温かな雪
ずっとずっと、音のない世界で眠っていた。だからこの時、僕はこの瞼を持ち上げたんだろう。誰かが泣く声。それは耳の中に直接置いていかれるみたいに、すぐ近くから響いてきたから。
目を開けて眼前に広がるのは、真っ白な世界だった。なんだか懐かしく感じる反面、「かつて見ていた、全てを多い潰すような氷雪」とは違う、穏やかな雪原であるようにも思えた。
その懐かしさを確かめるために「かつて見ていた雪原」を思い出そうとしても、僕の中身は空っぽで、今目の前に見えている風景以外に何も認識出来そうにない。
僕は一本の細い枯れ木を背もたれに眠っていたようで、目覚めても身を起こす必要はなかった。その僕の右手側に座り込んで、泣きじゃくる人がいた。
「知らなかったんだ……あなたがここに、いることを……だから、せめて……思い出だけでも、失いたくないと、思って……」
泣きながら、途切れ途切れの説明。聞き逃さないように、全力で耳を傾けて集中する。こちらも起き抜けでなんだか頭がしゃっきりしていない中でのそれだから割と必死でそうしなければならなかった。
「ここ」はこの星の真ん中で、その内側。どうやら死んでしまったらしい僕がここにやって来たことを、彼も含めて誰も知らなかったとか。ゆえに、彼は僕の持っていた記憶を「消失させないこと」を願って、死の寸前の僕からそれを抜き取って保持してくれていたらしい。
「どうしよう……早く、記憶を、返さないと」
そして彼が泣いているのは、僕から抜き取って彼が持っているその記憶を、現状では僕に返せる手段がなさそうだから。そういうことらしかった。
せっかく目覚めたんだしと思って、僕は立ち上がってみることにした。このタイミングで僕がさっさと動き出すことを予期していなかったのか、彼は驚いたようにびくっと肩を震わせた。目尻は腫れて痛そうに赤らみ、戸惑いの浮かぶ瞳で僕を見上げている。少々強引に、彼の手を引っ張って立たせた。よっこいしょ、って。
「僕はここで、どれくらいの時間眠っていたんだろう」
「……おそらく、……千年?」
「そんなにも長い時間、大事に持っていてくれたんだろう? 僕はそんなに困っていないから、方法が見つかるまではそのまま君が持っていてくれたらいいよ」
「そんな……困ってない、って?」
そんなことがありえるのか? 信じられない、と。表情にまざまざと浮かび上がる。
「何も覚えていなくても、僕の感情は知っていて、教えてくれているからね。『また君に会えて、嬉しい』って」
記憶を持っていなくても、彼の姿を見て、話を聞いている中で急速にこみ上げてきた。この感情は確かな歓喜に満ちていて、この状況でそう感じるということは、僕にとって彼はとても大切な人だったんだろうと。
「しかし……それではあなたは、彼女のことが思い出せないままになってしまう……」
彼女。その言葉を聞いて、心がざわついた。でもそれは嫌な感覚ではなくて、穏やかな波打ち際の潮騒のようだった。
「千年も離れていたその人に、今になって僕が『会いたい』と願ってしまったら、今を生きる彼女の自由を妨げてしまいそうな気がする。彼女が笑って、幸せに生きていける世界をこのまま続けていきたい。それこそが、僕にとって何よりの望みだと思うんだ」
記憶が空っぽなせいなのか、なんだか逆に朗らかで、気分が良かった。目の前に広がる、誰の足跡もついていない新雪のように。
せっかくなので一緒に歩かないかと誘ったら、引け目がちな眼差しながら、彼は小さく頷いた。
「そういえば、僕と君の名前はなんていうんだろう」
「あなたの名前はソウジュ。俺は……恥ずかしながら、この千年、あなたの名を借りていたから。もはや名乗れるものがない……」
「僕の名前を? なんだってそんなことを?」
彼はそもそも僕との再会を想定していなかったようだし、僕本人にその説明をしなければならないなんて考えてもみなかっただろう。ちょっとだけ恥じ入るように、目を泳がせながら、語る。
「あなたはこの星にとって何より大事な存在だったから、何もかもを失わせたくはなかったし……俺は、あなたのようになりたかった。いつだって、自分よりも他の命を優先して考えられる、強い心を持っていたから……」
「そうなのかい……? なんだか過大評価な気がするけどなぁ」
あなたに自覚がないのは自分のせいなのだけど、と前置きしながら、彼はちょっとだけ笑った。
「名乗れるものがないというのなら、新しく考えないといけないね」
「自分で自分に名付けるなんて、難しいな……」
「僕がつけてあげられたら良かったけど、残念ながら僕はまだ名付けられるほど君の情報を持っていないからね」
「……だったら、『サーラ』にしようかな」
「じゃあ、これからの君はサーラだね」
「うん……」
それから僕達は、終わりのわからないこの白い世界で、あてもなく過ごした。僕の記憶は未だにサーラの中にあるのだけど、感情が僕に教えてくれた。
冷たい雪に包まれた世界でも、誰かと一緒に歩けるなら、足に触れる雪は冷たくない。雪にさえ、温もりを感じられる。遥か昔の僕はきっと、そう感じていたはずだって。
【捕捉説明】
影の世界には最初から「地面」がありました。それは他の神竜達の誰よりも先に、ソウジュが影の世界(聖地=後のグラスブルー、の内側)に入っていたからです。この雪原はソウジュのための安息の地としてクエスが作り、影の世界の奥深くに隠していたため、他の神竜達はソウジュがここにいることを知りませんでした。