あなたとの時間は、全てが宝物のようだった。
シホの体が「生まれてから、二十年が経過した時」に、傀儡竜の封印は解かれて神罰が下されます。幸い、シホのお母様は彼が誕生した時刻を覚えていました。正午過ぎから陣痛が始まり、日付が変わった直後に誕生したのだと、シホはお母様から何度も聞かされたのだそうです。
誕生日当日の、二日前の朝。わたくしとシホは王宮の門前にふたりで並んで立っていました。これから誕生日前日の夜に、シホが最後の戦いに出向くまで。ふたりで最後の時間を過ごすことにしたのです。わたくしの悪阻の症状は全快ではないものの嘔吐の頻度は落ちてきて、以前よりは安定して過ごせるようになってきましたから。
エリシア様とイルヒラ様は、体の構造上、シホの最後の見送りにはどちらかおひとりしか来られません。いえ、その場で体を交代すれば良いではないかというのは野暮ですよ? 別れ際の情緒が損なわれてしまうじゃないですか。
「シホがグランティスに来てから、もう五年になるってことかぁ……あっという間だったなぁ」
シホと最後にお会いになるのは、おふたりの相談の結果、イルヒラ様ということになったそうです。エリシア様がおっしゃるには、「イルヒラにとって、対等な友人に近い感覚で話せる同性っていうのは貴重だから」……以前、イルヒラ様も、クラシニアから来たレノ様のお話をしてくださった時に近いことを言っていました。人前ではお隠しになっているようですが、おふたりが互いに尊重し合っているのだと折に触れて垣間見えます。
「最後にもう一度だけ、確認するけど。本当に、太陽竜との戦いにひとりで臨むんだな? 巨神竜の手助けはいらないんだな?」
「ああ。オレもこれで、グランティスの剣闘士としての矜持がある。強大な相手だとわかってるが、オレと相棒だけでどこまでやれるかを試してえって気持ちもあるんでな」
「元をたどれば、俺達の未来を変えるためにシホは太陽竜と戦うって決めたんだよな。エリシアは国のため、人のために戦うことも多かったけど、巨神竜のために戦ってくれる人間はいなかった。エリシアが強すぎて必要ないからなんだけどさ。なんだかんだで、俺もエリシアも嬉しかったよ」
イルヒラ様は少し恥じ入るように笑いながら、「ありがとう」と言葉にしました。絶対的強者である巨神竜は、常に人々の先陣に立ち、庇護し、鼓舞する神です。ですが、やはり人間らしさもどこかに残っていて、いち個人として誰かが気遣って守ってくれることに喜びを感じる心があるのですね。
「……こっちこそ。オレの二十年の最後に、傀儡竜としてただ尽きるだけじゃない意義を与えて貰えて、感謝してるぜ」
最後にシホとイルヒラ様は、どちらからともなくごく自然に、別れの抱擁を交わしました。
ほんの一日と半分しか使える時間がないのですから、少しでも多くの場所を巡って、いつもとは違う特別な思い出を残す。そういう方法もあったでしょうが、シホとわたくしの希望は一致していました。それは今までと変わりなく、シホの部屋で人目を気にせずふたりだけで過ごすというものです。
わたくしも今は身重の体だからというのも、事情としてはもちろん大きいのですが。シホの借りる宿の窓から見える、いつもと変わらない角度のグランティスの街並み。昼と夜とで趣の違いはありますが、人々が行き交い、笑い合って談笑したり、幼子が駆け回って遊んだり。
残された時間の全てを使って探し求めても、この窓からの眺めを超える幸せな景色なんて見つからないでしょう。この後、わたくし達にどんな運命が待ち受けようと。あなたとふたりだけで眺めたこの景色を、心に刻もうと思いました。いつかわたくしの命が尽きる、その日まで。
そして、わたくしはその晩。ひとつだけ、今までとは違った、特別な思い出を残したいこと。その方法をシホに伝えて、付き合っていただくことになりました。
「へい、らっしゃーっせー! おう、シホりんじゃねえの……おおう!?」
「どうしたんよ、お父ちゃん……あっらー!? レナ様じゃねえの!」
「えっ、なになに? わぁー、ほんとだぁ!」
あの部屋の窓からは、広場を囲む何軒もの飲食店が見えます。その内の一軒のお店の味と接客の雰囲気をシホはとても気に入っていて、特に事情もなければ毎食でもそちらでいただいていたのだそうです。
わたくしは顔を隠してシホの部屋に通っていましたし、食事も王宮で済ませた夜分のことでした。お話はうかがっていましたが、ふたりで共にそのお店を訪れたのは今夜が初めてで……そしてこれが、最後になってしまうのでした。
今夜はわたくしは平服で、顔を隠さずにシホと腕を組んでお店に入りました。最初に気付いた店主の男性とその奥方、店内のお客様がわたくしを見て驚愕の声を上げています。わたくしとシホの密着具合に気付くと、ひゅーひゅーと店内のあちらこちらから口笛を吹いて囃し立てる音が聞こえてきます。
「なんだよシホり~ん、いつの間にやらレナ様と仲良しになっちまって。隅に置けねえじゃんかぁ~」
「レナ様も今となっては、剣闘場の戦士ですもんねぇ。お姫様といったって、現役剣闘士とお近づきになることもあるでしょうよ」
「ねえねえ、レナさまぁ。だっこしてぇ」
「これ、おやめなさい! あつかましい!」
後で、店主夫妻のお孫さんであると紹介されました。四歳くらいの女の子がわたくしの足にぎゅっと抱きついて、甘えてきました。とてもかわいらしくて、このように接していただけて嬉しかったのですが。
「ごめんなさい。わたくしのお腹の中にはね、シホの子供が育っているところなの。だから今は、重たいものを持ち上げられなくて」
「そうなの? あたいのかあちゃんのなかにもね、さいきん、あかちゃんがすむようになったんだって。レナさまとおそろいなんてすごいね~」
えっへん! と胸を張る女の子の頭を撫でてあげたら、お返しとばかりに彼女はわたくしのお腹を小さな手のひらで撫でました。
「まあ……レナ様、そうなんですか? 良かったねえ、シホりん」
「あ……ああ、まあ。オレの故郷じゃあ、王族が庶民の男となんて、とんでもねえ話なんだが。この国じゃあよくあることなんだってな?」
「そりゃあそうさ! 強い人間は、グランティスの宝だからな!」
「そうですよ。わたくしは、自分で決めて、シホとの子を残したいと決めたのです。絶対に絶対に、無事に生まれますように。皆様もきっと、シホのためにお祈りしてくださいますよ」
わたくしがお腹を撫でながらそう口にすると、店内のお客様から拍手が起こりました。このような展開を想定していたわけではないのですが、店主さん達がそ接してくれたおかげでこのようになってしまい、こそばゆいです。ですが、もちろん、嬉しくてたまりませんでした。
身重のわたくしの体を気遣って、奥方様は店内の隅にある、布張りの長椅子の席へ案内してくださいました。本来、ここは小さな子供連れの家族のための席なのだそうです。
グランティスの一般的なお店料理の味を、わたくしはあまり口にしたことがありません。宮廷料理人のそれとはたぶん違うのだろう、と、漠然と想像していました。
シホが日頃、気に入って口にしていた料理を食べてみたかったというのもあったので、注文は彼にお任せしました。
注文した夕食の全てをいただいて、腹八分目というところでした。仕上げのエスプレッソをいただこうと奥方様にお声掛けしたところ、「ちょいと待ってくださいね~」とご機嫌な調子で答えて、彼女は厨房へ行きました。そして、持ってきたのはエスプレッソだけではありませんでした。
「剣闘場の広報で見たんだよ~。シホりん、あさってなんだろ? 誕生日、おめでとう」
ふたりで半分に切ったら、ちょうど良さそうな、小さな円のケーキでした。わたくし達の突然の来店で用意したものですから、特殊な飾りがあるわけではありません。チョコレートで全体を包んで真っ黒のケーキに、赤いソースで花柄とお祝いの言葉が書かれています。
「あ……」
わたくしはもちろんですが、シホも、全く想像していなかったのでしょう。誰かと祝うことなく、ひとりきり。戦場で迎えるつもりでいた誕生日を、前祝いしていただけるなんて。
シホと五年の付き合いのこちらのご一家が、シホの体の事情を知らないはずがありません。それでもなお、彼らは誕生日を祝いたいと思ってくださったということですね。
わたくしの目の中はじんわりと潤ってきましたが、それよりも先に、シホがわたくしを左手で抱き寄せて彼に密着させました。その手は震えていて、シホは奥方様から顔が見えないように、思いっきり俯かせます。わたくしは両手を伸ばして、彼の膝の上にあったシホの右手のひらを上から包み込みました。
「……みんな、ありがとう。……オレは、この国で。最後までグランティスで生きるって決めて、正解だったなあ」
ほんの数滴ですが、わたくしの手の甲には冷たい雫が降ってきました。ですが、もう一度顔を上げて奥方様を見た時には、いつも通りのシホの笑顔でした。頬はりんごのように、赤く色づいていましたけれど。
とっくに食事を終えて追加の注文もしていないというのに、「今夜は気が済むまでうちにいてくんな!」と店主が気遣ってくださいました。結果として、十一時の閉店時間までふたりで並んで長椅子に腰掛けてしまいました。
このお店にはシホと顔見知りのお客も多く、たくさんの人が彼に話しかけました。グランティス生まれの男性は女性好きの気質の方も多いので、せっかくだからとわたくしにも気安く粉をかけてくる人も少なくありませんでした。
注文をしていないというのに、数時間おきに「退屈してないかい?」などと言いながら、おつまみ程度の小皿料理を持ってきてくださいました。今夜は特別だからと、お代も求められませんでした。
余すところなく楽しい時間を過ごさせていただいて、体が安らかな休息を訴えるも、寝床はすぐ目の前にある宿屋なのです。なるほど、シホが「こんな生活も悪くない」と思うのも納得です。
今は大事な時期なので、寝間着に着替えてただ並んで眠るだけの約束でした。寝台に腰掛けて、おやすみの口づけだけ交わして、布団に入ろうとした、その時。
「……あっ」
「なんだよ。人が手をだせねぇ約束なのに、艶っぽい声出しちゃって」
不純な想像をしないで頂戴、せっかくの感動が台無しじゃないの。そう抗議すると、「感動?」と、シホは首を傾げます。
「今、ね。この子、初めて、わたくしのお腹を蹴った気がする」
「は~……どいつもこいつも、狙ったようにご奉仕してくれちゃってんなぁ」
今すぐに二度目が起こる保証もないですし、予定通りに横になることにしました。わたくしは寝返りの打てない時期ですし、シホは腕枕をしてくれました。こうすると彼も寝返りが打てなくなりますが、「ひとつくらい、妊婦の苦労に付き合ってやらねえとな……」と、切ない響きを帯びて呟きます。そこに込められた感情を察してしまいましたが、そ知らぬふりをします。
右手は自由なシホは、諦めて眠ると決める時機まではわたくしのお腹に触れていることにしたみたいです。ぽかぽかとお腹が温かいです。まるで、親鳥が卵を温めているみたいだと感じました。
「シホには悪いけど、この子の名前はもう、わたくしが決めてしまっているの」
「子供の名前っつうのは、母親の中から出てきて顔を見てから決めるもんだろ? おふくろはそうしたって言ってたが」
そういう人もいるでしょうが、生まれる前から決めている親だっているでしょう。聡明な彼らしくなく、自分の母というたった一例を基準にしてしまっているのが可笑しくて、わたくしは思わず小さく笑ってしまいました。
「この子の名前はね、シホ・グランティス。生まれたのが男の子でも女の子でも、絶対にそうするって決めたの」
「……んん~……なんだかなぁ」
まさかまさかの、なんだか不満げな唸り声を絞り出していました。驚いて、「どうしたの?」と訊き返してしまいました。
「いや……オレは結局、エリシアと戦って勝つっていう、この国に来て公然とぶち上げた目標を果たせなかったのに。王族のレナが関係してくれたおかげで成果もなく、名前だけはグランティスの歴史に残りました~みたいなの、些かかっこ悪くねえかなぁと」
成果がない? そんなはずはないでしょう。シホってば、他人のことに関しては聡くて洞察力があるというのに、自分自身のことに関してはたま~にとっても鈍いですよね。
「あなたが目標を持ってグランティスにやって来て、努力して、最後まで全力で戦った。そうやって実直に生きる姿で、わたくしはあなたに心を奪われた。どうかあなたの子供を産ませてくださいなんて縋るほどにね。これが、あなたの生き様が実を結んだ成果でなくてなんだっていうの?」
「そうやって文章にされるとなかなか、とんでもねえな」
「そうよ。とんでもないのよ、あなたっていう人は」
「誉められてんのかなぁ」
「当たり前じゃない。あなたがとんでもないからこそ、ついつい気になって追いかけているうちに、わたくしは目が離せなくなってしまったのだもの……」
などと語り合っているうちに、わたくしのお腹の内側で、何かが微かに動きました。本当に微かでしたので、彼の手のひらまで伝わったのかまではわかりません。ですが、わたくしは密やかに。「最初で最後かもしれない、親子三人での会話」、そんな思い出として後生大事に、記憶していくことにしました。