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血を与えたら進化しすぎた件~世に出回るアーティファクトも東京に出来たダンジョンも多分俺のせいだけど面白いからいいよね~  作者: 唯之助


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第25話「侵食する影(前編)」

 六本木ヒルズ森タワー、54階。


 午前2時。


 始祖の吸血鬼が、かつて展望レストランだったフロアの窓際に立っていた。


 ブラインドの隙間から、夜の東京を見下ろしている。封鎖線の投光器が周囲を白く照らし、その向こうに広がる街並みは1ヶ月前より暗い。ビルの窓に灯りが少ない。走る車が少ない。人間たちが逃げ続けている街。


 だが——封鎖線そのものは、弱っていた。


 サンライズ作戦直前、封鎖線には200名以上の自衛隊員が配置されていた。装甲車が隙間なく並び、サーチライトが外壁を舐め、狙撃兵が周辺ビルの屋上に張りついていた。


 今は——90名を切っている。装甲車の間隔が広がり、投光器の照射範囲に死角が生まれている。交代の間隔が延び、深夜帯の監視密度が特に薄い。東京全体の治安維持とダンジョン入口の管理に人員を回さざるを得ないのだ。


 始祖の深紅の瞳が、その変化を正確に捉えていた。


 始祖の外見は——以前とは別のものになっていた。


 変態が、完了していた。


 体表に残っていたキチン質の最後の痕跡は消失し、全身が人間の女性と見分けがつかない肌で覆われている。耳の形も丸みを帯び、瞳孔の形状も——深紅ではあるが——人間の丸い瞳孔に近づいた。


 身長162センチ。黒髪は肩の下まで伸び、顔立ちは東アジア系の女性のそれだ。日本人にも、中国人にも、韓国人にも見える。吸い上げた何百人もの血の記憶が混ざり合い、特定の民族に帰属しない——しかし誰もが親しみを覚える——容貌を形成していた。


 声もまた、変わっていた。


「……リリス」


 カタカナの混入が減り、文節の区切りが自然になっている。まだ僅かに硬さが残る——長母音の伸ばし方が機械的で、助詞の使い方に時折揺れがある——が、電話で話せば人間と区別がつかない水準に達していた。


「はい、母」


 リリスが、足音も立てずに近づいた。


「幹部会の準備が整いました。エリザベートとも念話で接続しています」


「行こう」



     



 54階の会議室に、幹部が集まっていた。


 長テーブルの上座に始祖。右手にリリス。左手にカーミラ。テーブルの両側に、セレネとヘカテ。


 田中修が末席に着いている。元SAT副隊長。転種の最古参であり事実上の軍事顧問。他の転種は各自の持ち場にいる。


 エリザベートは——ここにはいない。


 サンライズ作戦の後、始祖の指示に従い封鎖線の外に出た。以来、都内各所のセーフハウスを拠点に、社会浸透組の転種を指揮して一族の外部活動を統括している。幹部会には念話で参加する。リリスの脳裏にエリザベートの声が響き、リリスがそれを他の出席者に伝える形式だ。


 リリスが口を開いた。


「サンライズ作戦から4週間。状況を整理します」


 テーブルに地図が広げられた。六本木ヒルズを中心に、封鎖線の配置が赤線で描かれている。線の太さは兵力の密度を示しており——4週間前の赤線と比べると、明らかに細くなっていた。


「封鎖線の配置密度は最盛期の4割以下。特に深夜帯の南面と東面は、1個小隊——30名未満——で3キロの封鎖線を維持している状態です。ドローンによる上空偵察は週2回に減少。赤外線センサーの設置範囲も縮小されています」


「人間側の余力がそれだけ削られているということか」


 カーミラが腕を組んだ。


「削られている以上のものがある」


 ヘカテが補足した。タブレットに情報を表示しながら。


「社会浸透組が収集した情報を突合すると、人間の政府が同時に抱えている問題は以下の通りです。一つ、ダンジョンの拡大と出入口の管理。現時点で55箇所以上の出入口が確認されており、増加傾向です。二つ、フェロモン中毒者への対応。推定2万名超。三つ、徘徊者の管理。GRTと呼ばれる対処班が200名規模で活動していますが、封鎖線の外側に逃れた徘徊者の捕獲が追いついていません。四つ、治安の悪化。アーティファクトを使った犯罪が激増し、警察の対処能力を超えています。五つ、経済の動揺。東京からの人口流出が120万人を超え、首都機能の一時移転が閣議で検討されています」


「つまり——この封鎖は、人間にとっても維持困難になりつつある」


 リリスが結論を述べた。


「だからこそ、封鎖を迂回する手段の確保と拡充が、引き続き最優先事項の一つです」



     



「経路について報告します」


 田中が立ち上がった。


「現在、六本木ヒルズと封鎖線の外側を繋ぐ経路は3本確保されています」


 田中が地図上に3本の線を引いた。


「第1経路。主経路。地下6階の駐車場から、既存の下水道管渠への接続トンネル。全長800メートル。出口は麻布十番の雑居ビル地下。封鎖線の外側です」


「サンライズ直後にグールを使って掘削しました。管渠の直径は1.8メートル。人間が屈めば通れる高さです。壁面は既存のコンクリート管渠を利用しているため、地上からの探知はほぼ不可能です。ただし——」


「ただし?」


 リリスが目を上げた。


「管渠の老朽化が進んでいます。一部区間で天井からの漏水があり、雨天時は水位が膝まで上がります。物資の大量輸送には不向きです。また、この経路の存在が発覚した場合、単一の出口を封鎖されれば使用不能になります」


「第2経路は」


「六本木ヒルズの地下3階から、隣接する六本木グランドタワーの地下駐車場への連絡通路。サンライズ以前から存在した施設の連絡通路を利用しています。グランドタワーは封鎖線の内側ですが——グランドタワーの非常階段から外壁を経由し、裏通りへ出ることが可能です。封鎖線の監視が薄い南東角を利用します」


「封鎖線を直接突破する経路ということか」


「はい。純種であれば霧化で突破可能ですが、転種やグールは物理的に通過する必要があります。この経路は深夜帯の南東角の監視が2名体制になる午前3時から4時の間にのみ使用可能です。タイミングを誤れば発覚します」


「リスクが高い」


「はい。予備経路としての位置づけです。主経路が使えない場合にのみ使用」


「第3経路は」


「3週間前に確保した新規経路です。六本木ヒルズの地下6階から東方向に、約400メートルのトンネルを新たに掘削しました。出口は西麻布の廃ビル地下。こちらも封鎖線の外側です」


 リリスの眉が僅かに上がった。


「掘削を指示した覚えはないが」


「カーミラの指示です」


 カーミラが口を開いた。


「主経路が発覚した場合の保険だ。出口が1箇所では危険すぎる。ワーウルフとグールを使って夜間に掘削させた。管渠ではなく、新規の地中トンネルだ。直径1.5メートル。壁面はグールが運んだコンクリート片で補強してある。粗い仕上がりだが、機能する」


「監視には引っかからなかったのか」


「掘削は地下8メートル以深で行った。地上の監視装置では検出できない。排土は六本木ヒルズの地下駐車場に積み上げた。量は多いが、駐車場の面積なら問題ない」


 リリスが地図を見つめた。3本の経路が、六本木ヒルズから蜘蛛の糸のように東京の地下に伸びている。


「よくやった。——田中、各経路の運用ルールを決めろ。主経路は日常の人員移動と情報伝達。第2経路は緊急時のみ。第3経路は物資の輸送と、主経路が使えない場合の代替。使い分けを徹底すること」


「了解しました」


「それと——第4経路の検討に入れ。地下鉄南北線の麻布十番駅は封鎖線の外にある。駅構内から廃棄されたケーブル管路を通じて、封鎖線の内側に出られないか調査しろ。管路の口径と経路の状態を確認。使えるなら、最も安全な経路になる可能性がある」


「了解」



     



 リリスが一瞬、目を閉じた。念話を受信している。


「——エリザベート。全国展開の進捗を」


 リリスが目を開け、エリザベートの報告を中継した。


「大阪、名古屋の2都市に、それぞれ転種を派遣済み。近日福岡に派遣予定とのことです」


 リリスが地図上に3つの印をつけた。エリザベートの念話の内容を、そのまま会議に伝える。


「大阪。転種2名——大西と吉田を2週間前に新幹線で派遣。道頓堀のビルにセーフハウスを確保済み。夜間活動のみ——護符がないため日中は外出できない。現在は拠点の整備と、現地での転種候補の物色が主な任務」


「候補の選定基準は?」


 カーミラが尋ねた。リリスが念話で中継し、エリザベートの回答を伝える。


「第一に、正規の身分証明書を持つ日本国籍者。将来の海外展開を見据えている。第二に、反社会的傾向がない者。転種化した後に目立つ行動を取られると困る。第三に、単身者か、社会的なつながりが薄い者。失踪しても捜索されにくい人間」


「進捗は」


「大阪では3名の候補を特定。1名は深夜帯のコンビニ店員——30代男性、一人暮らし、友人関係が希薄。2名目は日雇い労働者——40代男性、住所不定」


 リリスが少し間を置いた。エリザベートの念話に集中している。


「3名目が最も有望だと。大阪の闇金融業者の末端。42歳男性。暴力団系の準構成員で、借金の取り立てと違法な貸付を行っている。身分証は本物、住所も確認済み。この男を転種化すれば、彼の人脈——裏社会への接点——が丸ごと手に入る」


 リリスの目が光った。


「裏社会への接点。それは——アーティファクトの調達にも使えるということだ」


 リリスが自身の分析を重ねた。


「現在、護符の入手はフリマ経由が中心だ。だが個人売買は供給が不安定で、大口の購入は目立つ。一方でアーティファクトの闇市場は急拡大している。半グレ組織、暴力団の関連企業、外国人マフィア——彼らが冒険者から直接買い付けるか、フリマで大量購入して転売するルートを持っている。その流通網に入り込めれば、護符を含むアーティファクトを安定的に調達できる可能性がある」


 ヘカテが補足した。


「アーティファクトの闇市場は、都内だけで50以上の組織が関与しています。全国では200を超えると推定されています。この市場に参入する方法は2つ。一つは裏社会の仲介業者を転種化して流通網を掌握する方法。もう一つは——」


「もう一つは」


「正規の登録をしていない非公認の冒険者への接触です。いわゆる野良の冒険者は推定2万人以上。彼らの一部は拾ったアーティファクトを闇市場に流している。その中から接触できる人間を見つけ、護符の優先的な売却を約束させる。転種化は不要ですが、供給が不安定です」


 リリスが念話でエリザベートの意見を聞き、伝えた。


「エリザベートの提案。まず大阪の闇金融業者を転種化し、関西の裏社会の末端に入り込む。そこからアーティファクトの流通網にアクセスし、護符の調達ルートを確保する。同時に東京側では、社会浸透組の転種がフリマと闇市場の両方で購入を継続する。——二正面からの調達態勢」


「期間は」


「大阪側は、転種化から流通網への接続まで2週間から1ヶ月。相手は裏社会の人間だから疑い深い。転種化した後も元の行動パターンを維持させなければ、仲間に察知される」


 カーミラが口を開いた。


「もう1つ、将来的には合法的な探索企業を立ち上げる手もある。冒険者を雇用して護符を回収させる方式だ。裏社会への浸透より時間はかかるが、リスクが低く持続性がある」


 リリスが考え込んだ。


「企業の設立には法人登記、資金、人間の名義が必要だ。今すぐには無理だが——検討に値する。エリザベートが転種化したジェームズ・ハリソンの海外口座が使える可能性がある。これは準備だけ進めておけ」


「了解」


「護符の調達目標は月3個以上。それが安定すれば、全国展開の速度が根本的に変わる」


 リリスが念話でエリザベートの返答を受け、頷いた。


「やると言っている。——名古屋と福岡の状況も報告する。名古屋。転種1名——鈴木を先週派遣。栄地区にセーフハウスを確保済み。夜間活動のみ。現地の情勢調査中。名古屋の裏社会は大阪より排他的で、よそ者が入り込む難易度が高い。浸透には時間がかかる。福岡は未派遣。大阪と名古屋の拠点が安定してから。転種の数が限られている以上、分散しすぎれば各拠点の基盤が脆くなる」


「段階を踏む。大阪を最優先。名古屋は情報収集に徹し、福岡は大阪が機能してから。——エリザベート、異論は」


 リリスが念話を受けた。


「ないとのこと。ただし、大阪の闇金融業者の転種化は今週中に実行したいと」


「許可する。ただし痕跡を残すな。失踪ではなく、行動の変化を最小限に抑えろ。裏社会の人間が突然おとなしくなれば、それ自体が不審を招く」


「了解しました」



     



 リリスが、次の議題に移った。


「人間側の動向について」


 ヘカテがタブレットを操作した。


「政府がダンジョン管理庁の設立を急いでいること。首都機能の一時移転が閣議で検討されていること。そして——六本木に対する偵察計画が進行中であること。いずれも社会浸透組が収集した断片情報の突合です」


「偵察?」


 カーミラの瞳が鋭くなった。


「サンライズの続きか」


「奪還ではなく、情報収集を目的とした偵察だと推定しています。少人数の精鋭部隊を封鎖線の内側に送り込み、我々の現状を把握しようとする試みです」


 田中が口を開いた。


「偵察部隊なら4名から6名。戦闘力より機動力と隠密性を重視する編成です。SAT出身者か特殊作戦群であれば、夜間に封鎖線を越え、ビルの外壁から侵入を試みるパターンが最も可能性が高い。私の経験では、元の所属部隊の偵察教範に基づくなら、2個チーム4名ずつの8名前後が標準です」


「対策は」


「外壁の監視を強化すべきです。偵察部隊が来た場合——排除するか、あるいは捕獲して転化する。偵察に来る人間は軍の精鋭です。情報の宝庫になります」


 カーミラが立ち上がった。


「私が担当する。外壁防衛の再配置を行う。ワーウルフを地下駐車場と屋上に分散配置し、転種を中層階の要所に張りつかせる。偵察部隊が外壁に取り付いた瞬間に感知できるよう、純種が交代で夜間の聴覚監視を行う」


「田中、偵察部隊の侵入パターンを洗い出せ。お前はSATの手口を知っている。どの角度から来るか、何時に来るか、何人で来るか——想定を3パターン作れ」


「了解しました」



     



 リリスが始祖を見た。


「母。——次の議題は、戦力の回復です」


 始祖が頷いた。


 テーブルに、現在の戦力が書き出された。



  始祖:1

  純種:5(リリス、カーミラ、セレネ、ヘカテ、エリザベート)

  ワーウルフ:3(サンライズで2体撃破。残存3体)

  転種:22(六本木19名+大阪2名+名古屋1名)

  グール:約300体(封鎖線内に200体超+ヒルズ内に約100体)

  人質:約80名(血液供給源)

  守護の護符:8個(サンライズ以降、闇市場で1個追加調達)



「問題はワーウルフです」


 セレネが口を開いた。銀灰色の髪の下で、感情を排した目が冷たく光っている。


「サンライズ前は5体でした。火炎放射器で2体を失い、現在3体。ワーウルフは近接戦闘の主力です。純種は霧化や血の武器で遠近両用に戦えますが、ワーウルフのような純粋な破壊力——壁を粉砕し、車両をひっくり返し、複数の人間を同時に引き裂く力——は代替が利きません」


「セレネの言う通りだ」


 カーミラが同意した。


「サンライズ作戦で人間は火炎放射器の有効性を確認した。次の攻撃があれば、必ず火炎兵器を増強してくる。ワーウルフを3体で防衛に回すには——火炎兵器への対策が必要だが、それ以前に、数が足りない」


 リリスが始祖を見た。


「母。産卵の余力は回復していますか」


 始祖が目を閉じた。


 変態の完了は、産卵能力の回復を意味する。前回の産卵——一族の誕生——は、まだ始祖が変態の途上にある時期だった。あの時は体力の大半を使い、10個の卵を産んで消耗した。


 今は——変態が完了し、人質からの安定した血液摂取が続いている。


「産める」


 始祖の声は明瞭だった。


「前回は10個だった。今は——7個が限界だ。血の供給量がそれ以上を許さない」


 ヘカテが即座に計算した。


「人質80名からの採血量を考慮すると、産卵準備に必要な追加摂取で人質の消耗が加速します。5日間の集中採血で——人質3名から4名が死亡する見込みです」


「許容範囲だ」


 始祖が言い切った。


 リリスが頷いた。


「性別の配分について。前回はメス5・オス5でした。今回はどう配分しますか」


「メス2、オス5を提案します」


 カーミラが言った。


「ワーウルフの補充が急務です。3体を5体に戻すだけでなく、8体に増やせば防衛態勢が大幅に改善される。火炎兵器に対しては数で消耗を吸収するしかない。1体や2体失っても戦線が崩壊しない余裕が必要です」


「純種の増員は不要か」


 リリスが念話でエリザベートの問いかけを中継した。


「不要ではない。だが優先度が違う」


 カーミラが答えた。


「今の脅威は人間の軍事力だ。偵察部隊が来る可能性がある。次のサンライズに類する攻撃が来る可能性もある。そのとき必要なのは知性より破壊力だ。純種は教育に時間がかかるが、ワーウルフは生まれた翌日から戦える」


「2名の純種は、拡散用だ」


 リリスが自身の見解を述べた。


「大阪や名古屋——あるいは将来の海外拠点に、純種を1名ずつ配置する必要がある。転種だけの拠点には限界がある。純種が常駐すれば、現地での転種化も可能になり、念話による本部との即時通信も確保できる。拠点の自律性が格段に上がる」


 始祖が目を開いた。


「リリスの配分でいい。メス2、オス5」


「産卵はいつ可能ですか」


「……5日後。それまでに、血が必要だ」


 ヘカテが即座にタブレットに記録した。


「人質からの採血スケジュールを調整します。5日間で1人あたり400ミリリットルを2回。計80名×800ミリリットル=64リットル。うち産卵に必要な量を母に優先配分し、残りを一族の維持に回します」


「人質の中に衰弱が進んでいる者が12名います」


 セレネが補足した。


「うち4名は次の採血に耐えられない可能性があります。死亡した場合、遺体はグール化して戦力に加算します」


 始祖が頷いた。


「任せる」



     



 幹部会が閉じられた。


 カーミラは防衛の再配置に向かった。セレネはワーウルフの管理に。ヘカテは採血スケジュールの調整に。田中は偵察対策の想定作成に。


 リリスだけが、始祖の傍に残った。


「母」


「何だ」


「変態が完了しましたね」


 始祖が窓の外を見た。


「……ようやく」


 リリスが始祖の手を取った。もう——冷たくはあるが、人間の手と同じ形をしている。五本の指。爪。手のひらの皺。蚊だった頃の名残は——どこにもない。


「母は、もう外に出られる。護符があれば、昼間でも。人間の中に紛れて——」


「まだ早い」


 始祖が首を振った。


「……私が外に出るのは——ここを離れる時だ。この場所は、娘たちに任せる。私はもっと遠くへ行く」


「海外へ」


「……いつかは。だが今はここだ。産卵を終え、新しい子供たちが育つまで。——リリス、お前が一族の舵を取れ」


 始祖が窓の外を見た。暗い東京。遠くに煙が見える。


「……見ている。この街を。この世界を。——人間たちが作ったものを」


 何百人もの血の記憶が、始祖の中で渦巻いている。サラリーマン、OL、大学生、ホームレス、警察官、医師、主婦——吸い上げた一人一人の人生の断片が、人間社会の全体像を構成している。


 人間は——強い。個体としては脆弱だが、集団としては恐ろしいほど強い。核兵器。化学兵器。生物兵器。地球を何度も滅ぼせるだけの力を持っている。


 だからこそ——散らなければならない。


 一箇所に留まれば、いずれ滅ぼされる。


 世界中に根を張れば——根絶はできない。


「……急がなくていい」


 始祖が呟いた。


「……止まらなければ」


 リリスが頷いた。


「お休みください、母。5日後の産卵まで——体力を温存してください」


 リリスが退室した。


 始祖は一人、窓辺に立った。


 深紅の瞳に映る東京の夜。その地下を流れる下水道管渠。その中を歩く転種たち。大阪の道頓堀で夜の街を歩く2名。名古屋の栄で情報を集める1名。


 一族の影が——少しずつ、東京の外に伸び始めている。


 まだ——細い糸だ。切れやすい。引き抜きやすい。


 だが糸は、やがて根になる。根は、やがて幹になる。


 東京の夜に、始祖の深紅の瞳だけが、静かに光っていた。

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― 新着の感想 ―
主人公は自分に関係ないって言い続けているけど、着実に人間の生活圏を失っているから、そのうち仕事や買い物もできなくなるのでは?
吸血鬼編は目が滑る
吸血鬼ちゃんは創造主の寵愛薄いから頑張って欲しいで ところでフェロモン漬けの人間を転化したらどうなるんすかね
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