傷だらけのシホ
「はぁ、はぁ……、くっ、そ……」
オレを受け入れてくれた国。第二の故郷のようなグランティスの未来のために、神を殺す。覚悟はしていたし、そもそもこいつはまだ死んでない。だが、「殺すために、人の肉に刃を入れる感覚」はどうしようもなく、……自己嫌悪に、苛まれた。こいつだって、オレを殺すために相対してる、お互い様のはずなのに……。
さすがに弛緩して、太陽竜の腕は両側に落ちた。右手側に転がった神器を拾い上げる。
一番浅い切り方だった目の傷はすでに塞がりつつあるし、首もそうだった。ダメ押しでもう一度、魔法剣を振って首に切り目を入れる。傀儡竜になるまで、これを繰り返さないとならないのか?
あと……どれくらいで、そうなるんだ……。
「がっ……あ、ああああ゛あ゛あ゛っ!」
やりきれなくて、天を仰いだ、その瞬間だった。目の前が真っ赤になった。瞼の内側で、ぶちぶちと何かが千切れていくような音が響いてくる。
気が付いた時には、地面に肘をついて四つん這いに、うずくまっていた。口から、目から、絶え間なくどろどろとした赤い液が漏れ落ちて地面に溜まっていく。
言葉にしようがない苦痛が全身を支配していて、この赤いのを流し尽くして死ねたら、と。人間の体だったらそのはずだが、傀儡竜……神竜の体であるから、どんな負傷を与えられても、死ねない。
手に入れた神器だけは意地でも手放さなかったが、目的を見失いかけていた。この神器は、自分を終わらせるためのもの、ではなくて。
神器の刃を地面に突き立てて、限界すぎる体を支えさせて、膝立ちする。自分自身の吐き出すもので溺れそうになりながら、倒れる太陽竜を振り返る。立ち上がって、この神器を、急所に突き立てて。
「ぶっ、う゛、あ……うわああぁぁぁん……」
ゆるりと、身を起こした太陽竜と、まっすぐに目が合った。なんとも悲しげな顔でこっちを見て、すぐには動き出そうとしない。
ここまで、やったのに。あと一歩だったのに。もう、体が言うことをきかない。指の一本たりと、動かせる気がしない……。
敗北感とは違う、挫折感に、オレはガキみてえに泣いていた。
勝負に勝って、試合に負ける。剣闘場界隈の仲間から、たまに耳にした言葉だ。
オレは、さっき、太陽竜に勝ったはずだ。敗北感はない。だけど、望んだ結果は果たせなかった。
遠い未来、こいつに殺されて朽ちる友人達の運命を変える。そのためだけにこの一年間を費やしたのに、叶わなかった。
最強の神を倒すっていう目標だけを目指して、短い人生全てを捧げたのに、たどり着けなかった。
「最弱」が出せる全てを絞り尽くしても、「本当の最強」には、いつも敵わなかった。
みんなの前じゃあ気にしてねえって笑ったけど、悔しかったんだよ。
オレだって、費やした全てが報われたって思える最後に、辿り着きたかったよ……。
心臓のあたりの布はオレに突き刺された痕で裂けているのに、傷痕はすっかり消えていた。太陽竜はゆっくり、手を伸ばしてくる。オレの奪った神器を取り戻すためだろう……。
羨ましいな。オレは夢を追うために、おふくろが生んでくれた体を傷だらけにしたのに。そんな風に跡形もなく、消えるなんて……。
体を売って、客の子供を孕んで、ひとりで勝手に産んだあげくにその子供が傀儡竜。何という、罪深い女だろう。そう言っておふくろを見下げる人間はいくらでもいた。
「二十年しか生きられないから不幸だなんて、一体誰が決めたっていうのよ。その二十年間を誰より充実させて、幸せに生きられたらそれでいいじゃない」
おふくろは、言い訳じみた響きは一切なく、胸を張ってそう言い返していた。
幸せに生きるためにどうしたらいいかって? そんなの自分で考えなさいよ。なんて言わねえで、オレの人生の道標になるように、様々な情報に触れさせてくれた。おふくろを気に入っている「商売上の付き合いの男連中」には、そういう、上流階級の人間も多くいたからだ。
世界一の大賢者、ミモリ様っていうのは、そういう連中の誰かから相談を受けてオレの存在を知った。薄汚れた路地裏をぶらついてたオレに声をかけて、自分の住処を教えて、勉強のためならいつでもおいでと言ってくれた。
「神への信仰や宗教に頼ることを忌避する者もあるけどね。君のような、限られた時間をいかに生きるかという上では、大いに参考になるとボクは思うんだよ。十神竜とは『この世界に生きる者に、絶対に必要な要素』を振り分けて構成されているのだから」
ミモリ様の部屋で、子供向けに作られた、「十一神竜の絵本」を読んだ。前半は十神竜の説明で、後半は十一番目の傀儡竜が作られてからの「はじまりの神竜戦争の伝承」っていう構成だ。
太陽竜は世界、白銀竜は大地。規模が大きすぎて、たった二十年のオレにはどう考えても相手出来ねえな。
夢幻竜は安息、天空竜は自由。どうせ逃れられない終わりを迎えるだけの命なら、無理せず楽して生きようやってか。それはなんだか、嫌だな。そんなの、おふくろがオレを生んだ意味なんか、最初からなかったみたいになっちまう。
断罪竜は知的探求で、世の中に貢献する。成人してからたった五年、研究職に就いたからって、意味ある何かを残せる段階までいかなさそうじゃないか。
源泉竜は、創造。物語を描くっていうのは自分のためっていうより、それを求める誰かのための行動って気がする。人より短い時間しかないオレには、他人のために何かしてやりてえって欲求は、ていうかゆとりがなかった。
母神竜や月光竜は論外だし、風神竜は何なのかすらよくわかんねえ。
巨神竜。力と感情を司る神。
短い命だから、その全てを、自分の感情のままに使い尽くしたい。おふくろが生んでくれた体をめいっぱい活かして、強くなって、力を示して。オレの生まれてきた意味を、生きた証をこの世に残したい。
うん。オレが一番、信じられる神様は、……。
「そう。巨神竜様を信仰して、強くなるって決めたのね。あなたが旅立つその時まで、あたしは全力で手伝うからね」
大人になったら、巨神竜の治める、ここからうんと遠い国へ行く。グランティスで剣闘士になって、巨神竜と戦って、勝つ。そうと決めてからは、故郷での時間は全てそのために費やした。
道場に通って、良い師匠にも出会えた。実践だけではなく、武器の研究にも熱心な人だった。巨神竜の神器と戦うなら十文字槍っていう発想も、その人からの提案だ。
「母親が体を売って得た金で神聖な道場に通うなんて、恥ずかしいと思わないのかね」
そうやって虚仮にする奴も多かったが、槍の腕を磨いて打ち勝って、黙らせてやった。
もうすぐ成人を迎えるので、旅立ちの準備をしていた時。おふくろは唐突に告白した。
「あなたの父親はわからないって言っていたけど、実はここ数年で確信が持てたのよ。声変わりしてからのあなたの声が、その人にそっくりだったから」
その客とはまだ関係が続いていた。王族の末席の落ちこぼれで、爪弾きになっていて、寂しさからおふくろに頼るようになった王子だという。
オレは王子の子供かもしれないと本人に気安く伝えたら、はにかみながらこう答えたんだって。
……嬉しいなぁ。あなたの子供が、僕との間の子かもしれないなんて。会わせてもらうわけには……いかないよねぇ……
会いたい気持ちは一切なかった。絶対的な階級制度の国の王族に生まれておいて、下流の商売女との子供を無邪気に喜べる。そういう人がオレの父親だって知られただけで、満足だった。
別れの日。「またな」ではなく「さようなら」と、おふくろに伝えた。彼女も同じ気持ちだったから。
「さようなら、信歩。巨神竜様の国へ行って、彼らを信仰して生きていくと決めたのなら、もうこの街に帰ってきてはダメよ。最後はそっちの土の中で、安心して体を休められるように。自分を信じて歩き続けなさい」
太陽竜の指先は、細かった。数百年に渡る戦いの中で、やつれて疲れ切っているみたいに見えた。
その手のひらが、自分の吐き出した赤いのと、太陽竜を散々に切りつけた返り血で汚れたオレの頬を挟んでいた。
「傀儡竜……君を苦しめる痛みも、それ以外の全ても……何もかも、俺のせいだ」
太陽竜は、涙こそ流していないが、青い瞳は悔恨と苦悩に揺れていた。
間近にその言葉を聞いている時だけは、オレの全てを蝕む神罰の苦痛が、遠のいているように錯覚した。
「君達を生み出したことなのか、それとも最初からなのか……一体、どこから間違っていたのか。間違っていなかったのか。何度も繰り返し、考えてきたけど……俺には、もう、わからないんだ……」
今のオレは、傀儡竜だから……遥か彼方、神話の時代。傀儡竜ミラー=ノアが聞いた、神々の声がどこかから聞こえてくる気がした。何を言ってるかまではわからないが……。
傀儡竜……オレ達の見舞われた全てには、因果があって……この世界を作った最高神さえ、後悔の中で、苦しんでるんだなぁ……。
オレは、疲れ果てていた。もう、何の抵抗もしないで、ただただ休みたかった。
その気持ちが通じたのか偶然なのかはわからないが、太陽竜はオレを神器から離して、背中を腕で支えて、血だまりのない地面に仰向けに横にした。
今夜は月が細すぎるから、満天の星空が見えて……暗い空の中にぼんやりと、レナの姿が見えた。傀儡竜になったから、神竜だったらみんな持ってる、千里眼。そいつが、今現在のレナを見せてくれたんだろう。
オレのために祈らなくていいって言ったのに、寝台の上で、熱心に……手を組んでいた。レナはオレの頼みを聞かなかったが、オレだって、戻るって約束を守れなかった。お互い様だな……、お互い……。
……いや、レナはオレに「愛してる」を伝えてくれた。何度も。オレは同じ言葉を返せなかった。お互い様じゃ、なかった。
今になって、後悔に苛まれた。目からはますます赤いものが流れ出て、顔を汚しているんだろう。
伝えておけば良かったなあ。オレも、おまえを誰より愛してるって。
オレのいなくなった後にレナがどうするかなんて、本人に任せればいいんだから。なりふり構わずに伝えておけば良かったって……。
血に濡れた赤い手が、オレの瞼をそっと下ろして……何も、見えなくなった。それがオレの、二十年っきりの人生の終わりだった。