第36話「制度と現実」
永田町。内閣府。
午前10時。第3会議室。
テーブルに着いているのは12名。内閣官房副長官を筆頭に、防衛省、警察庁、厚生労働省、国土交通省、経済産業省の各省庁から派遣された官僚たちだ。壁面のスクリーンには「ダンジョン管理庁設立準備室 第14回実務者会合」の文字が映し出されている。
佐々木参事官がスクリーンの前に立った。
「本日の議題は3点です。第一、管理庁の組織編成と初期人員の確定。第二、ダンジョン入口の物理的管理計画。第三、冒険者ギルドとの関係整理。——それでは資料1をご覧ください」
スライドを切り替えた。
「ダンジョン管理庁は、法律上は既に設立されています。しかし組織としては——率直に申し上げて、箱だけで中身がありません。庁舎は霞が関の合同庁舎3号館に仮設置が決定しましたが、職員の配置が遅れています。各省庁からの出向者の人選が、2週間以上停滞している」
官房副長官が眉を寄せた。50代半ばの細面の男だ。
「各省庁の事情は承知しているが、現場の状況は待ってくれない。ゴールドラッシュ以降、ダンジョン入口への非登録者の殺到が制御不能になっている。先日だけで死者が4名出た。重傷者は16名。メディアは連日報じている。政府が何もしていないように見える——それが最大の問題だ」
警察庁の課長が発言した。
「現場の警察力は限界を超えています。67箇所以上の入口すべてに人員を配置することは物理的に不可能です。ギルドが管理している28箇所の入口でさえ、フェンスを乗り越える者を止める法的根拠がない。ダンジョンへの不法侵入は——現行法では不法侵入に該当しません。そもそもダンジョンは誰の所有物でもない」
「だからこそ管理庁が必要なんだ」
官房副長官が苛立ちを隠さずに言った。
「法的根拠は特措法で手当てする。問題は実行力だ。佐々木参事官、管理庁が本格稼働するまでの時間軸は」
「最短で2ヶ月です。主要入口への管理要員の配置と、冒険者の登録制度を法的に義務化するまでに、少なくともそれだけかかります」
佐々木が一呼吸置いた。
「なお、ギルドは既に独自の対策を打ち始めています。登録拠点の拡大——6箇所から12箇所へ。入口での優先入場制度。有料の初心者講習。これらは行政の立法プロセスを待たずに実行されており、非登録者の死傷率を下げる効果が出始めている。管理庁が稼働するまでの暫定措置として、ギルドの取り組みを追認する形で運用する手もあります」
経産省の課長補佐が手を挙げた。
「ギルドは民間団体です。政府が民間の施策を追認する形は——」
「前例がないのは承知しています。ですが、現場でダンジョンの入口を実効支配しているのはギルドです。登録冒険者3000名以上を抱え、28箇所の入口を管理し、アーティファクトの流通市場を運営している。管理庁の職員が配置されるまでの間、この既存インフラを使わない手はありません」
官房副長官が頷いた。
「佐々木参事官の提案を採用する。ギルドとの暫定協力協定を策定し、管理庁の本格稼働まで入口管理をギルドに委託する。法的な枠組みは——」
「特措法の施行令で手当てできます。閣議決定で足ります」
「急げ。——次の議題は」
「管理庁の業務範囲に、六本木の問題を含めるかどうかです」
会議室の空気が変わった。
「六本木は防衛省の管轄だ。管理庁は——」
「管理庁はダンジョンと超常現象への統合的な対応機関として設計されています。六本木の吸血鬼問題を含まない統合対応機関に、意味があるのかという問いです」
佐々木の声は平坦だった。だがその目は、会議室の反応を正確に読んでいた。
沈黙が落ちた。
六本木。サンライズ作戦以来、誰もが触れたがらない案件だ。200名以上の死傷者を出した強襲作戦の失敗。封鎖線は維持されているが、吸血鬼の排除には至っていない。偵察チームの2名が行方不明になったことは非公開のまま処理されている。
「管理庁の初期フェーズでは、ダンジョンの入口管理と冒険者制度の整備に集中します。六本木の対処は——別枠として並行する」
佐々木がスライドを進めた。
「その別枠について。鬼庭の現況を報告します」
「対超常脅威即応部隊・鬼庭。発足から3週間。隊員9名。指揮官・巖道征四郎」
佐々木が鬼庭の報告に移った。
「訓練の概要です。最初の1週間は市ヶ谷の地下施設で基礎訓練を実施。巖道先生による個別指導と、特殊作戦群との合同模擬戦闘を行いました。第1ラウンドの個人戦では、指数24の早川が特殊作戦群3名を18秒で制圧。第2ラウンドの小隊対抗では、鬼庭8名が特殊作戦群12名を3分で制圧しました。鬼庭側の損害は1名のみ。フェロモン強化者と通常戦力の差は、想定以上です」
佐々木が一呼吸置いて続けた。
「2週目以降は、品川の管理済み入口からダンジョンに潜る実地訓練に移行しました。設立準備室の権限で非公開訓練として承認し、ギルドには管理庁名義で通知を出しています。地下40メートルまでの深度で蟻との実戦を重ね、隊員のフェロモン指数を引き上げると同時に、ダンジョン環境での連携を訓練しています」
経産省の課長補佐が手を挙げた。
「3分で12名を制圧というのは——」
「訓練弾を使用した模擬戦です。実弾ではありません。ですが、フェロモン強化者の反応速度と身体能力は通常の兵士を大きく上回ります。鬼庭の隊員は全員がフェロモン指数20以上です。指数20の人間は、一般人の5倍以上の打撃力と3倍の反応速度を持つ。訓練を積んだ特殊作戦群でも、この差を戦術だけで埋めることは困難です」
「逆に言えば——吸血鬼は、フェロモン強化者をさらに上回るということですか」
「はい。サンライズ作戦の記録によれば、吸血鬼側には転化した元警視庁SATの隊員が含まれていました。人間だった頃の戦術知識がそのまま残っており、吸血鬼化による身体能力の強化と組み合わせて、特殊作戦群の部隊を相手にゲリラ戦を展開しました。鬼庭はその脅威に対抗するために編成された部隊です」
官房副長官が佐々木を見た。
「結論を聞こう。鬼庭は、いつ実戦投入できる」
「巖道先生の評価では——まだ早い、とのことです。個々の戦闘力は十分ですが、チームとしての連携に課題がある。特に正隊員と準隊員の行動様式の差が大きい。最低でもあと2ヶ月の訓練が必要と」
「2ヶ月。——管理庁の本格稼働と同じ時間軸か」
「はい。その間に、六本木の情報収集を強化します。偵察チームの派遣は当面控え、封鎖線の外側からの遠距離監視に注力します」
官房副長官が頷いた。
「了解した。2ヶ月後に、鬼庭の投入可否と管理庁の稼働状況を合わせて再評価する。——佐々木参事官、実務は任せる」
「承知しました」
会議は散会した。
午後3時。市ヶ谷。防衛省地下施設。
佐々木が訓練区画に降りていくと、鬼庭の隊員たちが訓練の合間の休憩を取っていた。
訓練場の雰囲気は、3週間前とは変わっている。壁際のホワイトボードには手書きの戦術メモが増え、床の衝撃吸収材には使い込まれた跡がある。生体モニターのデータが壁面のスクリーンにリアルタイムで表示されていた。
巖道が訓練場の隅で、正座して目を閉じていた。瞑想だ。訓練の合間に必ず行う。65歳の老人の姿だが、その周囲だけは空気の密度が違う。
佐々木が近づくと、巖道が目を開けた。
「巖道先生。午前の会議の結果を報告します」
「聞こう」
「管理庁の立ち上げが遅れています。人員配置が2週間停滞。本格稼働は最短2ヶ月。鬼庭の実戦投入も、それに合わせて2ヶ月後の再評価ということになりました」
「妥当だな」
巖道の声に安堵も不満もなかった。事実をそのまま受け止める声だ。
「隊員の状況を聞きたい」
「3週間で全員の指数が上がりました」
巖道が立ち上がり、ホワイトボードの前に歩いた。手書きの数字が並んでいる。
「早川が24から25に。宮園が23から24に。山岸が22から23に。蔵本が21から22。——他の者も1から2ポイント上がっている。ダンジョンで蟻を倒す実地訓練の成果だ。蟻の体液に含まれるフェロモンを浴びることで指数が上がる。座学や模擬戦では身体は強くならん」
「神崎は」
「22.3で変動なし。限界突破者は通常の成長曲線とは異なる。だが渇望の制御は安定してきた。瞑想の時間を毎日1時間、自主的に取るようになった」
佐々木がタブレットにメモを取った。
「もう一つ。新しいアーティファクトの情報が入っています」
「ほう」
「昨日、渋谷入口で5人パーティが地下55メートルの宝箱から発見しました。初めて確認された種類のアーティファクトです。ギルドのラウンジで実物が公開されています。——境界の銀盤、と仮称されています」
佐々木がタブレットの画面を巖道に見せた。ギルドの速報レポートだ。
「薄い銀色の金属板。手のひらサイズ。地面に置くと半径3メートルから5メートルの範囲に結界が発生し、外部からの物理攻撃が大幅に減衰する。体感で7割ほどの威力が削がれるとの報告です。品質スコアは80を超えています」
巖道の目が僅かに動いた。老人の穏やかな表情の奥に、鋭いものが光った。
「結界」
「はい。個人装備ではなく空間防御です」
「……それは使える」
巖道が呟いた。その声には、これまでの報告には見せなかった関心が滲んでいた。
「吸血鬼の中には霧化する個体もいる。銃弾が通じない。だが——空間そのものが物理攻撃を減衰させるなら、ワーウルフや吸血鬼による打撃を弱められる。六本木に突入する際、結界の中に拠点を作れれば、撤退時の安全地帯になる」
「現時点で確認されているのはこの1枚だけです。追加の入手は——」
「追加は要る。確保の優先度を上げなさい」
佐々木が頷いた。
「ギルドと防衛省の間で、戦略的アーティファクトの優先確保に関する協定を検討しています。ギルドマスターの田所は——こちらの意向に協力的です。ギルドにとっても政府との関係構築は利益になる」
「田所。ギルドの男か」
「はい。野心家ですが、合理的な人間です。対価さえ見合えば動く」
巖道が窓のない壁を見つめた。地下施設の壁。この先に、東京の街がある。その中に六本木がある。
「佐々木。2ヶ月と言ったな」
「はい」
「2ヶ月で、この部隊を仕上げる。——ただし、次の段階に進む必要がある」
「次の段階」
「地下60メートルだ」
佐々木の眉が上がった。
「現在は地下40メートルまでの訓練を行っています。60メートルとなると——中層と深層の境界です」
「40メートルまでの蟻は、もう彼らの敵ではなくなった。指数20以上の人間が8名で組めば、浅層から中層の兵隊蟻は訓練にならん。深層に入らなければ、これ以上の指数向上も見込めない」
巖道がこちらを向いた。
「深層の蟻は大きさも硬さも別格だ。兵隊蟻の体液に含まれるフェロモン濃度も高い。1体倒した時の指数上昇幅が、浅層の蟻とは桁違いになる。全員の指数を25以上に引き上げるには、深層での実戦が必要だ」
「リスクは」
「ある。だがそれ以上に、この水準で止まったまま六本木に向かうリスクの方が大きい。サンライズ作戦では、フェロモン強化を受けていない通常の兵士が200名以上死傷した。——鬼庭の9名を同じ轍は踏ません」
「管理庁設立準備室の承認範囲内で、深度を拡大することは可能です。——ただし、60メートルとなるとフェロモン中毒のリスクも上がります」
「安らぎの香と瞑想のアメジストを全員に携行させる。中毒の管理は儂がやる。呼吸法で渇望を制御する術は、3週間で全員に叩き込んだ」
佐々木が頷いた。
「手配します。——巖道先生。境界の銀盤の件、確保に動きます。2枚目が出た場合、鬼庭への優先配備を具申しますが——よろしいですか」
「頼む」
佐々木が訓練場を出ていく。
巖道が再び正座し、目を閉じた。
休憩室。
鬼塚が缶コーヒーを飲んでいた。隣に早川が座り、ホワイトボードのメモを見ている。
「指数25になったか」
鬼塚が早川に言った。
「昨日の計測で。——だがまだ先生には遠い。33.8と25じゃ、別の生き物だ」
「そりゃそうだ。先生と同じになろうとしたら——生涯かけても届かないかもしれん」
「だとしても、六本木にはもっと早く行かなきゃならない」
鬼塚が缶コーヒーを握り締めた。
六本木。あの夜の記憶が蘇る。
「宮園」
宮園が休憩室に入ってきた。冒険者出身の準隊員。26歳。他の隊員とは雰囲気が違う。軍人の持つ規律的な動きではなく、猫のようにしなやかで、常にどこか余裕がある。
「新しいアーティファクトの話、聞きましたか。結界を出す金属板」
「境界の銀盤か。さっき佐々木参事官が先生に報告してた」
「ギルドのラウンジで実物を見た人の話を聞いたんですけど、これ、相当ヤバいですよ。半径5メートルの範囲で物理攻撃が7割減衰。蟻の突進も、蟻酸も弱まる」
早川が顔を上げた。
「六本木でも使えるか」
「使えますよ。ワーウルフの突撃を7割削がれば——生身でも耐えられる可能性がある。結界の中に拠点を作れば、少なくとも吸血鬼とワーウルフの打撃は凌げる」
「問題は数だな。今のところ1枚しか確認されてない」
「それに」
宮園が椅子の背にもたれた。
「結界の中にいても、霧化した吸血鬼には効くのかって問題がある。物理攻撃の減衰って、霧には意味ないかもしれない。霧は物理攻撃じゃなくて、身体の組成そのものが変わる現象だから」
鬼塚が缶コーヒーを置いた。
「お前、よく考えてるな。冒険者の時からそうなのか」
「ダンジョンじゃ考えないと死にますからね。地下70メートルまで行った時、1メートルを超える兵隊蟻の群れに挟まれて——あの時は本当に死ぬかと思った。切り抜けられたのは、事前に逃走ルートを3本考えてたからです」
「70メートルか。——俺はあの夜、六本木のビルの1階で2メートルのワーウルフに弾を撃ち続けた。次は——確実に倒す。それができるまで、ここで鍛える」
早川が立ち上がった。
「休憩終わり。午後の訓練は先生が組手をやる。——宮園、お前は今日こそ2秒持て」
「2秒は無理ですって。1.5秒が限界——」
「1.5秒を1.6秒にしろ。0.1秒の差が実戦では生死を分ける」
3人が休憩室を出ていく。
缶コーヒーの空き缶が、テーブルの上に残った。
同日夜。防衛省。佐々木の執務室。
佐々木がモニターに向かい、報告書を作成していた。
「ダンジョン管理庁設立進捗:人員配置遅延。本格稼働まで最短2ヶ月。暫定措置として、入口管理の一部をギルドに委託する協定を検討中」
「鬼庭訓練報告(第22日):1週目に基礎訓練と特殊作戦群との合同模擬戦闘を実施。2週目以降はダンジョン実地訓練に移行(品川入口・地下40mまで)。隊員の指数が上昇。早川25、宮園24、山岸23、神崎22.3(変動なし)、蔵本22、鬼塚22、朝倉22、立花21、桐谷21。来週より深度を60mに拡大予定」
「戦略的アーティファクト情報:『境界の銀盤』(仮称)が渋谷入口で初めて発見される。空間防御型の新種AF。鬼庭への優先配備を具申。ギルドとの協力枠組みで追加入手を模索」
佐々木はキーボードを止め、椅子の背にもたれた。
2ヶ月。
管理庁が立ち上がるまで2ヶ月。鬼庭が実戦レベルに達するまで2ヶ月。六本木の吸血鬼が——その間に何をするか。
偵察チーム2名の行方不明は、非公開で処理した。だがいずれ問われる。「あの2名はどうなったのか」と。佐々木には、答えが分かっている。転化された。敵の戦力になった。岩瀬二尉は、今頃は吸血鬼の側で情報を提供しているだろう。
時間は、こちらの味方ではない。
吸血鬼も準備をしている。吸血鬼が社会に浸透、都内に配置されていることは、封鎖線外の監視で断片的に確認されている。大阪や名古屋にも拠点を広げているとの情報もある。彼らが何を準備しているのかは分からない。だが——待っているだけではないはずだ。
佐々木は報告書の最後に、3週間前と同じ一行を加えた。
「鬼庭は機能し得る。時間が要る。——だが、時間は有限だ」
送信ボタンを押し、モニターの光を消した。
窓の外に、東京の夜景が広がっていた。六本木方面の空は、他のどの方角よりも暗かった。




