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血を与えたら進化しすぎた件~世に出回るアーティファクトも東京に出来たダンジョンも多分俺のせいだけど面白いからいいよね~  作者: 唯之助


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第26話「巖道」

 東京・市ヶ谷。防衛省敷地内。


 地下2階。一般には存在すら知られていない区画だ。


 元々は有事の際の統合作戦本部の予備施設として設計された空間だった。天井高7メートル。広さはバスケットコート4面分。壁面は厚さ1メートルの鉄筋コンクリートで二重に補強され、床には衝撃吸収用のゴムマットが一面に敷かれている。四方に設置された高速カメラ8台が、毎秒960フレームで室内を記録していた。通常の監視カメラでは捉えきれないことが、先週の予備テストで判明したためだ。


 部屋の中央に、鉄とステンレスの複合構造で作られた巨大な檻がある。幅5メートル、奥行き8メートル、高さ4メートル。格子の直径は4センチ——ヒグマ用の捕獲檻の規格を遥かに超えている。


 檻の中には——虎がいた。


 アムールトラ。シベリアトラとも呼ばれる、現存するネコ科最大の猛獣だ。


 この個体は規格外だった。頭胴長2.8メートル。尾を含めた体長は3.5メートルに達する。体重は500キロ。野生のアムールトラの平均体重は180から300キロ——この個体はその上限を遥かに超えていた。骨格が異常に大きく、筋肉量が通常の個体の1.5倍以上。遺伝的な変異か、飼育環境による肥大化か、専門家にも断定はできない。


 ただ1つ、確かなことがある。


 この虎は、人を殺している。


 北海道の民間動物園で飼育されていた個体だった。3年の間に飼育員を3名殺害した。1人目は腕を咬まれて動脈を切断され失血死。2人目は頭部を前肢で叩かれ頸椎骨折で即死。3人目は——檻の格子の隙間から腕を差し出され、引きずり込まれて胸郭を圧砕された。


 動物園は閉園。虎は殺処分が検討されたが、アムールトラは絶滅危惧種だ。ワシントン条約の附属書Ⅰに記載され、野生の生息数は推定600頭に満たない。殺処分には環境省の特別許可が必要であり、動物愛護団体からの訴訟リスクも高い。結果として、この個体は「研究目的の一時保護」という名目で環境省から防衛省に移管された。公式記録上、この虎は存在しない。


 檻の中で、虎が低く唸っていた。


 琥珀色の瞳が、格子越しに部屋の中を睨みつけている。尾が苛立たしげに床を叩く。500キロの身体が一歩動くたびに、檻の構造全体が振動した。前脚の爪は抜かれていない。牙も健在だ。ライオンより30パーセント強い咬合力——約450キロ。人間の大腿骨を噛み砕く力だ。


 檻から7メートルほど離れた場所に——一人の男が立っていた。


 初老の男だ。年齢は60代半ば。身長は172センチ。決して大柄ではない。むしろ痩身に見える。だが——痩身と言うには、骨格が太すぎた。手首の骨の太さ。首回りの筋の張り方。足の指が床を掴んでいる感覚が、裸足の足裏から伝わってくるような佇まい。白髪交じりの短髪を後ろに撫でつけ、顎には手入れの行き届いた短い髭。


 服装は、紺色の稽古着に袴。足は裸足。防弾ベストもヘルメットもない。


 武器は——持っていない。


 男の名は、巖道征四郎。



     



 部屋の壁際に設けられた防弾ガラスの観察室に、5名の人間がいた。


 ダンジョン管理庁設立準備室を統括する内閣官房の参事官。六本木偵察チーム2名の未帰還を受けて、特殊部隊の編成計画を前倒しにした人物だ。


 防衛大臣の斎藤。60代後半。元自衛隊出身で、陸上自衛隊の幹部候補生学校を首席で卒業した経歴を持つ。現場の厳しさを書物ではなく身体で知っている政治家だ。


 統合幕僚長の篠原。


 厚生労働省から出向している医官の赤羽。フェロモン中毒の研究チームを率いる。


 そして——内閣危機管理監の望月。50代の女性。元外務省のキャリア官僚で、中東の大使館に勤務していた時期にテロ対策の実務に携わった経験がある。


 モニターには、巖道の心拍数、血圧、脳波、筋電図がリアルタイムで表示されていた。


 参事官が口を開いた。


「対超常脅威の特殊部隊構想——その中核人物として、巖道征四郎先生をお招きしました。まず先生の経歴と特異性について説明します」


 スクリーンに巖道の経歴が表示された。


「巖道征四郎。65歳。巖道無双流の創始者にして宗家。父は元陸上自衛隊の一等陸佐で、祖父は旧陸軍の剣術教官。代々、自衛隊・警察との関わりが深い家系です」


「巖道先生自身は15歳で実父から古武術の免許皆伝を受けた後、国内外の武術を修め、独自の実戦体系として巖道無双流を創始しました。徒手体術に限らず、日本刀、棒術、短刀術、槍術、さらには銃器の操作にも習熟しています。自衛隊の戦技教官として30年以上にわたり特殊作戦群をはじめとする部隊に格闘指導を行い、門下生には現役の自衛隊員、警察関係者、プロ格闘家が多数含まれます」


「さらに——」


 参事官が一拍置いた。


「巖道先生は指導者であるのみならず、自ら実戦の場に立った経験をお持ちです。詳細は申し上げられませんが、海外の紛争地域での活動記録があります。『常在戦場』を信条とされ、特殊部隊の訓練にも隊員と同じ条件で参加されています」


 斎藤が頷いた。斎藤は巖道の名を以前から知っていた。自衛隊時代、巖道の父親の薫陶を受けた上官がいた。


「続いて、フェロモン強化の計測結果です」


 参事官がモニターを切り替えた。


「冒険者の間で『フェロモン指数』と呼ばれる身体強化の数値があります。ダンジョン内でのみ機能するアーティファクト——鑑定の鏡——を人間に向けると、現在値と限界値が表示されます。巖道先生にはダンジョン内で鑑定の鏡による計測を行っていただきました」


「巖道先生のフェロモン指数は——33.8。限界値は41」


 数字がスクリーンに大きく表示された。


 斎藤が腕を組んだ。


「……33.8。これはどの程度の数値なのか」


「国内最高値です。冒険者コミュニティで確認されている上位冒険者が20台前半。30を超える者は日本に2、3名しか存在しません。巖道先生はその中でも突出しています」


 赤羽が補足した。


「さらに驚くべきは、中毒症状がほぼ見られないことです。通常、フェロモン指数が20を超えると——ダンジョンへの渇望、不眠、精神不安定——重度の中毒症状が発現します。指数25を超えれば、瞑想のアメジストと呼ばれるアーティファクトなしには日常生活に支障が出るのが通例です。しかし巖道先生の場合、これらの症状がほとんどありません」


「原因は」


「50年以上にわたる武術修練が精神と肉体の安定性を極限まで高めています。MRIで確認したところ——」


 赤羽が脳画像を表示した。


「前頭前皮質の灰白質密度が一般人の1.4倍。自律神経系の安定性は我々の計測機器で過去に記録した最高値です。フェロモンが脳の報酬系を刺激しても、前頭前皮質の抑制機能がそれを完全に上回っている。長年の瞑想と呼吸法の修練による後天的な脳の発達です」


 望月が付け加えた。


「現在、フェロモン中毒の緩和手段として瞑想のアメジストが流通し始めていますが、巖道先生はアーティファクトの助けを一切借りずにこの安定性を維持しています。我々が把握する限り、そのような人物は先生だけです」


 斎藤が防弾ガラス越しに巖道を見つめた。


「戦闘能力はどうだ」


 望月が資料をめくった。


「先週の予備テストの結果です。率直に申し上げて——計測が困難でした」


「困難?」


「握力計が壊れました。2台続けて。メーカーの計測上限を超えています。推定値で握力500キロ以上」


 篠原の眉が動いた。


「反応速度のテストでは、計測装置が追いつきませんでした。視覚刺激に対する反応テストで、装置がランプを点灯させた瞬間に、巖道先生はすでにボタンを押し終えていた」


「……装置の故障か」


「いいえ。繰り返しても同じ結果です。巖道先生は——検査官の筋肉の微細な動きから、ランプの点灯タイミングを事前に察知しています。武術の『見切り』が、フェロモンによる感覚強化と融合して人間の限界を超えた領域に達しています」


「跳躍力のテストでは、助走なしの垂直跳びで天井に頭が届きました。天井高は6メートルです」


 観察室が静まった。


 望月が続けた。


「しかし、これらはあくまで計測可能な身体パラメータです。巖道先生の真価は——数値では測れない部分にあると考えています」


「というと」


「50年以上の実戦武術の修練で培われた技術と判断力です。フェロモンで強化された冒険者は増えています。しかし大半は戦闘の素人です。身体能力が上がっても、それを効率的に使う技術がない。——巖道先生は違います。強化された肉体を完璧に制御し、状況に応じた最適な動きを瞬時に選択できる。格闘のみならず、刀、棒、槍、短刀、銃——あらゆる武器を使いこなせる。武器がなければ素手で戦える。そしてどの状況でも、冷静に最善の選択を下せる」


 参事官が補足した。


「ダンジョン攻略での実績も驚異的です。パーティを組まず、アーティファクト武器を一切使わず、素手のみで——単独で地下95メートルまで到達されています」


 観察室に低いどよめきが走った。


 地下80メートル以降はエリート兵隊蟻の領域だ。5人パーティでアーティファクト武装を整えても死者を出す確率が高い。その領域を、素手の単独行で15メートルも越えている。


「エリート兵隊蟻を少なくとも10体以上は単独で撃破しています。うち何体かは——拳の一撃で外骨格を粉砕。アーティファクトの破壊のバットでも傷をつけるのがやっとの外骨格を、素手で」


「先週のテストでは手刀で厚さ10センチの鋼板を切断しています。断面が鏡のように滑らかでした」


 篠原が唸った。


「……化け物だな」


 言葉は乱暴だったが、純粋な畏怖の色が声に滲んでいた。


「それで——今日のテストの内容は」


「実戦能力の最終確認です」


 参事官が檻を示した。


「対象はあのアムールトラです。シベリアトラとも呼ばれる現存最大のネコ科動物で、この個体は体長3.5メートル、体重500キロの規格外の大型個体です。飼育下で飼育員を3名殺害しています。ワーウルフの戦闘能力には遠く及びませんが、地球上の陸上動物としては——ヒグマと並んで最大級の脅威です」


「虎はヒグマと違い、肉食に完全に特化した殺傷機能を持っています。引っ掻きではなく突きの爪。噛みつきの咬合力は約450キロ。さらに——猫科特有の跳躍力と瞬発力。ヒグマの突進は直線的ですが、虎は横への切り返しができる。フェイクを使う。人を殺した個体は特に、人間の動きを予測する学習をしています」


「人を殺した虎は人を恐れない。この個体は——3度人を殺し、3度とも生き延びた。人間が弱い生き物であることを学習しています」


 斎藤が巖道を見た。


「武器は」


「本人の希望で、素手です」


「素手で。——500キロの虎と」


 参事官が頷いた。


「巖道先生の言葉を正確にお伝えします。『人間の身体がどこまで通用するか。それを確かめるのが目的であれば、道具に頼っては意味がない。——それに、武器が必要なら虎の牙と爪を借りればよい』と」


 斎藤が僅かに苦笑した。


 観察室のインターホンが、巖道の声を拾った。


「準備はよろしいか」


 静かな声だった。感情の起伏がない。緊張も興奮も恐怖もない。500キロの人喰い虎を前にして——朝の散歩の前に靴を履く時と同じ声だった。


「巖道先生。改めて確認します。本当に素手で」


「無論」


 柔らかいが、一切の迷いのない声だった。


「では——始めてください」


 斎藤の合図で、檻の扉が遠隔操作で開かれた。


 金属の軋む音が部屋に響く。


 虎が、一瞬動きを止めた。琥珀色の瞳が扉を見た。開いていることを理解するのに、ヒグマなら数秒かかっただろう。虎は——0.5秒で理解した。猫科の知能だ。


 檻から出た。


 500キロの身体が、意外なほど静かに床に降りた。猫科動物の歩行——足裏の肉球がゴムマットに吸い付くように、爪を出さずに歩く。音がない。500キロの質量の移動が、ほとんど無音だった。


 虎が巖道を認識した。


 7メートル先に立つ、一人の人間。


 虎の行動が変わった。尾が止まった。身体が低くなった。肩甲骨が持ち上がり、後肢に体重が移った。——狩りの姿勢だ。


 人間を3人殺した記憶。人間は——弱い。叩けば倒れる。噛めば死ぬ。一度もそうでなかったことはない。


 虎の瞳が巖道に固定された。


 観察室のモニターが巖道のバイタルを映している。


 心拍数——58。


 安静時よりもむしろ下がっている。


 赤羽が呟いた。


「心拍が……下がっている。500キロの虎を前にして、身体がより深い集中状態に入っている」


 虎が——跳んだ。


 ヒグマの突進とは根本的に違う。ヒグマは直線的に走る。虎は——跳躍した。後肢のバネで5メートルの距離を一瞬で詰め、空中で前肢を広げた。爪が展開する。鎌のように湾曲した爪——1本が8センチ。引っ掻くのではなく、突き刺して引き裂くための構造だ。


 500キロの質量が、秒速12メートルで巖道に殺到した。


 巖道が動いた。


 高速カメラが毎秒960フレームで撮影していた。通常の240フレームでは先週の予備テストで巖道の動きを捉えきれなかったため、今回は映画用の超高速カメラを持ち込んでいた。


 それでも——巖道の移動は数フレームで完了していた。ある瞬間には虎の正面にいて、次の瞬間には虎の右側面に立っている。


 虎の前肢が、巖道がいた空間を通過した。爪が空気を切り裂く音がする。だが巖道には触れていない。


 虎は着地と同時に身体を反転させた。猫科の反射だ。ヒグマにはできない動作——空中で体軸を回し、着地した瞬間に次の攻撃に移行する。


 2撃目。前肢のスイング。500キロの体重が乗った爪が、水平に薙ぐ。


 巖道は——前に出た。


 後退ではなく、前進。虎の腕の根元——肩の内側に踏み込んだ。爪の先端が届かない死角に入る。


 虎との距離が、ゼロになった。


 巖道の右手が上がった。手刀の形。五指を揃え、指先を真っ直ぐに伸ばす。


 手刀を虎の後頭部に振り下ろした。


 衝撃音が部屋全体に轟いた。


 壁面のコンクリートに微細な亀裂が走った。天井の照明が揺れた。


 500キロの虎の巨体が——床に叩きつけられた。衝撃吸収材のゴムマットが大きく凹み、マットの下のコンクリートに蜘蛛の巣状のひびが入った。床面が15センチほど沈下している。


 虎は——動かなかった。


 意識を完全に刈り取られていた。呼吸はある。心臓も動いている。だが脳が——一時的に機能を停止していた。脳幹に伝達された衝撃波が、中枢神経系を一瞬で遮断した。


 巖道が手を下ろした。


「——ここまでで良かろう」


 静かな声が、インターホンを通じて観察室に響く。


 沈黙。


 篠原がモニターに目を落とした。


 心拍数——60。


 戦闘前とほとんど変わらない。


 赤羽が録画を巻き戻していた。同じシーンをスローモーションで繰り返し再生している。


「……虎の跳躍を、正面から見切って側面に回り込んでいます。反応時間は……0.08秒以下。虎の跳躍速度がおよそ秒速12メートルですから、5メートルの距離を0.4秒で詰めてくる。その間に側面に移動し、手刀の射程に入っている。人間の反応速度の理論限界は0.1秒——それを超えています」


「2撃目への対処がさらに異常です。虎の着地後の反転に対して——後退ではなく前進で対処しています。虎の爪のリーチの内側、死角に入り込むための最短距離を選んでいる。一般的な格闘技の発想なら後退します。巖道先生の判断は——前に出て殺す」


 望月が分析を加えた。


「高速カメラの映像で、手刀の打撃時に周囲の空気に歪みが確認できます。局所的な衝撃波です。手刀の速度は——推定で秒速120メートル以上。マッハ0.35。人間の腕が生み出す速度としてはあり得ない領域ですが、フェロモン指数33.8の筋繊維密度と神経伝達速度を考慮すれば、理論的には不可能ではありません」


「それを殺傷ではなく、意識の遮断——気絶に留めている点にも注目すべきです。後頭部への打撃を正確に制御し、頸椎を損傷せず、脳幹への衝撃波のみで意識を落としている。殺そうと思えば殺せた。だがそうしなかった」


 赤羽が呟いた。


「なぜ殺さなかったんだ。虎は人喰いだ。殺処分が検討されていた個体だ」


 巖道の声がインターホンから聞こえた。どうやら聞こえていたらしい。


「絶滅危惧種だ。——人間が愚かにも餌を与えた結果だろう。獣に罪はない」


 観察室が静まった。


「殺す必要のないものは殺さん。力とは——振るうものではなく、振るわずに済ませるためのものだ」


 虎はまだ気絶している。規則的な呼吸。巨大な肋骨が上下している。30分もすれば意識が戻るだろう。


 望月が口を開いた。


「大臣。これがフェロモン指数33.8の人間です。限界値は41。まだ7以上の伸びしろがある。限界値に達した時——この方がどれほどの力を持つか、正直に申し上げて想像がつきません」


「ワーウルフの身体能力はまだ正確には計測できていませんが、サンライズ作戦の記録から、人間の10倍以上と推定されています。巖道先生は現時点で既にその領域に片足を踏み入れている。限界値に達すれば——吸血鬼にも正面から対抗し得る可能性があります」


 参事官が立ち上がった。


「特殊部隊の編成について、改めて説明します」


 スクリーンに構想案が表示された。



  【対超常脅威特殊部隊(構想案)】


  目的:六本木ヒルズに拠点を置く吸血鬼一族への対処

     将来的にはダンジョン深層の脅威にも対応


  指揮官候補:巖道征四郎(戦闘指揮および隊員の戦技訓練)

  副指揮官:未定(特殊作戦群より選抜)


  隊員構成:

   ・フェロモン指数20以上の冒険者・元自衛隊員から選抜

   ・初期編成15名を目標

   ・アーティファクト武装を標準装備


  特記事項:

   ・巖道先生は指南役ではなく自ら前線に立つことを希望

   ・瞑想のアメジストを全隊員に配布(中毒管理)



「先週の六本木偵察チームの失敗を受けて——」


 参事官が声を落とした。


「4名のうち2名が未帰還です。殺害されたか、あるいは——転化された可能性がある。転化された場合、偵察計画の詳細が敵に漏れたことを意味します」


「この部隊は、敵にこちらの情報が筒抜けになる前提で作戦を立てなければなりません。従来の特殊作戦群のドクトリンに依存しない、全く新しい戦術体系が必要です」


 参事官が巖道の方を見た。


「巖道先生は、その戦術体系を構築できる唯一の人物だと考えています。武芸百般の技量。フェロモン強化への耐性。実戦経験。そして——人間離れした戦闘能力」


「加えて——」


 参事官の声が微かに硬くなった。


「巖道先生には、個人的な動機もあります。サンライズ作戦の犠牲者の中に——先生の門下生がいました」


 観察室が沈黙した。


 斎藤が低い声で尋ねた。


「何名だ」


 参事官がわずかに間を置いた。


「3名です。特殊作戦群から2名、SAT隊員として1名。いずれも巖道先生の道場に長年通っていた現役の隊員でした。3名とも——吸血鬼関連の戦闘で犠牲になっています」


 防弾ガラスの向こうで、巖道が気絶した虎の呼吸を確認していた。稽古着の乱れを直し、何事もなかったかのように立っている。65歳の穏やかな老人。500キロの虎を一撃で沈めた男には到底見えない。


 だが——その背中に、哀しみが一筋、影のように落ちているのを、斎藤は見た。


「特殊部隊の件、正式に閣議に諮る。巖道先生には、部隊の指揮をお願いしたい」


「それについてですが」


 望月が資料の別のページを開いた。


「巖道先生は自ら前線に立つことを希望されています。正確にお伝えします。——『指図だけする指揮官は、兵に信用されぬ。儂が先頭に立つ。教え子を3人失った。その借りは——儂自身が返す』と」


 篠原が初めて笑みを浮かべた。


「受け入れよう」


 斎藤が小さく頷いた。


「隊員の選抜は」


 参事官が答えた。


「候補者リストは作成済みです。冒険者ギルドの協力を得て、フェロモン指数の高い冒険者を把握しています。——ただし」


「ただし」


「フェロモン指数が高い人間の大半は、中毒症状を抱えています。戦闘能力は高くても、精神的に不安定な者が多い。この部隊に必要なのは、強さだけではない。自制心と——人間としての判断力を維持できる者です」


 参事官の目が、防弾ガラスの向こうの巖道に向いた。


「巖道先生が、その手本になる」


 斎藤が立ち上がった。


「では——動こう。特殊部隊の正式発足を、1週間以内に閣議決定する。名称は追って決める」



     



 翌日。


 巖道征四郎は、市ヶ谷の訓練施設の屋上にいた。


 東京の空を見上げている。曇り空。かつてならビルの森の上に見えていた富士山も、今日は雲に隠れている。


 サンライズ作戦から時が流れた。東京の人口は120万人減り、夜の街の灯りは3割減った。それでも——1,400万の人間がこの街に残っている。


 参事官が屋上に上がってきた。


「先生。隊員候補のリストを持って参りました」


「見せてくれ」


 巖道がリストを受け取った。15名の候補者。名前、年齢、経歴、フェロモン指数、限界値、ダンジョン攻略歴、中毒の程度。


 巖道は一人一人の情報を丁寧に読んだ。老眼鏡は使わない。フェロモンで強化された視力が、小さな文字も正確に捉える。


 その中に——一つの名前が目に留まった。


 神崎遥。27歳。元アンダーグラウンドMMAファイター。フェロモン指数22.3。限界値22。限界突破者。


「この女。神崎遥」


「はい。地下格闘技の元チャンピオンです。ダンジョンでの戦闘経験が豊富で、指数は中位ですが——戦闘技術が突出しています。限界突破者ですが、モンスター化はしていません」


「知っている」


 参事官が驚いた。


「ご存じですか」


「神崎凱。儂の弟子だった男の娘だ」


 巖道の声に、僅かな感慨が混じった。


「凱は巖道無双流の高弟だった。筋が良く、意志も強かった。だが——正道を歩まなかった。地下格闘技の世界に入り、そこで死んだ」


 巖道が東京の空を見つめた。


「娘も同じ道を歩んだか。——地下格闘技、限界突破。親に似て、急いた道を選ぶ」


「現在、特濃フェロモン結晶を使用した形跡があります。中毒リスクが高い状態です」


「呼べ」


 巖道がリストを返した。


「この娘は部隊に必要だ。格闘技術の基礎が出来ている。凱は自己流だったが——才能は確かにあった。娘にもそれが受け継がれているなら、鍛え直せば使える」


 間を置いた。


「——ただし、このまま放置すれば深層に消えた冒険者たちと同じ道を辿る。その前に、手を打たねばならん」


 参事官が頷いた。


「了解しました」


 巖道が再び空を見上げた。


 この街は——まだ終わっていない。人口が減り、灯りが減り、希望が減った。だが1,400万の人間がまだここにいる。六本木ヒルズには化け物がいる。ダンジョンの深層には巨大な蟻がいる。フェロモン中毒が蝕み、社会が軋んでいる。


 だが——まだ、人間がいる。


「儂のような老骨が出張らねばならんとは。教え子を守れなかった身で、人に教えを説くのもおこがましい」


 巖道が呟いた。


「だが——借りは返さねばならん」


 65歳の武術家の目が、東京の空を射抜いた。穏やかな老人の目ではない。戦場に立つ者の目だ。


「小川。佐伯。高橋。——お前たちの仇は、儂が討つ。待っておれ」


 3人の教え子の名を呼んだ。3人とも、あの夜に消えた。


 その借りを返すために——この老いた身体が、最後にもう一度、戦場に立つ。


 まだ名前すらない部隊だ。隊員も、装備も、戦術も、何も決まっていない。


 だが——確かに、始まった。

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― 新着の感想 ―
あの武術老人こと巖道さんは現時点で人類最強だろう おまけに警察や自衛隊にお呼ばれして人格面でも高潔で力を無闇に振るわない素晴らしく出来た人間だ だからこそそんな存在が亡くなるあるいは最悪向こう側に下っ…
男の娘?と思ったけど、感想欄に回答があった
>>神崎凱。儂の弟子だった男の娘だ !? 性別それでいいのか?
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