第三章 エピローグ 黒仮面のない朝
王都には、ようやく朝の音が戻り始めていた。
砕けた石壁を積み直す槌が一定の間隔で鳴り、市場の端で、焼きたてのパンを並べる女の声が聞こえる。
焦げ跡の残る通りを走る子どもたちは、最初こそ崩れた壁の近くで足を止めたが、誰か一人が笑いながら駆け抜けると、すぐ後を追っていった。
白冠統合体との戦いから、ひと月ほどが過ぎている。
王都は元に戻ったわけではない。
塔の一部はまだ崩れたままで、名前を呼んでも帰らない人がいて、失った腕や脚を抱えた者たちは、新しい身体の使い方を覚えるところから始めていた。
それでも、誰かが火を起こし、誰かが鍋を掛け、誰かが今日の分のパンを焼く。
レンは、そうして続いていく一日を、以前より長く見ていられるようになっていた。
◇ ◇ ◇
王国は、黒い騎士の正体について、まず公表すべき事実だけを発表した。
黒仮面の技術詳細、アベル・ノワール、リリアの血、深淵接続、そして《ソーラーフレア》のことは伏せられた。知ればまた誰かが欲しがる。
奪おうとする。そう判断したのは、軍務院だけではない。
セツナも、フィオナも、レオナも同じだった。
公表されたのは、ただ一つ。
黒い騎士は、王国兵レン・ノワールである。
旧文明兵器に呑まれかけながらも、人類側へ帰還した戦士であり、王国は彼を兵器ではなく、一人の人間として遇する。
その告知が広場に掲げられた日、市民はざわめいた。
化け物だと言う者もいた。英雄だと叫ぶ者もいた。
命を救われたと泣く者もいた。
レンはその全部から逃げるように、南区訓練場の端で《グレイファング》の手入れをしていた。
「黒剣のレン・ノワール、ねえ」
横からカイが面白そうに言った。
まだ胸の傷は深く、長く歩けば顔色が悪くなる。だが軽口だけは、前より少し弱くなったぶん、妙にしつこくなった。
「やめろ」
「いいじゃん。黒剣のレン。分かりやすいし、ちょっと格好いい」
「普通のでいい」
「普通の十傑なんていないよ」
「まだ十傑じゃない」
レンがそう返すと、カイは肩をすくめた。
「推薦はされてるでしょ。ヴァルクさんの後継候補」
レンの手が、一瞬だけ止まる。
黒剣の刃に、空の色が薄く映っていた。
「……まだ早い」
「それ、周りが諦める理由にはならないけどね」
カイはそう言って笑った。
レンは何も言い返さず、布で刃を拭いた。
◇ ◇ ◇
訓練場の中央では、グラムが片腕で大盾を構える練習をしていた。
以前より動きは遅い。受けた衝撃を逃がす角度も、まだ荒い。
それでも、ガロが木剣を叩き込むたびに、盾は倒れず持ち上がる。
「違う! 腕で持つな、腰で受けろ!」
「……分かった」
「分かってねえ奴の返事だ!」
その怒号を聞いて、ティナが目元を押さえた。
「グラムさん、生きてるだけで泣きそうなのに、ガロ教導官が容赦なさすぎて別の意味で泣けます」
「泣くなら水も持ってこい」
リアムが横から言う。
ティナはすぐ振り返った。
「副長、そういうところですよ」
「何がだよ」
「こっちも泣きそうなのに、軽口でごまかすところです」
リアムは一瞬黙り、それからレンを見た。
「隊長が戻ってきたんだから、湿っぽい顔ばっかしてられないだろ」
ティナはそれ以上言わなかった。
ただ、レンの方へ近づき、いつもの明るい声を出そうとして、結局うまく出せずに小さく笑った。
「おかえりなさい、隊長」
その一言で十分だった。
レンは深く頭を下げる。
「ただいま戻りました」
リアムが鼻を鳴らす。
「真面目かよ」
「真面目だろ」
「知ってる」
三人は笑った。少しだけ泣きそうなまま。
◇ ◇ ◇
白梢の里からは、アリアの手紙が届いていた。
封じ場は大きく傷ついたものの、深淵遮断核への白い侵食は消え、里人たちは倒れた白い木を片づけながら、少しずつ以前の暮らしを取り戻しているという。
文の最後には、アリアらしい簡素な一行が添えられていた。
『今度は、ちゃんと自分の名前で来て。』
レンは小さく息を吐き、母の髪留めが収められた箱の横へ、その手紙を丁寧に置いた。
白梢の里は、もう知らない山村ではない。
そこには、自分の始まりを知り、今の自分を待ってくれる人たちがいる。
◇ ◇ ◇
王城の治療棟では、まだ多くの者が戦いの続きを生きていた。
エリナは右腕を失ったまま、片手で観測端末を操作する訓練を続けている。リゼットは左脚に固定具をつけたまま、座位で毒術式の細かな調整をしていた。
「立てないからといって、毒を流せないわけではありませんもの」
「その言い方、怖いです」
エリナが淡々と返すと、リゼットは少しだけ笑った。
ノルディアの病室では、イヴァンがまだ医師に怒られていた。
「三秒だけ力を使うと言って、なぜ内臓の傷が開くのですか」
「二秒だった」
「そういう問題ではありません」
病室の外でボリスが腹を抱えて笑い、あとで一緒に怒られていた。
白冠隊を解かれたルーファスは、長く続いた聴取を終えてようやく家へ戻り、駆け寄ってきた幼い娘を抱き上げると、涙ぐむ妻へただ静かに「帰った」と告げた。
シオンは王都を発つ前、レンに短く言った。
「次は負けない」
何に、とレンが聞く前に、彼は背を向けた。
サナは肩の包帯さえ飾りのように纏い、相変わらず妖艶な笑みで「次に会う時は、もっと楽しませてちょうだい」とだけ告げて去っていった。
ミレーヌは扇の奥で柔らかく笑いながら、レオナの方を見て言った。
「戦の勝負では引き分けにしておきますわ。でも、恋の勝負は負けましたわね」
レオナは返事をせず、ただ耳だけがわずかに赤くなった。
その場にいたカイが笑い、セツナが無表情で端末を閉じ、フィオナが疲れた顔で「患者同士で余計な刺激を与えないでください」と呟いた。
誰もが少しずつ欠けていた。
けれど、欠けたまま生きていた。
それが、レンには何より重かった。
◇ ◇ ◇
夕方、レンは王都外壁の上にいた。
修復されたばかりの石はまだ色が新しく、ところどころに古い焦げ跡が残っている。風は冷たく、遠くの森を揺らしていた。
隣に立つレオナの右腕は、まだ包帯に包まれている。
腕が残ったことをフィオナは奇跡だと言ったが、以前と同じように剣を振れるかどうかは、まだ誰にも分からない。
レンの視線がそこへ落ちた。
「見るな」
「……すみません」
「謝るな」
レンは黙って、外壁の下へ目を移した。
しばらく風の音だけが続いたあと、レオナが言った。
「お前は、もう勝手に消えるな」
レンは右手首を見た。黒い痣は消えていない。
眠っているだけで、いつかまた力を借りなければならない日が来るのかもしれない。
だからこそ、簡単な返事で済ませてはいけないと思った。
「約束します」
レオナが横目で見る。
「口だけなら斬る」
「それは困ります」
「なら、私の見えるところにいろ」
レンは一瞬、言葉を失った。
風が二人の間を抜けた。
レオナはしばらく何も言わず、それから不意にレンの方へ体を寄せた。
抱き締める腕は強く、不器用で、少し痛い。右腕を庇っているせいで形もぎこちなかったが、その温度だけは、深淵の底まで届いた声と同じだった。
レンはゆっくりと、彼女の背中へ腕を回す。
「はい。ここにいます」
レオナの指が、外套を強く掴む。
それ以上、言葉はなかった。
王都の空に、朝とは違う柔らかな灯りがともり始める。
レンの足元へ落ちた影は、夕陽の中で長く伸びていた。黒いままで、消えたわけではない。
けれどその影はもう、彼をどこかへ連れ去ろうとはしなかった。
隣には、離す気のない人がいる。
背後には、失った命から託された剣がある。
そして目の前には、傷だらけのまま、それでも明日へ続いていく街があった。
レンは、腕の中の温度を確かめるように、ほんの少しだけ力を込めた。
今度はもう、帰るのではない。
ここで、生きていくのだ。
王都の通りから、ふいに揚げパンの甘い匂いが風に乗って届いた。
その匂いに、鉄くずの山の前で笑っていたユウの声が、ずっと昔の朝のように胸の奥で響く。
――ちゃんと、助ける側、なれたじゃん。
レンはレオナを抱く腕を離さないまま、泣く代わりに、静かに目を閉じた。




