第37話「根」
真央が空き地に着いた時、最初に気づいたのは音だった。
虫の羽音。
冬のはずだ。1月下旬。この季節に、これだけの虫が飛んでいること自体が異常だった。
蝶が3頭、ケヤキの梢の周りを旋回している。甲虫が幹を這い、蟻が根元の隙間に列を作っている。蜂も数匹混じっていた。種を問わず、あらゆる虫がケヤキに集まっている。
その数は、数日前の倍以上だった。
「……増えたな」
真央が呟いた。
ケヤキの姿が、また変わっている。
高さは14メートルに達していた。前回は12メートル。数日で2メートル伸びている。枝の広がりも増し、銀色の葉が空を覆うように茂っている。冬なのに落葉するどころか、新しい枝が次々と生えている。
樹皮の銀色は、もう薄い光沢ではなかった。幹全体が金属のような質感を帯び、日光を受けると鈍い白銀色に輝く。遠くから見たら、巨大なステンレスの柱が立っているように見えるだろう。
そして——根。
前回は隣の敷地との境界を越え始めていた。今は、空き地から3軒先の空き家の庭まで到達していた。コンクリートの下を這うように伸びた根が、あちこちで地表を押し上げている。路地のアスファルトに亀裂が走り、ブロック塀が2箇所で倒壊していた。
真央は手鏡を取り出した。
名称:ケヤキ(変異進行中)
状態:変異進行中
変異進行度:28.6%
予測変異完了時間:不明
「28パーセント。前が21だったから——もう3割近い」
加速が止まらない。0.3パーセントから始まった変異が、4.7、15、21、そして28。進めば進むほど速くなっている。このペースが続けば、50パーセントに達するのは——あと数週間か。
「アラクネ」
声をかけると、空き家の壁を伝って降りてきた。いつものようにフードを深く被り、蜘蛛の脚を折り畳んでケヤキの根元に着地する。
「……オヤ」
「木の状態、何か分かるか」
アラクネがケヤキの幹に手を当てた。8つの目を閉じ、しばらく黙っている。
「……ネガ……モット……フカク……ナッテル」
「もっと深く?」
「……チカ。ミズヲ……サガシテル。モット……フカイ……ミズ」
地下水脈を探しているのか。根が横方向だけでなく、縦方向にも伸びている。地表の根は目に見える異変だが、地下ではさらに深く、さらに広く浸透しているということだ。
「どのくらい深くまで行ってる」
「……ワカラナイ。デモ……スゴク……フカイ。ワタシニモ……トドカナイクライ」
アラクネの感覚でも把握しきれない深さ。蜘蛛の脚先で地面の振動を感じ取る彼女の知覚範囲を超えているとすれば、少なくとも数十メートルは地下に潜っている可能性がある。
真央はケヤキの幹に触れた。
温かい。外気温は5度を下回っている冬の朝だが、樹皮の表面は人肌に近い温度を保っていた。木が自分で熱を生んでいる。植物のくせに恒温動物のような振る舞いをしている。
「前に出てた樹液は、まだ出てるか」
「……ウン。コッチ」
アラクネが幹の裏側に回った。真央がついていくと、地上2メートルほどの高さに、樹皮の裂け目があった。そこから透明に近い液体がゆっくりと滲み出ている。前回見た時より量が増えている。液体は微かに青白い蛍光を帯び、幹を伝って根元に流れ落ちていた。
真央が指先で樹液に触れた。温かい。そして——匂いがあった。甘い匂いだが、ダンジョンのフェロモンとは異なる系統の甘さ。もっと深く、もっと複雑。果実が熟す直前のような、生命力に満ちた香り。
手鏡をかざした。
名称:変異樹液
状態:活性
品質:不明
特記:有機的エネルギー循環を検知
「前は『分析不可』だったのが、『活性』に変わってる。特記事項も増えた。——有機的エネルギー循環?」
鏡が表示する情報は、対象の本質を読み取るものだ。変異が進むにつれて、鏡が読み取れる情報も増えているということは——ケヤキの内部構造が、より複雑で高度なものに変わりつつあるということだ。
「この樹液の匂いで虫が集まってるのか」
「……ウン。ムシタチ……コノ匂イガ……スキミタイ」
甘い匂い。虫を引き寄せる。それだけなら普通の樹液と同じだ。だが、この量の虫が冬に集まっている。この木が放つ匂いには、通常の樹液にはない何かがある。
「面白いな」
真央が呟いた。——その言葉に、恐怖はなかった。好奇心だけがあった。
ケヤキの梢を見上げた。銀色の葉が朝の光を受けて、きらきらと揺れている。葉の隙間から、空が見えた。真冬の薄い青空。その手前に、銀色の枝が網目のように広がっている。
「……きれいだな」
真央が、素直にそう思った。
生命が変わっていく過程には、美しさがある。蜘蛛が女の子になる。木が銀に変わる。虫が進化する。——全部、自分の血が起点だ。でもその先は、血を受けた存在が自分の力で変わっていく。
アラクネがケヤキの根元に座った。蜘蛛の脚を折り畳み、幹に背中を預ける。8つの目が梢を見上げている。その姿勢は、もう何度も見た。アラクネにとって、ケヤキのそばにいることは日常になっている。
「お前、夜もここにいるのか」
「……ウン。ニカイノマドカラ……ミテル。ヨルハ……ハッパガ……ヒカル」
「光る?」
「……ホシミタイニ。ギンイロノ……ヒカリガ……チラチラ……スル」
銀色の葉が夜間に発光している。変異が目に見える段階を超えて、もはや「おかしな木」では済まないレベルに入りつつある。
「今のところ人がいないから大丈夫だけど——匂いの範囲がこれ以上広がったら、さすがに誰かが気づく」
「……ドウスル」
「どうもしない。止められないし、止めたくもない。——ただ、見つからないようにするだけだ」
真央はポケットから万年筆を取り出した。ペン先で指を軽く刺し、血の珠を一滴作る。
——迷った。
血をやれば、変異はさらに加速する。今でも28パーセント。このまま放っておいても勝手に進んでいく。追加の血は必要ない。むしろ、やりすぎたらどうなるか分からない。
だが——。
真央はケヤキの幹を見た。銀色の樹皮。温かい表面。微かに脈動するような感触。
「……やめとくか。お前は自分のペースでやれ」
血の珠を拭き取り、万年筆をポケットに戻した。
アラクネが、ほっとしたような表情をした。——蜘蛛の顔で「ほっとした」が読み取れるようになったのは、いつからだろう。
「じゃあ、俺は帰る。何かあったら——」
「……ウン。イツモドオリ。マドカラ……イク」
真央がアラクネに手を振って、路地を歩き出した。
振り返ると、空き地の中央にケヤキが立っている。銀色の巨木。14メートル。周囲の住宅より高い。冬枯れの街の中で、そこだけが異質な輝きを放っている。
その根元に、フードを被った蜘蛛の女がいる。
人な減り続ける街。忘れられた空き地。銀の木と、蜘蛛と、集まってくる虫たち。——小さな生態系が、ここに生まれつつあった。
真央はそれを眺めて、少しだけ笑った。
そして、アパートに帰った。
同日。足立区。
田村健一は、冒険者になって3週間が経っていた。
手持ちの23万円は、11万円まで減っていた。ギルドの月会費1万円、保険料5,000円、食費、交通費。生活費だけで毎月8万は飛ぶ。妻への仕送りは先月5万円送った。残りが11万。
一方、稼ぎは——安定しない。
初日に西川と組んで浅層に潜り、癒しの絆創膏3枚を持ち帰った。ギルドの買い取りで13万円。だが翌週は3回潜って宝箱ゼロ。その翌週は蟻の外骨格を2匹分持ち帰って8,000円。
3週間の収支は、トータルで5万円のマイナスだ。
死にはしなかった。怪我も蟻酸を浴びた右腕の軽い火傷だけだ。西川が離脱した後、「足立冒険者の集い」というSNSグループで知り合った3人と組むようになった。全員が田村と同じ——元会社員。元配送員。元コンビニ店長。ダンジョンに縁のなかった人間ばかりだ。
指数は、3から5に上がった。浅層のフェロモンを毎日浴びていれば、このくらいは上がる。だがそれは「一般人より少しマシ」という程度で、冒険者としての能力に大きな差は出ない。
ギルドのラウンジで、掲示板を見ていた。
いつもの攻略スレ。それとは別に、最近増えた求人スレッド。ゴールドラッシュ以降、ダンジョン関連企業が急増している。装備メーカー。蟻の外骨格加工業者。フェロモン中毒の民間クリニック。そして——ダンジョン探索企業。
田村の目が、ある投稿で止まった。
冒険者求人スレ Part 8
245:名無しの冒険者
新しい探索企業の求人が出てる
シルバーゲート・エクスプロレーション
外資系のダンジョン探索企業
募集:冒険者(経験不問)
月給50万円保証
装備無償貸与
保険料全額負担(死亡保障2,000万円)
ギルド登録済み
267:名無しの冒険者
月給50万保証ってマジ?
普通の冒険者は歩合だろ
289:名無しの冒険者
マジらしい
新宿のギルドラウンジに紙のチラシも貼ってあった
装備も全部支給。護符以外は一通り揃えてくれるとか
312:名無しの冒険者
怪しくないか? 外資系って何の会社だ
334:名無しの冒険者
調べたけど、法人登記は先週されたばかり
代表は日本人。資金は海外の投資家から出てるらしい
ギルドには正式に法人登録されてる。田所のお墨付き
356:名無しの冒険者
経験不問ってことは素人集めて浅層で数回すって感じだろ
月50万で使い捨てにされるやつかな
378:名無しの冒険者
>>356
保険料全額負担で死亡保障2,000万は
使い捨てにしては手厚すぎないか?
普通の企業系パーティは死亡保障500万がいいとこだぞ
401:名無しの冒険者
どっちにしろ月50万は魅力的
俺みたいに宝箱引けない日が続くと貯金が減るだけだし
安定収入って冒険者にとっては夢みたいな話
田村は、スマホを持つ手が止まっていた。
月給50万円保証。
今の田村の稼ぎは、良い日で5万円。悪い日はゼロ。3週間で5万円のマイナス。このペースが続けば、あと2ヶ月で資金が尽きる。
50万円あれば——妻への仕送りを増やせる。アパートの家賃も払える。装備を買い足す余裕もできる。何より、宝箱が出なかった日の不安がなくなる。
だが「怪しくないか」という書き込みも気になった。法人登記が先週。資金は海外の投資家。経験不問。——まともな企業なら、なぜ経験者を集めないのか。
田村はスマホをポケットにしまった。
ラウンジの壁を見ると、掲示板の書き込み通り、紙のチラシが貼ってあった。
シルバーゲート・エクスプロレーション。
白地に銀色のロゴ。連絡先の電話番号とメールアドレス。「まずはお気軽にお問い合わせください」。
田村は、チラシを30秒ほど見つめた。
電話番号をスマホに控えようとして——やめた。
まだ、自分でやれる。宝箱を引けない日が続いているだけだ。明日は出るかもしれない。来週は出るかもしれない。安定収入に飛びつく前に、もう少しだけ自力で稼いでみたい。
それは——プライドとも違う。ただ、まだ3週間しか経っていない。結論を出すには早い。
田村がラウンジを出た。
外は冬の午後だ。冷たい風が吹いている。ダンジョンの入口に続く道には、装備を身につけた冒険者たちが列を作っていた。
明日も潜る。
11万円の手持ちが尽きる前に、何とかする。
シルバーゲートの電話番号は、控えなかった。だが——名前は覚えた。
田村は、駅に向かって歩き出した。




