第25話「侵食する影(後編)」
六本木ヒルズ森タワー、地下2階。
5日が経っていた。
かつて機械室だった空間が、産卵のために整えられていた。床のコンクリートに古い毛布が何重にも敷かれ、蝋燭の灯りが壁面に揺れている。電力は遮断されたままだ。
始祖が、部屋の中央に横たわっていた。
変態を完了した人間の女性の身体が——産卵の態勢に入っている。
リリスとセレネが両脇に控え、ヘカテが後方で記録を取っていた。カーミラは階上で防衛指揮。念話で状況を共有している。
始祖の顔には苦痛が浮かんでいた。前回の産卵——一族の誕生——の時は、まだ変態途上の異形の身体だった。節足動物に近い構造が産卵を容易にしていた。
今は違う。人間の女性と同じ骨格、同じ筋肉。産卵に適した身体構造ではない。
始祖の腹部が波打った。深紅の脈動が、薄い肌の下に透けて見える。
「……来る」
始祖が歯を食いしばった。
腹部から——暗赤色の卵が押し出された。
直径約15センチ。半透明の殻の中に、縮こまった影が見える。前回の卵より一回り小さい。血液の供給量が制約になっているのだ。
リリスが卵を受け取り、毛布の上に静かに置いた。
「1個目」
3分の間隔で、2個目が続いた。始祖の額に脂汗が浮いている。
3個目。4個目。5個目。
5個目の産卵で、始祖の身体が大きく震えた。
「……母」
リリスが始祖の手を握った。冷たい手が、微かに震えている。
「まだ2つ。耐えてください」
始祖が目を閉じ——6個目を産んだ。
そして——7個目。
最後の卵が押し出された瞬間、始祖の身体から力が抜けた。意識が落ちかけている。ヘカテが即座に血液パックを準備した。人質から採取した血液——産卵後の回復用に確保していた分だ。
「摂取させます」
ヘカテがパックの口を始祖の唇に近づけた。始祖が本能的に吸い始めた。目は閉じたまま。
「人質の消耗は」
リリスが聞いた。
「5日間の集中採血で、人質4名が死亡。残存76名。——予測通りです。死亡した4名はグール化処理を完了しました」
リリスが頷いた。
7個の卵が、毛布の上に並んでいる。
暗赤色の殻が——既に脈動を始めていた。中の存在が、養分を吸収しながら急速に成長している。
「孵化までの予測時間は」
ヘカテが計算した。
「前回——私たちが生まれた時——は約24時間で孵化しています。ただし今回は卵が前回より小さく、始祖の消耗も大きい。孵化には36時間から48時間かかると推定します」
「セレネ、ワーウルフの卵5つはお前が管理しろ。孵化した瞬間から従属関係を刷り込め」
「了解」
「純種の卵2つは——私が立ち会う。孵化の瞬間に最初に目にする存在が教育者になる」
36時間後。
最初に動いたのは、ワーウルフの卵だった。
殻を内側から破り、灰色の毛皮に覆われた腕が突き出た。指——ではない。5本の鉤爪だ。
セレネが、卵の前に立っていた。生まれたての存在が最初に認識するのは、この銀灰色の髪の純種だ。
殻が砕け、1体目のワーウルフが這い出た。体長は1メートル弱。成体の半分ほどだが、24時間以内に2メートルを超える。成長速度は、血液を与えることで加速される。
獣の頭部が持ち上がった。琥珀色の瞳が、セレネを見た。
「——私に従え」
セレネが、ワーウルフの頭に手を置いた。従属の刷り込み。生まれて最初の記憶が「この存在に従う」になる。
ワーウルフが——低い唸り声で応えた。
続いて2体目、3体目。いずれも灰色から黒色の毛皮。4体目は茶褐色。5体目は——白い毛皮だった。
「白は初めてだ」
セレネが白いワーウルフを観察した。
体格が他の4体より一回り大きい。卵の段階で養分の吸収効率が高かったのか。目に——他の個体にはない鋭さがあった。知性と呼ぶほどではないが、何かを見定めるような視線。
セレネの口元が僅かに緩んだ。
「……当たりかもしれない」
純種の卵は、ワーウルフより6時間遅れて孵化した。
リリスが、2つの卵の前に立っていた。
1つ目の殻が割れた。
中から現れたのは——小さな身体だった。人間の赤ん坊ほどのサイズ。前回の自分たちと同じだ。青白い肌。黒い髪が濡れて額に張り付いている。蒼い瞳が、ぼんやりと開いた。
幼体が——リリスを見上げた。
「……姉上」
第一声がそれだった。前回の純種と同じだ。卵の中で、一族の記憶の断片を吸収している。言語能力は生まれた時点で基礎が備わっている。ただし語彙と知識は幼児レベルで、急速に拡張していく。
「私はリリス。お前の姉だ。——名前をつけよう」
リリスが、蒼い瞳を見つめた。
「ノクス。夜の名を持ちなさい」
ノクスが——小さな頭で、頷いた。
2つ目の卵が割れた。
もう1体の幼体。栗色の髪。金色の瞳。ノクスよりさらに小さいが、瞳の奥に——何かを観察するような光があった。
「……姉上」
「お前はミラベル」
ミラベルが——リリスではなく、部屋の壁を見た。蝋燭の影が揺れている。その影の形を、生まれて最初の数秒で分析しているかのように。
「ここは——どこですか」
「六本木ヒルズ。お前の家だ」
「家」
ミラベルが、その言葉を反芻するように呟いた。
2体の幼体は、急速に成長を始めた。数時間で人間の子供ほどに。半日で少女ほどに。丸一日で——ノクスは外見20代前半の女性に、ミラベルは10代後半の少女に達した。
成長の過程で、それぞれの個性が鮮明になっていった。ノクスは身体の動かし方を本能的に学び、寝返りから立ち上がるまでの動作が他の純種より滑らかだった。ミラベルは周囲を観察する時間が長く、部屋の構造や人の動きを目で追い続けていた。
戦闘型と、分析型。カーミラがそう評したのは、成体に達した翌日のことだった。
産卵から3日後。
38階のフロアが訓練場に改装されていた。デスクと棚を壁際に押しやり、中央に10メートル四方の空間を確保してある。
ノクスとミラベルが、カーミラの指導を受けていた。
「霧化」
カーミラが命じた。
ノクスが目を閉じた。身体の輪郭がぼやけ——深紅色の霧に変わった。霧が訓練場の空間を漂い、数秒後に人間の姿に凝集する。
「4秒。遅い」
カーミラの鞭が、コンクリートの床を打った。乾いた音が反響する。
「霧化は純種の生命線だ。弾丸が飛んでくる。炎が来る。その瞬間に、0.5秒以内に完全な霧にならなければ死ぬ。サンライズ作戦では、私たちの霧化速度が銃弾と火炎放射を凌いだ。4秒では——戦場で最初の1秒で殺される」
「はい、姉上」
ノクスが再び試みた。3秒。
「もう一度」
2.5秒。
「改善している。——1週間以内に1秒を切れ」
ミラベルは別の訓練に取り組んでいた。血の結晶化——自身の血液を体外に押し出し、固体化して武器を生成する技術だ。
ミラベルが手のひらに集中した。皮膚の表面から暗赤色の液体が滲み出し、空気に触れた瞬間に結晶化が始まった。長さ25センチほどの刃が形成される。
「断面が不均一」
カーミラが刃を指で弾いた。澄んだ音ではなく、鈍い音が返ってくる。
「内部に気泡が残っている。硬い対象——アーティファクトの防具や壁——を切断すると、気泡から亀裂が走って折れる」
「どうすれば」
「結晶化の速度を落とせ。速く固めると気泡が残る。ゆっくり、均一に。実戦では矛盾する要求だが、訓練で精度を上げれば速度は後からついてくる」
ミラベルが結晶を液体に戻し、再び形成した。10秒かけて、丁寧に。
カーミラが指で弾いた。——澄んだ高い音。
「改善された。続けろ」
ノクスが口を開いた。
「姉上。私たちの血の武器の固有形態は——いつ決まるのですか」
「最初の本気の戦闘で、本能が最も適した形を選ぶ。私は鞭。リリスは剣。セレネは双剣。ヘカテは槍。エリザベートは大鎌。——お前たちが何を握るかは、まだ分からない」
ノクスの蒼い瞳が、静かに光った。
同じ頃、54階。
リリスと田中が、転種の戦闘部隊の編成について議論していた。
「現在、六本木ヒルズ内の転種は19名です」
田中が資料を広げた。手書きの名簿と、各人の経歴をまとめた書類だ。
「内訳は——元SAT4名。私、岡田、渡辺、高橋。サンライズ以前から一族に所属。残りの15名は、サンライズ作戦中に転化した者と、それ以前に社会浸透用として転化した民間人です」
「サンライズで転化した10名の素性は」
「特殊作戦群の隊員が7名。一般の陸上自衛官が2名。警察機動隊員が1名。——特殊作戦群の7名が戦闘部隊の中核になります」
リリスが名簿に目を通した。
「7名の専門は」
「近接戦闘の専門家が1名——空挺レンジャー課程修了者です。転化後の身体能力と組み合わせれば、対人戦闘で最も信頼できる。狙撃手が1名。500メートル先の人間サイズの標的を撃ち抜く技量です。通信・電子戦の専門家が1名——暗号通信と電波妨害の知識がある。潜入・偵察の専門家が1名——夜間行動と隠密移動に長けています。転種の暗視能力と合わせれば、人間の偵察部隊を凌駕する。衛生兵が1名——転種に通常の医療は不要なので、人質の健康管理に回しています。車両操作の専門家が1名——装甲車を含む車両の運転が可能。残り1名は火力支援の専門家です」
「元SAT4名と合わせて11名が、軍事訓練を受けた転種だ」
「はい。この11名を戦闘部隊の骨格とし、残り8名を支援要員として配置する提案です」
リリスが考え込んだ。
「部隊の運用方針は」
「3名から4名ずつの小隊に分割する方式を推奨します。サンライズでは人間が3方向から同時に来ました。次も多方向侵入を想定すべきです。各小隊に元SAT1名を組み込み、指揮を分散させます」
「武装は」
田中の表情が引き締まった。
「まず鹵獲品の在庫があります。六本木ヒルズ占拠時のSAT装備と、サンライズ作戦で無力化した自衛隊員の装備。89式小銃が14丁、拳銃が20丁以上、防弾チョッキ、暗視装置、無線機——数だけなら小隊を装備できます」
「問題は弾薬か」
「はい。89式の5.56mm弾は鹵獲分で約2,000発。拳銃弾は約800発。補給がない以上、実戦での消費は最小限に抑えなければなりません。訓練にも使えない。全弾が備蓄です」
リリスが頷いた。
「使い切れば終わりだ」
「ですから運用方針として——銃火器は防衛戦の最終手段と位置づけます。転種の身体能力は素手でも人間を圧倒できます。日常の戦闘は近接格闘と鹵獲した刃物で対処し、銃火器は大規模攻撃の迎撃時にのみ使用する」
リリスが少し考え、口を開いた。
「逆の発想がある。89式は軍用規格の弾薬だ。補給の見込みがないなら——89式そのものを裏社会に流せ」
田中の目が動いた。
「軍用小銃は闇市場で高値がつきます。シリアルナンバーを削り落として出所を特定不能にすれば——」
「大阪の闇金融ルートに載せる。売却益でアーティファクトと拳銃弾を買い戻す。軍用小銃を渡すことで裏社会との人脈も強化できる。一石三鳥だ」
「合理的です。89式を5丁ほど売却に回し、残りは防衛用に保持する形で」
「それでいい。——加えて、アーティファクトの武装化も並行して進めろ。現在のアーティファクト武装は鋼鉄の木刀2本、守護の手袋1組、魔弾銃1丁。これが全てだ」
「魔弾銃が特に貴重です。品質スコア28の並品質ですが、BB弾が鉄板を貫通する威力で、若干の追尾機能もある。これが10丁あれば状況は一変しますが——1丁しかない」
リリスが目を閉じた。念話でエリザベートに繋がる。
数秒の沈黙の後、目を開けた。
「エリザベートに伝えた。アーティファクトの調達優先順位を護符だけでなく武器系にも拡大する。鹵獲装備の売却益もアーティファクト購入資金に回す」
「よくまとめた。部隊編成はお前に一任する」
「了解しました」
深夜。54階の窓際。
リリスとヘカテが、人質の管理について話していた。
「産卵後の人質は76名。衰弱が進んでいる者は14名に増えています」
ヘカテがタブレットで報告した。
「14名のうち、1週間以内に死亡する可能性が高い者が6名。このままの採血ペースを維持すると、1ヶ月後には人質が60名を下回ります」
「60名。一族の維持に必要な最低血液量は」
「始祖の回復を含めて週あたり約30リットル。1名あたり週400ミリリットルの採血で75名なら30リットル。60名では24リットルで——6リットルの不足が生じます」
「人質の補充は」
「封鎖線の通過経路3本はいずれも狭く、意識のある人間を運搬するには不向きです。薬物で意識を落としても、体重60キロの人体を800メートルの地下管渠で運ぶには2人がかりで1時間以上。経路の発覚リスクが高すぎます」
「別の方法を」
「2つの案があります」
ヘカテがタブレットに表示した。
「第一案。赤十字血液センターからの窃取です。新宿区の東京都赤十字血液センター本社は常時3,000から5,000ユニットの血液在庫を保持しています。1ユニット200ミリリットルとして、600リットルから1,000リットル。週30リットルの需要に対して、在庫のごく一部を定期的に抜き取れば、統計上の誤差に紛れます」
「実行方法は」
「職員の転種化です。輸血用血液には使用期限があり、期限切れ血液の廃棄は日常的に発生しています。廃棄予定の血液を横流しするか、期限内の血液を廃棄扱いにして持ち出す。帳簿上の処理は、転種化した職員が行います」
「第二案は」
「病院の血液在庫からの抽出です。大型病院は独自に血液在庫を保有しています。看護師か検査技師を1名転種化すれば、管理が緩い分、発覚リスクが低い。量は赤十字より少ないですが」
リリスが念話でエリザベートの意見を確認した。
「エリザベートは第一案を推している。社会浸透組の松田に指示を出し、赤十字の職員を調査させる。独身で夜間勤務がある者。——1ヶ月以内に実行する」
「了解しました。それまでの間は採血量を調整します。純種の活動量を5パーセント制限し、始祖の回復ペースを遅らせることで、週あたりの必要量を27リットルに圧縮します」
「やれ」
屋上。
セレネが、新世代のワーウルフ5体の初回訓練を行っていた。
前世代の3体と合わせて、8体。屋上のコンクリートに伏せる灰色と黒色の巨体の中に——1体だけ、白い毛皮が際立っている。
「屋上の端から端まで。走れ」
8体が一斉に駆けた。コンクリートが砕ける音。爪が地面を抉り、巨体が風を切る。
前世代の3体が先行した。経験の差だ。新世代の5体はまだ自分の身体の使い方を完全に把握していない。急カーブで体勢を崩す個体がいる。
だが白いワーウルフだけは——新世代でありながら、前世代に並んでいた。
セレネの目が細まった。
ミラベルが、セレネの傍に立っていた。
「セレネ姉上。カーミラ姉上から、情報部門の見習いとして配属の許可が出ました」
「聞いている」
セレネが振り向いた。
「何を学びたい」
「人間社会の構造です。経済の仕組み、政治の意思決定過程、軍の組織体系。それと——情報の収集と分析の方法論」
「なぜ」
ミラベルは即答せず、少し間を置いた。生まれて数日だが——その沈黙は、情報を整理してから発言する人間の習慣に似ていた。
「リリス姉上の拡散戦略を聞きました。大阪、名古屋、福岡。そしてその先。拡散の先端に立つには、人間社会の内部に溶け込む能力が不可欠です」
セレネがしばらくミラベルの金色の瞳を見つめた。
「いいだろう。明日から社会浸透組が収集した情報の整理を手伝え。新聞、テレビ、ネット——人間のメディアを毎日読め。日本語だけでなく英語のニュースも含めてだ」
「英語は——まだ不十分です」
「転種の中に英語話者がいる。在日米軍との連絡業務をしていた元自衛官だ。彼から学べ。純種の学習速度なら、1週間で日常会話、2週間でニュースが読める」
ミラベルが頷いた。
セレネが屋上の縁に歩いた。眼下に封鎖線の投光器が光っている。
「1つ教えておく」
「はい」
「拡散戦略の最大の障壁は、距離でも言語でもない」
セレネの声が低くなった。
「守護の護符だ。一族は8個しか持っていない。海外に展開すれば護符を各拠点に配分する必要がある。護符なしの活動は夜間に限定される。それでは人間社会への浸透に限界がある」
「護符の追加入手は」
「エリザベートが調達ルートを構築中だ。だがダンジョンでの護符の出現率は極めて低い」
ミラベルが夜景を見下ろした。灯りの減った東京。
「——では、護符に依存しない活動形態を模索する必要があるのでは」
セレネの眉が動いた。
「どういう意味だ」
「夜間のみの活動でも浸透できる社会的ポジションを探す、という意味です。人間社会には、夜間を中心に機能する領域がある。繁華街、物流、医療の夜勤、ネットを介した情報操作——これらの領域なら、日中の活動制限は致命的ではありません」
セレネが、ミラベルを見直した。生まれて数日の純種が——この分析を出してくる。
「……面白い。その仮説を検証しろ。夜間活動のみで機能する社会浸透モデルを——お前が設計してみなさい」
「了解しました」
それから2日。
産卵から10日目の深夜。
カーミラが、外壁防衛の夜間巡回を指揮していた。
田中の提案に基づく新しい監視態勢が稼働している。ワーウルフ2体を地下駐車場の出入口に、2体を屋上の対角に配置。残り4体はヒルズ内の中層階に待機。転種の小隊が外壁沿いの要所を巡回し、純種が交代で聴覚監視を行う。
カーミラは30階の窓際にいた。目を閉じ、聴覚を拡張している。
純種の聴覚は——300メートル先の人間の心拍を捉えることができる。封鎖線の兵士たちの心拍は、もう慣れた。規則的で、退屈そうな鼓動。
その中に——異質な心拍が混じった。
封鎖線の外側。200メートル。4つの心拍。
規則的だが——抑制されている。呼吸を意図的にコントロールしている人間。訓練された心拍だ。
カーミラの目が開いた。
「——来た」
念話がリリスに飛んだ。
《4名。封鎖線の外側200メートル。訓練された心拍。偵察部隊と断定》
《了解。ノクスを出せ。お前が指揮を取れ。捕獲を優先。逃げる者は西面チームだけ逃がせ。東面を確保しろ》
《了解》
カーミラが窓を開けた。30階——地上から約120メートル。
身体が霧に変わった。深紅色の霧が窓から流れ出し、ビルの外壁を降りていく。地上に近づくにつれて実体化が始まり——地下駐車場の出入口の影に、音もなく着地した。
ノクスが既にそこにいた。蒼い瞳が暗闘に光っている。
「4つの心拍を捉えています。2名ずつに分かれて東面と西面から接近中」
「東面の2名を取る。私が正面から抑え、お前は背後に回り込め。——初めての実戦だ。失敗は許されない」
ノクスが頷いた。表情に動揺はない。
2体の影が、闇の中に消えた。
六本木ヒルズの封鎖線から200メートル。
4人の人影が、ビルの影に潜んでいた。
自衛隊特殊作戦群の偵察チーム。政府のダンジョン管理庁設立準備室が防衛省に非公式に依頼した情報収集活動だ。作戦命令書は存在しない。公式には「封鎖線の定期巡回の一環」として処理されている。
リーダーは岩瀬。30代半ばの二等陸尉。特殊作戦群の出身で、サンライズ作戦には参加していないが、生還者からの報告書を繰り返し読み込んでいた。
4名全員が暗視装置を装備。消音拳銃。防弾チョッキ。各自がライターと可燃性スプレーを携帯している。サンライズの戦闘記録で炎がワーウルフに有効だったことを踏まえた、簡易の火器だ。
「偵察目標はヒルズの外壁状態と敵の配置パターン確認。交戦は回避。発見されたら即撤退」
3人が頷いた。
「2個チームに分かれる。東面と西面から接近。15分以内に完了し、撤退点で合流」
岩瀬がハンドサインを出した。東面チーム——岩瀬と三等陸曹——が、ビルの影を縫って移動を開始した。
暗視装置が闇を緑色に変換する。
森タワーの外壁に沿って移動した。壁面に損傷はない。窓ガラスも健在。
3階付近の窓に——影が見えた。
岩瀬が手を上げ、停止。暗視装置を望遠に切り替える。
窓の内側。2メートルを超える巨大な影。二足歩行。長い鼻面。獣の頭。
ワーウルフ。
実物を目にすると——報告書の文字が肉体を持った。心拍が跳ね上がった。
巨体が窓際を離れ、奥に消えた。巡回だ。
岩瀬が小声で無線に呟いた。
「東面。3階にワーウルフ確認。巡回間隔の記録開始」
「了解。西面、異常なし」
5分。ワーウルフが再び窓際を通過した。5分間隔。規則的。
上層階——30階から40階付近に微かな光が見える。蝋燭か。活動区域の特定に繋がる情報だ。
岩瀬がメモを取っていた。
——その時。
「動かないで」
声が、すぐ背後から聞こえた。
日本語。女性の声。低く、感情のない声。
首の後ろに——冷たいものが触れた。鋭い。刃物のような何か。
暗視装置の緑色の映像に、女性の姿が映った。
白い肌。蒼い瞳。漆黒の短髪。
——報告書にない顔だ。サンライズの戦闘記録で確認された4体の純種のいずれとも異なる。新しい個体。
「銃を置いて」
岩瀬は動けなかった。首に当てられているもの——直感で分かった。血の結晶。報告書にあった、吸血鬼が自身の血液を固体化して作る武器。鋼鉄以上の硬度。
「……了解」
消音拳銃を、ゆっくりと地面に置いた。
背後の女性——ノクス——が、岩瀬の手首を掴み、腕を背中にねじ上げた。握力の桁が違う。抵抗すれば関節が砕ける。
同時に——もう一つの影が、闇から滲み出た。
カーミラ。金髪の純種が、岩瀬の部下を既に拘束していた。腕を背後で極め、拳銃を取り上げている。
若い隊員の目が恐怖で見開かれていた。手首から骨がきしむ音が微かに聞こえた。
岩瀬の無線が鳴った。
「東面、応答。——東面!」
西面チームからだ。
ノクスが岩瀬の無線を取り上げ、彼の前に差し出した。
「仲間に撤退を命じて。嘘をつけば——」
血の結晶の刃が、首への圧力を僅かに増した。
「……こちら東面。任務中止。西面は撤退しろ。繰り返す、撤退」
「東面、状況は——」
「撤退。命令だ」
数秒の沈黙。
「……了解」
西面チームの気配が遠ざかっていった。
カーミラが微笑んだ。
「いい判断ね。仲間を逃がした。——でも、あなたたち2人はここまでよ」
岩瀬が冷静に尋ねた。
「殺すのか」
「殺さないわ」
カーミラの声は穏やかだった。だがその奥に、有無を言わさぬ力がある。
「特殊作戦群の偵察要員。私たちの一族にとって——得がたい人材よ」
岩瀬の顔から血の気が引いた。サンライズの報告書。元SAT隊員が転化され、戦術顧問として機能している——。
「——断る」
「選択肢があるとは言っていないの」
カーミラが——若い隊員の首筋に、牙を突き立てた。
隊員が声にならない叫びを上げ——やがて力を失った。
岩瀬が歯を食いしばった。仲間が、目の前で人間でなくなっていく。
ノクスが、岩瀬の首筋に顔を近づけた。蒼い瞳が——深紅に変わった。
「これが——私の最初の転化です」
ノクスの声は、氷のように静かだった。
牙が首筋に沈んだ。
1時間後。54階。
リリスが、カーミラとノクスの報告を受けていた。
「偵察チーム4名中2名を捕獲。2名は撤退。転化は完了しています」
カーミラが報告した。
「1名は岩瀬二等陸尉。偵察計画の詳細と封鎖線の配置情報を持っています。もう1名は通信兵の三等陸曹。暗号通信の周波数と更新スケジュールに関する情報が得られました」
「田中に引き合わせろ。部隊に編入する」
リリスがノクスを見た。
「初の実戦と初の転化。——所感は」
ノクスが僅かに間を置いた。
「気配の察知が遅れました。25メートルまで接近を許しました。カーミラ姉上は200メートル先から心拍を捉えていた。私の聴覚はまだ純種の水準に達していません」
「生まれて数日だ。当然よ。——背後からの接近と拘束は的確だった。殺すより制圧を選んだ判断も正しい」
「もう1つ」
カーミラが付け加えた。
「岩瀬から転化の過程で引き出した情報があります。政府がダンジョン管理庁の設立を急いでいること。そして——この偵察は今回が初めてではなく、先週にもドローンによる上空偵察が行われていた。夜間に超小型ドローンを飛ばし、熱源探知で建物内部の活動を映像化している」
リリスの目が鋭くなった。
「ドローンか。配置パターンが記録されている可能性がある」
「ヘカテに電波探知の態勢を構築させるべきです。ドローンは操縦用の電波を発信します」
「ヘカテ」
ヘカテが既にタブレットを操作していた。
「転種の中に通信・電子戦の専門家がいます。彼に電波探知装置の構築を指示します」
「急げ。人間は情報を積み上げている」
翌朝。首相官邸。
ダンジョン管理庁設立準備室の室長——内閣官房の参事官——が、報告書を読んでいた。
「六本木偵察チーム、4名中2名帰還。2名未帰還」
帰還した西面チームの所見が記載されていた。
「岩瀬二尉の撤退命令の声は平静だった。ただし——平静すぎた。通常の緊急撤退命令には状況の断片が含まれる。『敵確認』『接触あり』。岩瀬二尉の命令にはそれがなかった。何者かに強制された可能性が高い」
参事官が報告書を閉じた。
未帰還。殺されたか、転化されたか。どちらにしても——敵は偵察チームの存在に気づいていた。
封鎖線の強化を防衛省に具申する。しかし——兵力に余裕がないことは分かっている。全国55箇所以上のダンジョン入口の管理、中毒者への対応、治安維持——人員は限界を超えている。
もう1枚の書類を手に取った。
「対超常脅威即応部隊の編成計画」
久我山一佐が提出した非公式な提案書。フェロモンで強化された精鋭を選抜し、超常脅威に対処する小規模部隊を編成する構想だ。まだ紙の上の計画に過ぎない。
だが偵察チームの失敗が、この計画を前倒しにする根拠になるかもしれない。
その夜。
リリスが念話でエリザベートに連絡を取った。
「大阪の進捗は」
リリスが目を閉じ、エリザベートの報告を受信した。数秒後、目を開けた。
「大西と吉田が道頓堀のセーフハウスに入居済み。そして——闇金融業者の転種化を完了。対象は村井という42歳の男。転化3日後から通常通り出勤し、取り立て業務を継続しています。周囲は変化に気づいていない」
リリスの口角が僅かに上がった。
「大西が毎晩、村井と接触して状況を確認している。アーティファクト調達ルートへの最初の接続は——村井が信頼を得ている仲介業者を通じて来週中に試みる予定」
「名古屋は」
「鈴木が栄で情報収集を継続。名古屋の裏社会は大阪より排他的で、浸透には時間がかかる。焦らず、繁華街の人間関係の把握に集中している」
リリスが始祖の部屋に向かった。
54階。始祖は椅子に座り窓の外を見ていた。産卵の消耗から——まだ完全には回復していない。だが深紅の瞳は澄んでいた。
「母。報告があります」
「聞こう」
「偵察部隊2名を捕獲・転化しました。田中の部隊に編入します。六本木の転種は21名になりました。大阪では闇金融業者の転種化に成功。アーティファクト調達ルートの構築に着手しています。ノクスが初の実戦を経験し、ミラベルは情報部門で学習を開始。新世代ワーウルフ5体の訓練も順調です」
「……進んでいる」
「はい。ゆっくりと、しかし確実に」
始祖が窓の外を見た。封鎖線の投光器。その向こうの暗い東京。
「リリス」
「はい」
「……人間は、偵察を送ってきた。次は何を送ってくる」
「田中と——転化した岩瀬の分析では、当面は偵察の継続です。情報を集め、分析し、対策を練る。人間は慎重です。サンライズの失敗を繰り返すつもりはない」
「……時間がある」
「はい。だからこそ——今のうちに根を伸ばします」
始祖が目を閉じた。
「……急がなくていい」
「……だが、止まるな」
リリスが微笑み、退室した。
六本木ヒルズの暗い窓の中で、深紅の瞳だけが光っている。
大阪の道頓堀で、闇金融業者が平然と朝を迎える。名古屋の栄で、転種の男が繁華街を歩く。東京の歌舞伎町で、社会浸透組の転種が夜の街に溶け込んでいる。
まだ——細い根だ。
だが人間が気づいた時には——既に深く、広く、引き抜けないほどに。
それが——侵食。
見えない亀裂が、東京の足元に走っていた。




