# 第5話 影の中は、誰にも見えない
審問の翌日、学園の空気は変わっていた。
「リオン、おはよう」
「昨日は、よくやったな」
廊下ですれ違う生徒が、俺に声をかける。先日まで「平民の分際で」と笑っていた顔ぶれだった。手のひらの返り方が、あまりに早い。
「気持ち悪いでしょう」
セレスティアが、隣を歩きながら言った。
「少し」
「私もよ。昨日まで平民と笑っていた人が、今日は英雄扱い。呆れるわ」
「令嬢は、前から俺を庇ってくれてました」
「当然よ。私の影にいる人だから」
放課後。セレスティアに呼ばれたのは、学園の温室だった。
「今日は、影に隠れる必要はないわ」
「いいんですか。誰かに見られたら」
「見られて困ること?」
彼女は、バラの前で振り向いた。日差しの中の令嬢は、やはり綺麗だった。影の中では分からなかった、ドレスの白さ、髪の色、目のかたち。
「今日は、あなたに渡したいものがあるの」
「俺に、ですか」
「目を閉じて」
俺は目を閉じた。花の匂いがした。それから、冷たい指が、俺の手のひらに何かを置く。
「開けて」
手のひらには、小さな黒い石のペンダントがあった。
「影石よ。私の影と、あなたの影を繋ぐもの」
「そんなものが、あるんですか」
「ローズヴェルト家に伝わる品よ。これを身につければ、あなたがどこにいても、私はあなたの影を感じられる」
「……俺が、どこにいても」
「そう。あなたが影に隠れても、私だけは分かる。……もう、探さなくて済むの」
彼女は、少しだけ照れていた。氷の令嬢が、頬を染めていた。
「令嬢、これ、貴重なものでしょう」
「ええ。だから、あなたに」
「平民の分際で、こんな――」
「また、その言葉」
彼女は、俺の手のひらに自分の手を重ねた。冷たい指。だが、重ねた手のひらだけは、温かかった。
「ねえ、リオン。今夜、影に来てくれる?」
「はい」
「今度は、私の影に。あなたの影じゃなくて」
「……どう違うんです」
「あなたの影の中は、あなたの場所でしょう。でも、私の影に来てくれたら、それは私の場所よ」
彼女はそう言って、少しだけ笑った。温室のバラより、ずっと綺麗だった。
夜。俺は影石を首にかけて、令嬢の部屋へ向かった。
「入って」
部屋の中は、月明かりだけが灯っていた。セレスティアは、寝間着の上に薄いガウンを羽織っている。ドレスより、ずっと無防備だった。
「令嬢、その格好は」
「部屋の中なのだから、構わないでしょう」
「……俺がいます」
「あなたにだけよ。誰にも見せないわ」
彼女はベッドの端に座り、自分の影を指差した。足元の影が、月明かりに薄く伸びている。
「ここに、来て」
俺は、彼女の影に足を踏み入れた。影が、俺を受け入れる。彼女の影は、俺の影より温かかった。
「ほら、やっぱり」
「何が、ですか」
「あなたの影は冷たいのに、私の影の中にいるあなたは、温かい」
「……そういうものですか」
「そういうものよ。あなたが、私の場所にいるから」
影の中、彼女の顔が近い。寝間着の裾が、俺の膝に触れている。影石が、胸元で小さく揺れた。
「リオン」
「はい」
「今日、審問で、あなたを庇った理由、分かる?」
「令嬢が、正義感の強い方だから」
「違うわ」
彼女は、少しだけ身を乗り出した。影の中、彼女の吐息が、俺の頬にかかる。
「あなたの影に、他の誰も入れたくなかったから」
「……それ、は」
「私の影にも、他の誰も入れないで。約束よ」
俺は、頷くことしかできなかった。声を出したら、何かが壊れそうだったから。
「約束、して」
「……約束します」
「よろしい」
彼女は、満足そうに笑った。それから、俺の首の影石に、そっと触れた。
「これで、あなたは私のものよ」
「平民の分際で、恐れ多いです」
「その言葉、いつになったら消えるの」
「……令嬢の前から、消える日は来るんでしょうか」
「来るわ。私が、消してあげる」
その夜、俺は令嬢の影の中で、朝まで過ごした。
彼女は、影の中の俺に気づきながら、何も言わなかった。ただ、時々、寝返りを打つたびに、俺の名を呼んだ。
「リオン」
「はい」
「そこに、いる?」
「います」
「……よかった」
俺は、影石を握った。冷たい石が、彼女の体温で、少しだけ温かくなっていた。
――影の中は、誰にも見えない。だが、彼女だけは、俺を見つけてくれる。




