第二章 対面
その日の宇佐美海春が何をしていたかについて、あまり正確には記せない。
僕にとってその日はありふれた高校二年の六月中頃というだけであって特別な思いや感慨深さは持ち合わせておらず、何か後世に語り継がれる世界的な事件事故その他一切が学び舎の外界で起きていたかというとそうでもなく、よって自身の一挙手一投足を余すことなく記憶するまでもなかったのであろう。
しいて言うならば、チューブから絞り出した青のアクリル絵の具を直接塗りたくったかのような晴天から挿す午後の日射しがつむじを温めることにより、教室窓際の最後尾から二番目の席に閉鎖社会的地位を約束されていた僕は相当な眠気を抱えていたということくらいだろうか。もっとも、午後からの授業の大抵に熱心を覚えないのは、その日の天候にかかわらずほとんど毎度のことではあったが。
だが、それでもはっきりと覚えていることがある。
午後一番の授業――地理だったはずだがそれはどうでもよいことだ――を受け持つ教師と連れだって、僕のクラスの担任である珠洲谷も何故か黒板の前に立ち並び、日に焼けてよく焦げた両腕を腰に添えながら何やら二言三言宣言した後、彼が開け拡げてからそのままの状態だった教室前方の扉へと、生徒たちの注目を惹かせたのだ。
室内がにわかにざわめく中、こつこつと身を削った白墨の痕を背にしたか細い声で転校生が自己の名を紹介した矢先、空気を読むことを知らない講師陣営による授業開始を催促する差し水によって生徒たちの興が無理に削がれるまでの一連の流れを、今でも鮮明に思い出すことができる。
机に頬杖をついたまま、担任教師に誘われて教室へと足を踏み入れた彼女を一瞥した瞬間、頭の中でぱちりと黄色い火花が散ったような気がした。
手垢のついた一目惚れの表現のようだという感想を否定はしないが、この時の僕にはそういう感情はなく、ただなんとなくそんな気がしたという事実をありのまま述べているだけだと強調したい。それとは別に、今となっては、この脳内の火花が恋慕の火打石から発せられたものでは断じてなかったと、顔を真っ赤に染めながら徹底して反論するつもりもないということも、予めここで示しておくことにしよう。
想像に難くないとは思われるが、この転校生については後々において長々と述べることになる。それも魔法の言葉を僅かに綴っただけのメモ紙を手にした便利な端役としてではなく、この取り留めのない話をばらばらに散逸しないようひとつに纏め上げる綴じ紐ほどに重要な存在として紹介することになるだろう。
とにかく僕は、黒板の濃い緑に溶け込む真っ黒な長髪を揺らしながら、手にした白墨とさして変わらないのではないかと思うほどに白い腕をもって「白金雪花」と刻む彼女と、そのときに対面した。
いや、対面というには少々大仰なところはある。彼女からすれば教室の生徒全員と顔を向かわせたのであって特定の誰かと出会ったというにはあまりに粗雑な物言いであろう。また、僕の方にしてみても、一瞥した瞬間に受けた「なんだか不健康そうな人だな」という余計な心配を――後々のところ余計でもなんでもなかったと知れたが――黙って呑んだ後に手元の教科書をぱらぱらとあてもなく先読みする作業に耽ったため、ここにおいて個人と個人が対面したと表現するにはやはり大仰とするほうが自然であろう。
彼女の手短な自己紹介が済んでからは速やかに授業へと移行したために、教室最後尾の真ん中の席に彼女が腰かけて以降のことは印象に残っていない。
次に明確に記憶しているところは、この地理だったか何かの授業が終わった後、教室中の女子達が、都会から来たというこの新顔の席へと向かって、湧きたつ興味を隠そうともせずにどやどやと詰めに動いたところまで早送りする必要がある。
今振り返ってみれば淡泊で特筆すべきようなことではなかったのかもしれないが、とにかくこの日からいろいろと事が動き始めた件については疑うところを見いだせないため、この取り留めのない話の書き出しには最も適していることだろう。