# 第1話 影の中から、こんばんは
今日も俺は、令嬢の影にいた。
影が薄いせいで、誰にも気づかれない。平民の分際で、と笑われて三年目だ。
だが今夜は、違った。
夜の貴族学園は静かだった。寮の廊下に、リオンの足音だけが響く。
「リオン、そこにいるの?」
セレスティア・ローズヴェルト。学園一の才女で、氷の令嬢と呼ばれる侯爵家嫡女。今日も彼女は、俺にだけ名前を呼ぶ。
「はい、すぐ後ろです」
「気配が薄すぎて、いつも探すのよ」
彼女は振り向かない。振り向かなくても、俺の位置が分かるらしい。それが、少しだけ嬉しかった。
「今夜は、部屋まで頼むわ」
「護衛、ですか」
「平民の分際で、と笑う人もいるでしょうね」
「……笑われ慣れてます」
「私は笑わない」
短い言葉だった。だが、その一言で廊下の温度が変わった気がした。
異変に気づいたのは、曲がり角の手前だった。
影が、動いた。
床に伸びた俺たちの影とは別に、もう一本。窓から差し込む月明かりの中、暗殺者の影が令嬢の足元へ伸びていく。
「伏せて!」
叫ぶより早く、俺はその影を踏んだ。
――影縫い。
相手の影を踏み、縫い止める。Fランクの役立たずと笑われたスキル。影を踏んでも何も起きない、と。
「――動けない、ですって?」
窓の外で、暗殺者が焦る声を上げた。影を縫われ、身体が縫い止められている。
「なぜだ、平民のスキルで……!」
「平民の分際で、すみませんね」
俺はもう、令嬢の影の中にいた。影から上半身を出す。至近距離で、氷の令嬢と目が合った。
「あなた……今、影の中から」
「ええ。影が薄いので、影に溶けやすいんです」
「そんな話は聞いていないわ」
「俺も、今日初めて知りました」
嘘だった。三年前から知っていた。だが、言う相手がいなかった。
暗殺者は影に縫い止められたまま、悔しそうに舌打ちした。
「影を操るなど、前例がない……SSSランク、だと」
「さあ。Fランクとしか言われたことがないので」
「ふざけるな、この……!」
「ふざけているのは、どちらかしら」
セレスティアが一歩前に出た。その瞬間、廊下の空気が凍った。彼女の氷結魔法が、暗殺者の足元を白く覆う。
「令嬢に手を出した代償、払ってもらうわ」
「待て、私はヴァルモア家の――」
「知らないわ。そんな家」
冷たい一言だった。だが、その冷たさが、今は心地よかった。
暗殺者は氷に閉じ込められ、学園の警備に引き渡された。廊下には、俺と令嬢だけが残った。
「リオン」
「はい」
「あなた、影に入れるのね」
「……はい」
「いつから?」
「三年前から、です」
「なぜ、言わなかった」
「言ったところで、信じてもらえないと思ったので」
「平民だから?」
「影が薄いから、です」
彼女は少し黙って、それから小さく息を吐いた。
「愚かね」
「すみません」
「あなたが、ではなく。私が、よ」
セレスティアは俺の袖を掴んだ。氷のように冷たい指だった。だが、掴む力だけは、熱かった。
「もう少し、そこにいて」
「影の中に、ですか」
「あなたの影に。……私が、あなたを探さなくて済むように」
俺は影の中から、半分だけ顔を出した。
「Fランクの役立たずが、お傍にいても」
「Fランク? 今、影から出てきた人の言葉とは思えないわ」
「令嬢にだけは、そう見えるのかもしれません」
「いいえ。私にだけ、素顔を見せているのよ」
彼女はそう言って、ほんの少しだけ笑った。学園の誰も知らない、氷の溶けた顔だった。
「明日からも、影にいてくれる?」
「……平民の分際で、よろしければ」
「その言葉、禁止。私の前では」
「では、なんと」
「リオン。私の影にいて」
影が、静かに重なった。彼女の影と、俺の影が。縫い止めるでもなく、ただ、寄り添うように。
俺は小さく頷いた。声に出したら、震えそうだったから。
――反転は、始まったばかりだ。




