最後の一日、別れの夜
最後の一日。朝食だけはパニーノを買って船の噴水を間近に眺めながらいただきましたが、それ以外の時間は極力、あのお部屋で過ごすことにしました。昨夜のお店は昼間は食堂だけではなくお弁当も売っているので、昼食を買うついでに夕食も同じお弁当にしてしまいました。
シホは、自分が二十年しか健康に生きられないことを知って、計画的に暮らしてきました。それがいかに凄いことなのか、わたくしも身を持って味わっています。これが最後の一日かもしれないと思うと、余計なことを思考するゆとりが持てませんでした。ただ、ただ、怠惰に。あなたとふたりだけで過ごしたい。わたくしは、それ以外に何も考えられませんでした。
とても悔しいのですが、夕食をいただいた後に、わたくしは少々体調を崩していました。やむなく寝台に横になり、窓のさんに腰掛けて夜の街並みを眺めているシホの姿を眺めているうちに、いつの間にか眠りに落ちていて。彼と過ごせる最後の時間を浪費してしまったのです……。
そして、その時を迎えると、シホはわたくしの頭を優しく撫でて起こしました。そこで状況を把握したわたくしは、思わず涙目で、どうしてもっと早く起こしてくれなかったの? と。彼を少々責めてしまいました。
「レナには悪いが、こっちはおまえの寝顔をたっぷり堪能させてもらったからな。最後の時間の過ごし方としちゃあ、上等だったさ」
「寝顔なんて、面白くもなんともないじゃない……」
「寝起きに女中すらほとんど頼らねぇレナ様の寝顔をじっくり見られる、それも野郎なんて特権もいいところだろ。独占欲が満たされるっていうか、つまりは男の浪漫ってやつだよ」
「……理解は出来ないけれど、あなたが満足したというのなら、もうそれでいいわ……」
身を起こそうとしましたが、彼にやんわりと押さえつけられて、制止されてしまいます。
「オレが戻るまで、無事を祈ってる……なんてしなくていいから。大事にしててくれ」
「行ってしまうのね……」
部屋の中には時計がなく、わたくしには今、何時なのかわかりません。後に人づてに教えていただいて、この時は夜の九時だったのだそうです。
わたくしは布団の中からどうにか腕だけだして、彼の後頭部に触れます。なんてことはない、髪の毛の感触。ふと、この感触だけでもどうにか自分のもとに残せなかっただろうかなどと残酷な考えがよぎってしまい。申し訳なさ、いたたまれなさに、涙が浮かんできます。まるで、「どんな形であっても、戻ってくる」と言ってくれたシホを、信じ切れていないみたいじゃないですか。
予選会の選手であるためにきちんと鍛えてきたはずのわたくしなのに、お休みしてはや数か月。不調も重なって、ちっとも体に力がこもりませんが、どうにか彼の頭を引き寄せました。口は塞がず、ただ、お互いの額だけをこつりとくっつけます。
「あ、あなたは同じ言葉を、返さなくて、いいから……もう一度だけ、言わせて……わ、わたくしは、あなたを、あいしてる……いつまでも、ずっと」
「……ああ。もらってばかりで、一言も返せなくて、情けねえな」
「そ、そんな言葉を残していくなんて、いや……」
愛の言葉なんて求めないから、わたくしの思い出に出来るような言葉を残してよ。そうお願いしたら、わかりやすい愛の言葉なんかよりよっぽど難しくねえか? とシホは苦笑しました。
「だったらまあ、素直にな。この国に来て、レナに出会えて良かった。いつか、レナは剣闘士になるって夢を叶えられるって、オレは信じてるからな。頑張ってくれよ、これからも」
「……うん。絶対に、途中で諦めたり、しないから……わたくしのことを、見ていてね……ずっと……」
最後にもう一度だけ、口づけをして。彼が出ていく背中を見送って、扉が閉じるのを待ちました。
無事を祈ったりしなくていいから、安静にしていてと望まれたというのに、わたくしは身を起こしました。こればっかりは、彼の希望でも、安穏と眠っていたいと思えません。寝台の上に手を着いて、お尻を擦りながら壁に背中をつけて、布団の中で膝を丸めます。
そうして、体が限界を迎える、夜深きまで。わたくしはその場で祈り続けるのでした。




