第四話
サーストンの駅舎は外から見た以上に広く思えた。十七年も使われていないのだ。ゼブルは漠然と壊れた椅子の山や散乱したプラスチックの包装を予想していたのだが、懐中電灯の光に照らされたのは、細くヒビが入った床に積もった砂と埃で、点々と虫の死骸が転がっていた。駅員が事務を執っていたらしい一室はなぜかドアとガラスがなく、つくりつけの棚が虚ろに口を開けているのがホールからも見えた。動乱で直接の被害を受けたのではなく、鉄道の運行ができなくなったために、職員が計画的に引き上げたのだろう。
レイガは壁際で毛布を巻きつけて寝ていた。駅舎に入るとすぐに、後に着いたのはそっちだからなと言って棒のように眠り込んでしまった。見た目以上に疲弊していたようだった。立っている間は全くの平常だったのは、レイガらしい頑丈さと言える。
例の少女は、レイガがどこからか見つけてきた古いマットの上で毛布をかぶっていた。ゼブルたちの物音にも無関係に、目を閉じて天井を見上げていた。薄く開けた顎は細く、呼吸と脈は正常に見える。ゼブルにも医学的な知識はない。危険な昏睡状態でない事は願うしかないが、痩せた顔つきを別にすれば、幼く静かな寝顔だった。
ゼブルはざらつく床に座り、携帯コンロで湯を沸かした。夜の見張りは暇と眠気との付き合いだ。茶がなくては始まらない。現在の状況としても、茶を注いだマグがあるのは当然と言える。持ち込むのを忘れていたら、雑音が出せない古いラジオのように不自然な夜になってしまうところだった。
虫の鳴き声と風の音にうんざりしているうちに、毛布が動く音がした。ゼブルが振り返ると、少女が目を開けてゼブルを見ていた。まぶしそうに顔をしかめたので、ゼブルは急いで懐中電灯を床に向けた。
「心配ない。まだ寝ているほうがいい」
彼女はぼんやりとした顔で、おとなしく毛布を引き上げて体を倒した。ゼブルにしても、自分が何を心配しているのかわかってはいなかった。お互い、寝ぼけているようなものだった。
トリスアギオンも動乱前のコンピュータもやってこないまま、退屈な時間が過ぎた。ゼブルは時計を確かめてレイガを起こした。
「異常なしか」
レイガが頭痛に耐えているような声で言った。
「残念ながら平和な夜だ。あの子が目を覚ましたが、すぐに寝たよ」
「意識不明じゃないのはよかった。もう一人交代がいれば楽だったな」
レイガは指の関節で額をこすっていた。
「ウォーレスが来たがっていた」
「せめてリプルにしろよ」
「リプルはどうかな。お前は普段の声がでかすぎる」
リプルはゼブルの特務班に所属する少女で、治癒の能力を持っている。連れてくれば役に立ったかもしれないが、この状況で完璧に守ってやれる保証はない。サーストンに同行させる事は始めから考えもしなかった。ゼブルは、レイガから奪った毛布をかぶって目を閉じた。ウォーレスの予言がまぶたの裏にちらついた。サーストンの敵はすでに何人も殺している。ゼブルはその人物と戦いたくないと思っている。ウォーレスの声を追い払うより早く、ゼブルは眠りに落ちた。
交代の時間にレイガに起こされた。
「茶を持ってくるとは思っていたさ。ただ、あのバッグの中に茶があるかどうか、賭ける相手がいなくて退屈だったぜ」
レイガがゼブルの持ってきたマグに口をつけながら言った。茶葉が多すぎた渋い紅茶だった。
「おかげで助かっただろう」
ゼブルは体から毛布を引き剥がした。頭の上に土嚢が積んであるような具合だった。単純に寝不足だ。掌で氷を溶かしたときのように、ゆっくりと現在の記憶が蘇ってきた。
懐中電灯は消されていて、うっすらと物の輪郭が見える程度に空が明るくなろうとしていた。例の少女は横向きに寝返って眠っていた。結局、トリスアギオンは、ゼブルとレイガの二人が守る場所に夜襲をかける度胸はなかったらしい。もっとも、向こうも眠かったのかもしれない。
「いい顔だな、ゼブル。今からDISの訓練を受けたら、面白い事になるんじゃないか?」
レイガがにたにたと笑って言った。
「あそこで落ちこぼれていたら、案外豊かな人生があったのかもしれんよ」
DISとは、かつてゼブルが所属した民間軍事組織で、訓練は厳しいものだった。教官の顔は、今でこそ懐かしく思い出す事ができるが、当時は憎悪ばかり感じていたという気がする。
「腕と足はどうだ」
ゼブルはレイガに尋ねた。
「感覚はだいぶ戻ってきた。いつもの三割程度だろう」
率直な答えだった。レイガの能力は遠当てという。身体の運動を起点にして力を増幅し、離れた場所に衝撃を加える事ができる。サイコキネシスの一種だが、身体動作が必須である点が特徴といえる。それだけに、レイガの能力者としての戦闘力は、レイガ自身の格闘能力に依存する度合いが高い。いつもと比べて、戦力として三割かそれ以下という事になる。トリスアギオンの下っ端ならばそれでも敵ではないが、ゼブルには他に気になる事があった。
「放置しても悪化しないか。即死でなければ回復できるとなると、ここの住人は逃げ出せば助かったはずだ」
「即死だったんだろう。でなけりゃ、逃げられない理由があった」
「それもわからない事だが、集落一つを全滅させた攻撃が、昨日はたった一人を半殺しにもできていない。不可解だ」
「俺が受けた攻撃と、サーストン事件の元凶は別だと言いたいのか?」
「そこまでは断定できない。ただ、被害の程度が違ったわけはあるはずだ。仮に、その攻撃が弱める方法があるのなら、知るべきだ。俺も死ぬつもりはないからな」
例の少女が事件の元凶である場合、彼女を町から連れ出すのに重要な要素でもあった。
「それなら、トリスアギオンの連中に聞いてみるか。俺がやられたとき、やつらはなんともなかったからな」
「情報を持っているなら、さっきはもっと強気に出てきただろう。いや、あのアンソンが情報を漏らすはずもないか」
トリスアギオンにしてみれば、ゼブルたちは突然現れた厄介者か、せいぜい利用対象でしかない。
「弱ったな。もう、やつらの仲間を三人ほど転がしちまった。覆面強盗でもやって、犯罪者組合の同志として認めてもらうか」
レイガが悩むように眉を寄せて言った。
「銀行を襲うのは、トリスアギオンの連中には嫉妬されるぞ。そんな大仕事をこなしたら仲間だとは思ってもらえん」
「馬鹿を言うな。ばあさんが一人で店番してる雑貨屋を狙う。トリスアギオンとは話が通じるようになるぜ」
「名案だ。おいババア、金を出せ、ジジイの写真の裏にあるやつもだ」
ゼブルとレイガは薄暗い駅舎で笑いあった。トリスアギオンは、いわば火事場泥棒をしにきたにすぎない。サーストン事件からすると、出る舞台を間違えた役者のようなものだ。ゼブルとレイガにしても舞台が違うという気もするが、自分の血の匂いがする分には二人の本業に近い。
ゼブルは駅舎の外を見回りに出た。東の空と森の境が、曖昧に輝いている。駅舎の前は物が動いた気配はなく、裏の土にも気になる足跡は見えなかった。夜の間に本気で隠密行動を取られていたら、懐中電灯一本で見つけられたはずもないが、見えない敵に怯えていると何もできない。夜明け前の透明な冷気に浸り、サーストンは静まり返っていた。
駅舎の中に戻ると、ゼブルの目の前で、生存者の少女が体を起こした。
意識のある少女の顔は、寝ていたときよりも生気が失せて見えた。夜明け前という時間のせいだったかもしれない。だが、見開いた目と歪んだ口元は、恐怖に追い詰められた人間の顔だった。
「気分はどうだい、お姫様よ。早起きにしても、まだ夜みたいなもんだぜ」
レイガが床にあぐらをかいて、少女の顔を覗き込んだ。少女は口を開けたまま、レイガとゼブルの間で視線を動かした。
「私はどうなるの?」
少女が思い切ったように硬い声で言った。
「それは俺たちが決める事じゃない。君が喋りたくないなら話しかけないし、眠りたいなら音は立てない。この町から出たいのなら好きなところへ送るし、放っておいてほしければ、黙って帰る」
ゼブルは意識してゆっくりと言った。少女はしばらく肩を上下させて息をしていた。
「私を捕まえに来たんじゃないの?」
「俺たちは警察じゃない。ヘヴンズという組織の者だ。君を助けるように頼まれて来た」
少女は不安そうにマットに指を食い込ませていたが、肩の動きは落ち着いてきた。
「誰もいないはずの町で人を見たという噂があってな。迷子かもしれないから見て来いと言われたのさ。レスキュー任務も、俺たちの仕事の一つでね」
レイガが携帯コンロをいじりながら言った。警察という単語を避けている。都合のいい点だけを喋っているのだが、弱りきった人間と話すのに、馬鹿正直は役に立たない。
少女が何か言いかけて、突然にむせた。ゼブルが水筒を彼女に渡した。受け取ると喉を鳴らして飲んでいた。水筒を口から離すと少し咳き込んだ。
「食欲はあるか?」
ゼブルが聞くと、彼女はためらったそぶりを見せた後に頷いた。
「少し早いが朝飯にしよう。ろくなものはないが、とりあえずお茶はある」
考えが回らなかったのはうかつだった。彼女が弱っているとすれば、飢えは身体的に第一か第二の原因になって当然だ。とはいえ、食べる物を渡すだけで、思っていたよりも簡単に信頼が得られるかもしれない。ゼブルとレイガはスポーツバッグから乾パンやら板チョコやらを取り出して並べた。本当にろくなものはなかった。賄賂には貧弱すぎる品物を、少女は食い入るように見つめていた。ゼブルは、トリスアギオンのところへ行って片っ端から百万ボルトほど電圧をかけてやりたい気分になった。
「食うといいぜ。女も、細いばっかりじゃ見栄えがしょぼい。男がみんな、浮き出た骨で喜ぶような変態じゃないんだ」
レイガがつまらない冗談を飛ばしたが、ゼブルも少女も特に相手をしなかった。少女は固い乾パンとお茶を次々と口に入れていた。男二人は、ピクニックに来ているような顔をつくって、付き合いで乾パンをかじっていた。
「俺はゼブル、こっちはレイガだ」
少女の食べる勢いが落ち着いてきた頃にゼブルが言った。
「私はトニア」
少女は無愛想に言って、詰まりかけた喉で慎重にマグのお茶を飲んだ。ショックと食欲が薄れ、普通の意味での警戒心が戻ってきたようだった。
「ヘヴンズは知ってるか」
レイガが聞くと、トニアは小さく首を振って知らないと言った。
「そこから説明しよう。ヘヴンズは、能力者の支援団体だ。能力者と、その記憶障害の事は聞いた事があると思うが、能力者になると、普通に生きるための土台を失う事が多い。能力者を化け物か犯罪者予備軍のように扱う人間もいる。能力者は、気がつくと一人になっている。能力者狩りの連中に殺される事も少なくない。ヘヴンズは、能力者が社会に認められ、当たり前の暮らしを手に入れられるように活動している。行き場を失った能力者を保護する事も、その一つだ」
少女は身動きせずに聞いていた。夜明け前の暗がりの中で、ぎこちない沈黙が漂った。
「あなたたちも能力者なんですか」
トニアはここにいない誰かに聞くように呟いた。
「そうだ」
ゼブルは簡単に答えた。そうするのにいくらかの努力をした。女の子が乾パンで気を許すと思っていたのか、ゼブル、いい年したおっさんよ。能力者が能力者を嫌っていてもおかしくはないのだった。生まれたときから能力者だった人間はいない。
「昨日、私を追いかけてきた人たちは、能力者狩り、という人たちなんですか」
トニアが悪い答えを期待するように陰湿な声で聞いた。
「いいや、能力者狩りというのは、正確には能力者専門の非合法ハンターの事だ。言ってみれば、金で雇われた殺し屋だ。能力者を絶滅させたい組織か、大金持ちの誰かに恨まれない限り、能力者狩りは狙わない。賞金が出ないからな。君が昨日見た集団は、元々、君とは無関係だ」
「能力者狩りと見たのは、けっこう当たってるんだぜ。やつらのタチの悪さは、能力者狩りと同じくらいだ。頭の悪さもたいして変わらねえ」
レイガが陽気に混ぜ返した。トニアが困惑したように黙り込み、少し間をおいて言った。
「あの人たちは何をしてるんですか?」
「彼らはトリスアギオンの能力者だ。ここにコンピュータがあると思い込んで、探しに来ている。能力者のギャングの集団だと思えばいい。誘拐、殺し、盗み、何でもやる。彼らにも彼らなりに、能力者としての理念があるようだが、実態はアウトローの群れといったところだ。君には、ここの人たちを殺したコンピュータの居場所を聞きたかったらしい。しばらくは寄ってこないはずだ」
「コンピュータなんかいない」
「やつらはあると思っている。恐喝や誘拐は習性みたいなものだ。間に合って良かったと思う」
「私のした事は、まだ知らないんだ」
トニアが自分に言い聞かせるように力なく言った。自分が誘拐されそうになった事にまで気を回す余裕がないらしい。このまま餓死してしまいそうに見えた。
「現在の状況は、こんなところだ。君の意思を教えてほしい」
ゼブルは、トニアの顔がある方を見ながら言った。トニアが身じろぎする気配がした。
「どういう事ですか」
「さっきも言ったが、俺たちは君を、廃墟に取り残された遭難者として助けに来た。君に指示はしないし、その権利もない。俺たちの仕事は君次第だ」
「私を能力者として保護するんじゃないんですか。ヘヴンズは、そういう事をするんですよね」
「君が能力者で、保護を望むなら、言う通りにしよう。だが基本的に、俺たちは救助に来たにすぎない。はっきりと知っているのは、さっき聞いた君の名前くらいだ」
トニアがレイガの方に顔を向けた。
「私がした事は言いました」
最後通牒を突きつけるような調子だったが、ゼブルには泣きたいのを耐えているように聞こえた。レイガが歯を見せて笑った。
「昨日、聞いた。とんでもない事だったな」
「信じてないんですか」
「いきなり体に火がついたのは驚いた。お前さんは俺よりびっくりしてたな」
「能力者だったら、わかってよ。私がやったんだ」
トニアが毛布を握り締めて言った。レイガの影がトニアに向き直った。
「あのとき、お前さんは俺から斜めに走って家の影に入ろうとした。俺を見て立ち止まったのは、火がついた後だ。後ろに向けて能力の発動はできない。基本的に、目で見ていない相手を狙うのは、能力者にも無理だからな。俺は能力者だ。そういう事は知っている」
「そんなわけない」
トニアが目を丸くして、呆然とレイガから視線を離した。自分を縛っていた前提を崩された衝撃のせいだろうが、他に疑いも覚えたかもしれない。自分が殺したとわかっているのに、あっさりとあなたは無罪ですと言われれば、相手が怪しくも思えるだろう。レイガは、トニアの不安をあえて無視していた。
「今の話は、放出系の能力であった場合だ。全ての能力にあてはまるわけじゃない」
ゼブルが言った。
「透視や感知系の能力は目に見えない所を知覚する力だし、時間や空間、人の精神に干渉するメタ能力なら、常識などあってないようなものだ。メタ能力は未来や過去を触り、人の気持ちを操る。たとえば、時間の流れに手を入れれば、軽く放った紙くずが音の速度で飛ぶ事にもなる。暴走、暴発したなら、どんな事故を起こしてもおかしくない」
トニアが表情が硬くなった気がした。よく見えないが、レイガが非難の視線を向けていくるがゼブルにはわかった。
だが、ただ励ますだけでは、トニアは状況に立ち向かえない。疑う役目をするようにゼブルに仕向けたのだから、レイガに文句は言えないはずだ。トニアには正確な認識を持ってもらわなければならなかった。
「メタ能力を持つ能力者は数が少ない。強力な力を持つ者は、その中でも特にわずかだ。君が三ヶ月前に事件を起こした能力者というのなら、その微少な確率を引き当てた事になる。レイガのケガだけでは、何の証明にもならない。ただし、可能性はある。君が指一本動かさずに数十人を殺す力を持ち、さらに能力を制御できない危険人物である可能性だ」
「私をどうしたいんですか。警察が私を捕まえに来たら、能力で殺すんですか。今も、私はゼブルさんとレイガさんを殺すかもしれないんですよ。どうしようもないんだ。私は一人でここにいて、どこにも行かない。それで問題あるんですか?」
「そうだな、この廃墟に隠れているのが、最も無難な行動だ。警察でも軍隊でも、暴走したメタ能力は殺すかもしれない。君が能力者でなかったとしても、少なくとも、君がサーストンにいるせいで死ぬ人間はいない。一人で廃墟に住む暮らしは、誰にでも耐えられるとは思えんが、君は三ヶ月もやってきた」
「私は能力者です」
トニアが低い声で言った。このままサーストンにいても、彼女が次の三ヶ月を耐える事はない。あと一か月もする前に、耐える必要がなくなる。
「そうだ、君は能力者かもしれない。実は、俺たちはあまり気にしていない」
「何を言っているんですか」
「君がメタ能力を持っているとか持っていないとか、危険だとか安全だとかは、カノンやイノセントで椅子に座っている人間が悩めばいい。これからも一人でここにいれば、君は死ぬ。生き延びようとする事に、ケチをつけられる人間はいない。その結果、誰かが死ぬ事になったとしてもだ。善悪以前だな」
「私が他の場所に行って、能力で人を殺しても、悪くないと言うんですか」
「少なくとも、そのときの犠牲者は決して君を許さないな。しかし、君がこの廃墟から出ようとするのを罪にはできない」
「そんなのは理屈になってない」
トニアが声を裏返らせた。
「理屈じゃねえからな。だいたい、お前さんは何もやらかしてないんだ。行きたいと言えば、どこにでも連れて行く。そっちの面倒くさいやつはいろいろ言いそうだがな」
レイガが自信を持った声で言った。トニアが何か言いかけて、言えなくなった。レイガが謎の炎に巻かれた事を思い出したのだろう。彼女自身よりも、彼女を信じている人間がいる。どう感じているのか、トニアの影がうつむいた。
「でも、同じだよ。私はどうにもできない。また人を死なせるかもしれない。警察の事は知らないけど、やるつもりがなくても、人が死んだら無罪じゃない」
トニアが全てを知っているかのように言った。
「できる事はある。本当にここの住人を殺したのか、確かめる事だ」
「意味がないよ」
「事件の日に、ここから逃げ出せた人間はいない。サーストンは全滅したと思われていた。君以外に、生存者は見つかっていない」
トニアは黙って息をしていた。新聞で知る事がなくても、想像はした事があるのだろう。
「今まで、警察も新聞記者も憶測を言うしかなかった。死体だけが残っている怪事件だったんだ。伝染病や生物兵器、デヴィルの仕業だという噂まであった」
「だから、誰も来なかったんだ」
トニアはうつむいたままだった。日が昇る前の駅舎では、細かい表情は薄く青い闇に塗りつぶされてしまう。それでも、トニアはゼブルたちの顔を見たくないようだった。あるいは、自分を見られたくないのかもしれない。
「何かがここの住人を殺した。メタ能力の暴走は一つの可能性だ。俺とレイガは能力者についていくらか詳しい。ヘヴンズには、調査や分析が得意な仲間もいる。事件の日に起きた事がわかれば、本当の元凶に近づける。三ヶ月前のあの日を知っているのは君だけだ。君には、真実を知る資格と権利がある。義務とは言わない。一人の人間として、この廃墟で三ヶ月を生き延びた以上の義務はない。俺たちが来たのは一つの機会だと思ってくれ」
トニアは黙っていた。ゼブルはいつまでも待つつもりだった。具体的には夜明けまでの間だけだ。
発端が警察の依頼だ。トニアの存在をごまかしていられるのは、楽観しても数日だった。すぐにトニアが決心してくれなければ、ゼブルたちが動く時間はなくなり、事態は警察の手に渡る。カノンの警察は無能ではないが万能でもない。能力を暴走させた能力者については、ダイナマイトを抱えた麻薬中毒患者と同じに見る。凶悪事件の容疑者には実に似合っている。警察に手抜きをさせないためにヘヴンズができるのは、祈る事だけだ。ゼブルは祈らない。警察の介入は任務の失敗だった。
「調べて、私が能力者だったら、どうするんですか」
トニアが聞いた。
「同じだ。君がここに留まりたいなら、イノセントに帰る。警察に自首するなら、ヘヴンズを通して弁護士にも連絡をつけよう」
「うん」
トニアは気のない返事をした。頭の中では別な事を考えているようだった。まだ夜が明けていないので、ゼブルは待った。人が眠る間にも世界は動く。彼女の思いは彼女だけのものだ。
「私が本当に能力者かどうか、調べてみて」
「手伝おう」
「私は何をすればいい?」
トニアの声は相変わらず沈んでいた。決意の瞬間とは、外から見ればそんなものかもしれない。これからトニアは、目を塞いで付き合ってきた悪夢に、再び浸かっていく事になる。結果がどうなろうと、勇敢だったといつか気づくはずだ。恐怖に立ち向かおうとするのは、勇気としか言わない。
「事件の日の事を教えてくれ。できれば、事件当日の君の行動をなぞりたい。それから、君の事だ。どこから来て、ここで何をしていたのか。家があるなら、いずれ君は帰るのだからな」
「うん、わかった。でも、あまり覚えてない」
「三ヶ月前だ。細かい事は忘れるさ」
レイガが、スポーツバッグの食料品をまさぐっていた。
「自分の事もなんだ。ここに来る前の事は、よく思い出せない。住んでいた家もわからないんだ」
能力者の多くは記憶に障害を抱えている。トニアは、なんでもない事のように言おうとして、途中で言葉をつっかえさせた。