堕ちた天才の最期
草原をマルベックは走る。
何度も転びそうになりながら、レンから少しでも離れようと必死に走る。
走るのに邪魔なローブは脱ぎ捨てた。元々老け顔だったが、今鏡を見ればこの短時間で更に老けた自分の顔が映るだろう。
(残存魔力はあと少し……一度〈転移〉を使えば完全に底をつくか……)
逃げるために何度も〈空間跳躍〉を使ったせいで魔力は底をつきかけている。自分が現在いる場所も、街と山脈の間に広がる草原のどこかということ以外、細かな座標は分からない。
どこにいてもあの少女が追ってきているような気がして何度も周囲を見回し、どこへ向かうのでもなく走り回っていた。どこかに身を隠し、安全に遠い場所へ〈転移〉をするために。
それだけを考え、〈転移〉一回分の魔力を残し、ただひたすらに、がむしゃらに、顔を歪ませながらも足を動かし続ける。
だが、そろそろマルベックは体力の限界を感じていた。身体能力が高くないというのは、己の肉体を武器に戦うことの少ない魔術師にありがちな弱点である。
魔法に頼らず体も鍛えておけばよかったと、過去の自分をこれほど呪ったことはない。
そうして走り続けてどれくらい経ったか。数秒かもしれないし、数時間かもしれない。時間の感覚さえ狂い始めていたマルベックは、進行上に大きな岩を見つける。
もうこれ以上は足が動かない。マルベックはその岩の裏に隠れることを決め、最後の力を振り絞る。
「ゼェッ、ゼェッ、ぐっ……ゴホッ、ウェッ!」
岩の影に崩れるように座り込み、マルベックは嗚咽混じりの咳をつく。
「ハァ、ハァ……なんという様だ……!」
ただただ恐れをなして逃亡したという事実を痛感し、マルベックは自分自身に悪態をつく。簡易的とはいえ身を隠すことができたことが多少の安心感をもたらしたが故に、恐怖以外の感情が甦ってきていた。
心身ともに疲れ果てたマルベックの脳内に、過去の出来事が映像のように浮かんでくる。
マルベックは生まれながらにして魔法の才能に恵まれていた。
魔法というものは訓練すれば誰しもが使えるわけではない。体内に流れる魔力を実感でき、それを制御できる者のみが様々な奇跡を起こす力である。
才あるものが己の魔力を感じられるようになるのは、一般的には十歳前後。そこから実際に魔法を発動できるようになるには数ヶ月から数年の勉強と鍛練が必要となる。
しかしマルベックは七歳という若さで魔法を扱えるまでに至っていた。
特別なことをしたわけではない。ただ何となく魔力というものを理解し、何となくそれを扱えるようになっただけだった。
それを、周囲の人々は天才と呼んだ。
そんなマルベックが王国一の名門リ・ヴェルア魔術学院に入学したのは当然のことであった。
そしてそこを首席で卒業したのも、マルベックにとっては当たり前のことだった。
卒業後、マルベックはリ・ヴェルア魔術学院で教鞭を取る道を選んだ。
自分の知識を活かしたいとか、後続の優秀な魔術師を育てたいとか、そういった高尚な目的などない。ただ自分よりも劣っている者どもが自分に教えを乞う姿を教卓から見下ろすことに、優越感を覚えていただけである。
そんなマルベックに転機が訪れたのは突然のこと。リ・ヴェルア魔術学院にとある人物がやってきたときだった。
その人物は魔法を研究、管理する魔術師協会の会長。
魔法に携わる全ての者の最高峰ともいえる存在。
そんな存在より優れていると証明できれば、名実ともに魔術師の頂点に君臨できる。そう考えたマルベックは、公の場で堂々と魔法の実力を競う魔術試合を申し込んだ。
しかし、結果は――。
本当の天才とはああいう存在のことを言うのだろう。それに比べたら、自分はなんと凡庸な存在なのだろうか。
マルベックが味わった初めての、そして最大の挫折であった。
上には上がいる。自分はなんと自惚れていたのだろうと。
そしてマルベックは絶望し――気がつけば学院を去っていた。
表の世界には奴がいる。そんな存在と一緒の世界にはいられないと。
――そうして、マルベックは裏の世界へと堕ちていった。
そんな過去のことを思い出したマルベックは、自分自身に対して皮肉っぽく鼻で笑う。
「堕ちてなお、絶望はつきまとうか……。どうやら私は、逃げることを許されないらしい」
「――分かってるなら、最初から逃げないでよ」
芯から冷えるような声が響く。
マルベックは止まりかけていた汗が再び吹き出すのを感じながら顔を上げる。
そこにいた絶望を前に、マルベックは凍りついた。
「全く、何度も何度もあちこち飛んでくれちゃって……無駄に時間かかっちゃったじゃないか」
「うわぁあああ!!」
凍りついた思考が融解した瞬間、反射的にマルベックは魔法を放つ。
だが難なくレンの剣に弾かれ、遠く離れた的はずれな場所に着弾した。
「……あ……っ」
レンの黄金の瞳がマルベックを射抜く。
その恐怖に圧され、意味の無い魔法を使ってしまった。もう〈転移〉分の魔力すら残っていない。
いや、ここまで接近を許した時点で最早魔力など何の意味もなさないものとなっていた。
「早くアルのところに戻りたいんだから、余計な手間を増やさないでよ」
凶刃がマルベックの喉に突きつけられる。そこから溢れる黒い力がチリチリと喉を焼いているようだった。
「……き、貴様……その力……その黒い力は何なんだ……!そんな力……聞いたことも見たこともない。一体どうやってそれほどまでの力を……」
絞められた首から絞り出すような声で問うマルベックに、レンは氷の表情のまま答える。
「知らないよ。ボクが生まれた時から……レンとしてこの世に誕生した時から、ずっと持ってるんだから」
「生まれた時から……持っていた才。……これが天から与えられた才能だというのか……!おのれ、またしても……!!」
同じだ。
本物の天才が持つ、凡人には決して到達できないような高み。
それをマルベックに思い知らせた魔術師協会の会長と、目の前にいるレンという少女は同じ場所にいる。
それは決してマルベックには届かない。届かないから絶望して逃げた。表から裏へと。
ならば、再び絶望したのなら、今度は一体どこに逃げ道がある?
それは最早この世には――
「ふ、ふぅざけるなぁあああアアァ……ガッ…………!」
一切の予備動作もなく、刃がマルベックの喉を貫く。
悲鳴もあげられず、喉から流れ落ちる暖かなものを感じながら、岩にもたれ掛かるようにしてマルベックは絶命した。




