。右から左に非日常を流す、それだけが目的であった。
ただ、千夏先輩に関しては、「こいつは生物デッサンに向いてるな」などと呟きながら毒々しい色合いの蛇やトカゲを品評していたため、彼女の懐と家庭と余暇の事情にそれぞれ不都合がなかったのであれば、僕たちが本園から出る際にメンバーが一人か二人増えていた可能性を完全には否定もできぬ。
ちなみに、雪花が千夏先輩のそのような世迷言を耳にすることがなかったことに関しては言うまでもないだろう。雪花は爬虫類や両生類の納められた飼育箱には、大きく迂回するかのように断固として近付かなかったためである。
しかしながら、雪花はペットショップ最奥では熱心であった。広めの空間が確保されたその部分は犬猫を専門とした一帯であり、彼らのリードやケージの他、頑丈で色落ちもしにくい実用性の高い遊び道具や、ともすれば人間サマの平均的一食よりも贅を尽くしているであろうフード類などがぎっしりと棚に詰められている。そして、壁際には硝子が埋め込まれており、反対側には手持無沙汰を発散すべく所狭しと駆け回る仔犬と、逆に惰眠を貪り微動だにしない仔猫が、それぞれ専用の個室を割り当てられていた。
雪花は膝を揃えてぐっと屈み、縦に三つ並んだ窓の一番下に目線の高さを合わせ、じっとその奥を見つめていた。
尻尾を身体の内側へと抱え込み、呼吸でぷくぷくと大小を繰り返す三毛の毛玉は、人目も憚らずに熟睡し、無意識の愛嬌を振り撒いている。ネームプレートが伝えるには生後三か月とのことだ。ただ、僕の鑑識眼を経由すれば、その仔猫が生後一か月だと言われても、あるいは一年だと言われても、おそらく差は分からず、疑うこともしなかっただろう。
僕は雪花の隣に立ち、「猫が好きなの」と、かねてより気になっていたことを尋ねた。今日までの彼女との交流において、その手持ちには猫の形が散見されていたためである。
「はい。とっても」
「飼っていたりは」
「一緒にいられればきっと素晴らしいんでしょうけれど、残念ながら今まで一度も」
「それは、喘息のあれこれが原因かな」
「私の喘息はアレルギー性ではないので関係ないのですが……両親が心配性で。抜毛とかダニとか、そういったもので喘息が悪化しないかと過剰に恐れているのです」
「念には念を、ってやつかな」
「予防と、正しく恐れることは、本来別物なんですけどね」
「僕の母親も極端な心配性だから、煩わしく感じる気持ちがなんとなくわかるよ」
「そうですね……ただ、感謝もしています。たとえ少し過分だとしても」
「僕はただただ面倒なばかりだけど、そういうものなのかな」
「そういうものなのです」
いつだったか、かほ姐さん――話題に出すのは久しいので再掲しておこうか、彼女は僕の母親の友人で、最寄りの図書館に勤める「変わり者の」司書だが、それ以上が気になる場合は必要に応じて第十章にもう一度目を通してもらいたい――が、僕に対して述べたところが思い出された。
どうやら、親が子をやたらと気にかけること……これに関してはかほ姐さんが述べたようにある程度は普遍的なものらしい。もっとも、標本となる事例が今のところ二つしかないため、これを統計に基づいた信頼できる結論とするには性急でもあったが。
個室の奥の三毛猫が少し首を上方へと持ち上げながら、くあっと大きな欠伸を見せた。その様子を間近で眺めた雪花はくすっと笑ったが、直後、彼女もまた誘われるように大口を開くことになり、その口元をぱっと両手で覆ったかと思うと、照れ隠しのためのぎこちない別の笑みを僕へと向けた。
その運びが、僕が今までに見たあらゆる人の――現実でも、テレビの番組でも、インターネット上の動画でも構わない――動作よりも印象深く働きかけたことで、何故だか僕も恥ずかしくなり、ズボンのポケットに突っ込んでいた両の手をふらつかせたりして気を紛らわせた。
雪花が「あっちの子も可愛いですよ、見てみましょう」と言って立ち上がりながら話題を逸らそうとしたため、僕もこれ幸いとばかりに賛成して後ろ姿を追った。
ポケットから手を離した折、抜き出した指先を青白い砂がざらざらと伝って足元にぱっと散らばったが、フロアの地の模様と色合いがよく似ており目立たなかったため、僕はそのまま三毛猫の寝床前を後にした。
それらを経て、僕たちが遂に金獅子ペットランドの全てを堪能したのは、午後の五時を回るところであった。
解散するにあたり、僕は用を足すためにゲームセンターの端に用意されていたトイレに立ち寄った。雪花と千夏先輩もドクターフィッシュについばまれた手を洗いたいとのことで途中まで同伴したため、僕は気を急かされることなく悠長に事を済ませていた。
ちなみにシュウはこの時、道中で購入したペットボトル飲料を処理したかったのか、ゲームセンターの壁に寄りかかって中身を流し込んでいたはずだ。
さて、そこで少し遅れて力也が立ち寄った。彼もまたシュウと同じく、手持ちの飲料を空にしていたのだろうが、それを済ませたのであろう。
実のところ、僕は小を排出する際、左右に人が立っているとどうにも落ち着いて事を進めることができない性分であった。読者の中にも――肉体的な性が男に寄っている者については特に――共感を得られるところが少しでもあれば、僕としては仲間ができて嬉しい限りだが、それについてはほどほどにしておこう。
小便器は六つか七つほど横一列に並んでおり、この時の僕は出入り口から見て一番奥のひとつをパートナーとしていたのだが、他の全てが空席にもかかわらず力也は僕のすぐ右のひとつに向き合ったわけだから、どれだけか気心が知れた相手が隣だとしても、僕はやはり集中力を欠いてしまい、もたついた。
一方、力也についてはそのようなことは小事とばかりに悠々と目的を進めていたようだが、その最中に彼の方から「なぁ、海春」と不意に切り出してきたのである。
「ありがとうな」
「今ので小便が完全に引っ込んだよ。どうしてくれるんだ」
「む、すまん」
「それで、急にどうした」
「こんな機会を用意してくれたことに対して、だ」
「……さぁ。何の話をしてるんだ」
「俺が消極的なことを気にかけて、アキと手を組んでいたんだろう」
「大胆な仮説だな」
「鈍い俺だが、それくらい察することはできる」
「……わかった、正直に話すよ。力也の想像通りだよ……悪かった」
「謝らなくていい。俺は感謝と、確認がしたいんだ」
感謝についての根拠は既に僕の中で薄らと想像がついていたが、確認という言葉が出てきた理由についてはよく分からなかった。
「今日一日で完全に理解した。俺は彼女に惚れてる」
……惚れてる、ね。そうか、やはりか。
「俺はこの後、告白したいと思っている」
……お前は本当に馬鹿らしくなるほど剛直で、羨ましくなるほど勇ましいやつだ。
「だからこそ今、尋ねたい。海春よ。お前はどうなんだ」
……どうして僕の名がそこで出てくるんだ。
「これがお前とアキの謀だろうとも、俺は抜け駆けはしたくないんだ」
……何が言いたい。
「俺が見た限り、お前も彼女とは随分と懇意にしているように思えたんだが、違うか」
……同じ美術部に所属しているんだ、平均より仲良くしてもおかしくはないだろう。
「そう思えたからこそ、これが抜け駆けになりはしないかどうか、確認しなければならなかったのだ」
……回りくどいな。早く核心を話して、僕に落ち着いて小便をさせてくれ。
「海春よ。お前は彼女のことが好きか?」
……僕が、雪花のことを?
話し相手が無言であることを良いことにさんざ捲し立てた力也は、宇宙の彼方に浮かぶブラックホールよりもなお重量級の問いを僕へと投げかけてきた。
それは僕が今までに無意識で避けていた自己問答と全く同じものであった。
その問いに否定しても、肯定しても……僕に不都合が生まれることは必定であった。故に、僕はそもそも議論すら放棄して、考えないようにしていたのである。一度でも真剣に取り組んでしまえば、今後は二度と無視できぬものに成ってしまうと、本能が気付いていたためである。
なのに、今はその問いが避けられぬ一枚板となって目の前に立ち塞がっている。
これをどう処理しようとも、面と向かった事実は以降変わることなく残り続け、これからは些細なきっかけに惑わされるたびに相対せねばならなくなる。
そのような状態に陥りたくは、なかったのに。
「僕は……」
力也は真っ直ぐに僕の顔を見据えていたが、その瞳を直視したまま口を開くことができず一度目を伏せた。
「僕は、どうとも思っていない」
そう答えると、力也は「そうか」と返し、次いで「こんな場所で尋ねてすまなかった」と言いながら手を洗い、先にトイレを後にした。
僕はとっくに用を足し終えていたにもかかわらず、その場で突っ立って暫し動くことができなかった。
力也が雪花を好いていることは前々から分かっていたことではないか。それを改めて当人の口から聞き、僕とシュウのお節介が功を奏した。全てが以前から予期されていたことであり、脇道に逸れることなく一直線に、最短距離で実を結んだという、それだけであった。
ただ、僕にとってこの一連は、失火ではなく点火であった。
僕は心の奥底にこつこつと積み重ねられていた着火剤の存在を先の話を通じることによって認め、力也より遅れて火が点くに至ったのである。
僕は先を締めくくるために「どうとも思っていない」と返した。
それは熟考の果てに本心から出た結論ではなかった。
目の前の厄介を振り払うために出たその場凌ぎの回答であったことを、一秒、また一秒と時が流れるにつれて自覚し、悔いが積もり始めた。
そのような後悔の灰が足元に分厚く堆積し、僕は靴先でそれらを分けながら外に出なければならなくなったが、当時の僕は蹴散らすだけの元気も覇気もなく、どうにか足を動かしてトイレから身体を出したのは、力也から遅れること三分程であった。
「よう。なっがい用足しだったな」
トイレの出入口の壁にはシュウがもたれかかっており、デリカシーの無い一言をまずは投げて寄越した。手元には何も持たず、彼がゴミ捨てを終えて僕を待っていたことが判断できる。
「知ってるか。膀胱にはリットル単位で尿を溜めることができるんだ」
「今日は暑かったからな。そんなに水を飲んでたのか」
「いいや。ちょっと、力也と話をしていただけさ」
「ふぅん」
力也が僕たちの思惑について気付いていたという部分について触れると、シュウは「へぇ、あの力也がねぇ」と感嘆した。その驚きはどれだけか淡泊なような気がしたが、僕よりも更に三年近くは力也との付き合いが長いシュウからすれば、遅かれ早かれ当人にバレるということもまたどこかで織り込み済みだったのかもしれない。
シュウはちょいちょいと手招きし、自動ドアの透明越しに外へと注目を誘った。
空はまだまだ青かったが白い雲の数は昼よりも増しており、日光は勢いを緩め、合わせて気温も少し穏やかになっていた。もっとも、それは冷房が十分に行き届いたゲームセンターの内部ということが影響しており、実際に外気へと飛び込めば季節相応の温度が等身大に感じられることだろう。
集客の峠は超えており、館内にも屋外にも客の姿はあるものの、混雑とまではいかないまでに数を減らしていた。館の正面の広がりを客たちが歩いているが、それらを背後にする形で力也と雪花と千夏先輩が話し込んでいた。内容は当然聞こえなかったが、会話が朝よりも軽快に弾んでいるその様子は、本日の集いが無駄ではなかったことを無音ながらも如実に物語っている。
「良い雰囲気、だよな」
「あぁ。そう、だな」
「どこか不満なところでもあるのか」
「どうしてそう思うんだ」
「いいや、別に」
シュウは、俺らも合流するかと自動ドアを反応させた。
僕は先の力也の決意を思い出しながら、その無機質な動きを眺めた。
外に出たくなかったのは、気温の高さに依るところではなかった。




