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血を与えたら進化しすぎた件~世に出回るアーティファクトも東京に出来たダンジョンも多分俺のせいだけど面白いからいいよね~  作者: 唯之助


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第24話「足手まといと追放された落伍者、限界突破でいずれは最強に!?」

 藤原陽太は、19歳にして人生の天井を知った。


 限界値——13。


 鑑定の鏡に映った自分の数値を、もう一度見た。ダンジョンの地下20メートル、宝箱が並ぶ小部屋の壁際。薄暗い琥珀色の通路に、鏡面の光が淡く浮かんでいる。


 12.8(13.0)


 現在値12.8。限界値13.0。あと0.2で天井に届く。


 隣で鏡を覗き込んでいた柴田が、数字を見て黙った。


 パーティリーダーの早見が、腕を組んだまま口を開いた。


「——藤原。話がある」


 早見翔。22歳。体育大学3年。フェロモン指数17.2。限界値は推定24前後。ダンジョン出現の初期から潜り続けている中堅冒険者で、浅層から中層への移行期にある5人パーティのリーダーだ。身長183センチ、体重82キロ。元ラグビー部のフランカー。指数17の身体は、素手で鉄板を引きちぎる。


 パーティの他のメンバーは全員が指数16以上だった。柴田16.3。大野17.8。そして——宮下美優、16.1。


 藤原だけが、12.8。


「お前はもう中層には連れて行けない」


 早見の声には、感情がなかった。事実を述べているだけだ。


「中層の兵隊蟻は最低でも50センチ級からだ。指数15以下じゃアーティファクト武装してても危ない。お前の限界値は13。——これ以上伸びない。足手まといになるだけだ」


 足手まとい。


 その言葉が、腹の底に沈んだ。


 分かっていた。2週間前から指数の上昇が止まっていた。12.5から12.6、12.7、12.8——上がり幅が目に見えて鈍っていた。他のメンバーが0.3ずつ伸びている横で、藤原だけが0.1ずつ、しかもそれすら止まりかけていた。


「でも、俺だって——」


「限界値13は、冒険者としては最底辺だ。浅層の30センチ級の蟻なら一人で倒せるだろうが、中層には行けない。俺たちは中層に主戦場を移す。——お前を連れて行ったら、お前が死ぬ」


 早見の言葉は正しかった。元の運動能力によってマチマチだが、平均的な人間の場合、指数13の身体能力は、握力130キロ前後。100メートル走10.5秒程度。一般人から見れば超人だが、指数17のメンバーとは比較にならない。指数17は握力200キロ超、100メートル10秒を切る。戦闘での差は数値以上に開く。中層の蟻を相手にした連携戦闘で、藤原が遅れれば——それは他のメンバーの命に関わる。


「……分かった」


 他に何が言えた。


 藤原はパーティから離れた。


 地上に出る途中、振り返った。通路の奥で、早見が宮下と並んで歩いていた。肩が近い。宮下の手が、早見の腕に触れている。


 ——少し前まで、あの手は藤原の手を握っていた。


 宮下美優。20歳。同じ大学のサークルの先輩。ダンジョンに一緒に潜り始めたのは2ヶ月前。初めて兵隊蟻を倒した夜に、二人で缶ビールを開けた。宮下が「怖かった」と笑い、藤原が「俺もだよ」と返した。


 それが——もう、過去の話だ。


 宮下が早見に移ったのは、藤原の指数が伸びなくなった頃だった。因果関係があるのかないのか、藤原には分からない。分かりたくもなかった。ただ——宮下のRINEの返信が遅くなり、パーティの集合時間に早見と二人で先に来ていることが増え、ある日の帰りに二人が繁華街の方に消えていくのを見た。


 確信はない。だが確認する気もない。確認したら——壊れるのは自分の方だ。


 フェンスを越えて地上に出た。夕方の空。オレンジ色の雲。東京の空は最近、夜でもどこかが明るい。封鎖線の投光器か、パトカーの回転灯か。


 スマホが震えた。RINEの通知。


 宮下からだった。


 『陽太、ごめんね。早見さんのパーティに残ることにした。中層に行きたいから。——でも友達でいようね』


 友達。


 藤原はスマホを鞄に突っ込み、駅に向かって歩いた。




     




 その夜、カプセルホテルの狭い空間で、藤原は掲示板を読んでいた。


 実家は埼玉だが、毎日の通学時間を節約するために都内に安いカプセルを借りている。ダンジョンに潜る日はそのまま泊まる。大学の講義は——最近、ほとんど出ていない。


 掲示板のスレッドが目に入った。



 東京ダンジョン攻略スレ Part 103


 456:名無しの冒険者

 限界値が低い奴はどうすればいいんだ

 俺は16で頭打ちになった

 安らぎの香使ってもダンジョン行きたくてしょうがない

 でも行っても強くならない

 中毒だけ残る最悪パターン


 478:名無しの冒険者

 >>456

 限界値16ならまだマシだろ

 俺は14だ。浅層の蟻すら苦労する

 パーティからは外されたし、ソロでやるしかない

 でもソロで浅層の蟻倒してもフェロモン吸引量が微量すぎて

 もう指数上がらない


 501:名無しの冒険者

 限界値って生まれつきなんだろ?

 才能ガチャで外れ引いたら終わりってことかよ


 523:名無しの冒険者

 >>501

 そういうこと

 どんなに努力しても限界値は変わらない

 唯一の突破方法は特濃フェロモン結晶だが

 あれは80m以深のエリート兵隊蟻からしか取れない

 限界値14の人間が80mに行けるわけがない


 545:名無しの冒険者

 つまり弱い奴は永遠に弱いまま

 強い奴だけがさらに強くなれる

 ダンジョンは格差製造装置だな


 567:名無しの冒険者

 限界値が低い奴はダンジョンから離れた方がいい

 中毒が進む前に足を洗え

 まだ引き返せるうちに


 589:名無しの冒険者

 >>567

 それができないから中毒って言うんだろ



 藤原はスマホを枕元に置いた。


 限界値13。


 掲示板の投稿者たちは14や16で嘆いている。自分はそれ以下だ。冒険者としての才能が、底辺のさらに下。


 天井のプラスチックパネルを見つめた。白い。何もない。


 宮下のRINEをもう一度開いた。『友達でいようね』。既読をつけたが、返信はしていない。


 早見の顔が浮かんだ。指数17。限界値24。自分の倍近い伸びしろ。体育大のラグビー選手。強くて、デカくて、自信に満ちている。


 比べるまでもない。宮下が選んだのは当然だ。


 ——見返してやりたい。


 その感情が、胸の底で熱く燃えた。


 だが見返す方法がない。限界値13の人間に、何ができる。浅層で30センチの蟻を倒しながら、一生底辺を這い続けるのか。


 掲示板の書き込みが脳裏に浮かんだ。


 「唯一の突破方法は特濃フェロモン結晶」。


 「80m以深のエリート兵隊蟻からしか取れない」。


 ——80メートル。


 限界値13の人間が行ける場所ではない。指数20以上のエリートが命がけで到達する深度だ。


 だが——もし、行けたら。もし、特濃フェロモンを手に入れられたら。


 モンスター化のリスクがある。使用者の多くが人間を辞めている。だが——限界値に近い状態で使えばリスクは下がるという不確かな情報もあった。自分は12.8で限界値13にほぼ到達している。限界との差はわずか0.2。


 ——いや、馬鹿なことを考えるな。


 藤原は寝返りを打った。


 目を閉じた。


 眠れなかった。


 ダンジョンの匂いが鼻腔の奥に残っている。甘くて、重くて、身体の芯を揺らす匂い。フェロモン中毒の初期症状。指数12.8の中毒は、まだ軽い方だ。安らぎの香を1本焚けば抑えられる程度。


 だが——渇望は、ある。


 もっと強くなりたい。もっと深くに行きたい。


 その衝動が、宮下への未練や早見への嫉妬と混ざり合って、藤原の眠りを妨げた。




     




 翌日。


 藤原は、一人でダンジョンに潜った。


 入口は豊島区池袋の地下鉄廃線跡。夕方4時。まだ明るい時間帯だが、ダンジョンの出入口には昼夜を問わず冒険者が出入りしている。3人組のパーティが装備を確認しながら出発していくのを横目に、藤原は一人で暗闇に足を踏み入れた。


 装備は最低限だった。品質スコア12の魔剣包丁——浅層の宝箱で拾った最低品質の品。刃渡り20センチ。通常の包丁より明らかに硬く鋭いが、中層の蟻の外骨格を切り通すには力不足だ。低品質の守護のヘルメット1個、品質スコア18。安らぎの香3本。懐中電灯。水500ミリリットル。


 中層以深に潜るパーティとしては、あまりに貧弱な装備だ。


 目的地は浅層。地下20メートル付近の宝箱エリア。


 限界値に達した藤原にとって、フェロモン吸引による指数上昇はもう望めない。だが浅層の蟻を倒せばアーティファクトが手に入る。それを売って生活費にする。——冒険者としての底辺の日常だ。


 地下10メートル。通路が分岐する。


 左は冒険者のチョークで「安全ルート」と書かれた通路。浅層の定番コース。兵隊蟻の出現頻度が低く、宝箱もいくつかある。


 右は「未確認」と書かれた通路。まだ十分に探索されていないルートだ。未確認の通路には高品質の宝箱が眠っている可能性があるが、罠や行き止まりのリスクも高い。


 藤原は、右に進んだ。


 安全ルートを選ぶ気になれなかった。安全に浅層の蟻を倒して、安全にアーティファクトを拾って、安全に帰る。——その繰り返しに、何の意味がある。


 通路は狭かった。肩幅ギリギリ。壁面の琥珀色のコーティングが薄い。蟻の唾液による整備がまだ行き届いていない新しい通路だ。ダンジョンは日々拡張を続けている。


 懐中電灯の光が、通路の奥を照らす。20メートル先で、床面が急に途切れていた。


 ——穴。


 藤原は慎重に近づいた。床面に直径2メートルほどの穴が開いている。垂直ではない。斜面になっていて、下方に向かってカーブしている。蟻が掘った螺旋状の通路が崩れたのか、あるいは意図的に作られた構造なのか。壁面は琥珀色のコーティングで滑らかだ。


 覗き込んだ。


 深い。懐中電灯の光が届かない。


「——やめとこう」


 声に出して言った。引き返そうとした。


 その瞬間——足元の床面が崩れた。


 琥珀色のコーティングの下の地盤が、藤原の体重に耐えきれず陥没した。新しい通路の構造が不安定だったのだ。


「——っ!」


 身体が穴の中に落ちた。


 落下ではなかった。崩れた地盤と一緒に、螺旋状の斜面を滑り落ちていった。壁面の琥珀色のコーティングが摩擦を緩和し、身体はまるで滑り台を降りるように加速していく。


 藤原は壁面に手をつこうとした。だが指数12.8の握力では、滑らかなコーティングに掴まることができない。速度が上がる。暗闇の中を、下へ、下へ。


 何度かカーブがあった。そのたびに身体が壁に打ちつけられ、衝撃で息が詰まる。守護のヘルメットが頭部を守ってくれたが、背中と肩は守護のヘルメットの保護範囲外だ。肩から壁にぶつかり、鈍い痛みが走った。


 時間の感覚が消えた。10秒か、30秒か、1分か。螺旋通路を滑り続け——


 衝撃。


 床に叩きつけられた。硬い地面。息が止まった。


 視界が真っ暗だった。懐中電灯が——滑落中にどこかで手を離してしまったらしい。暗闇の中で、全身の痛みだけが感覚として残っている。


 藤原は動かなかった。


 痛みが引くのを待った。指数12.8の治癒速度は一般人の2〜3倍。骨は折れていないようだ。肩と背中に打撲の痛みがあるが、致命傷ではない。


 5分ほど横たわった後、ゆっくりと身体を起こした。


 暗闇。


 完全な暗闇。


 だが——指数12.8の視覚は、完全な暗闇でも5メートル先の輪郭を辛うじて捉えられる。目が慣れてくると、壁面の琥珀色のコーティングが僅かに自発光していることに気づいた。フェロモンの化学反応による微弱な発光。浅層では目立たないが、この深度では空気中のフェロモン濃度が高いために、壁面の発光も強い。


 空気が——重い。


 浅層のフェロモン濃度とは、桁が違う。呼吸するだけで脳の奥が甘く痺れる。安らぎの香を焚くべきだ。バッグを探った。——あった。3本のうち1本が折れていたが、2本は無事だ。火をつけた。白い煙が立ち上り、甘い匂いと混ざり合う。安らぎの香の効果で、フェロモンによる酩酊が少し和らいだ。


 だが——和らいだだけだ。この濃度では、安らぎの香の効果は限定的だ。


 ここは——何メートルの深さだ。


 螺旋通路を滑り落ちた距離から推測する。体感では1分弱。螺旋の傾斜角と速度から——おそらく50メートル以上は降りた。


 もし出発地点が地下20メートルなら——今いるのは地下70メートル以上。


 深層だ。


 心臓が跳ねた。


 藤原はバッグの中を確認した。魔剣包丁。安らぎの香2本(うち1本は使用中)。水500ミリリットル。ヘルメット(装着中)。懐中電灯は紛失。スマホは——画面にひびが入っているが、起動した。電波はない。時刻は午後5時12分。バッテリー残量62パーセント。スマホの画面の光だけが、唯一の光源だった。


 ——落ち着け。


 藤原は深呼吸した。


 パニックを起こせば死ぬ。深層で独りぼっちの指数12.8の冒険者が生還するには、冷静さだけが武器だ。


 まず現状を整理する。


 一つ。ここは深層(推定70メートル以上)。自分の適正深度をはるかに超えている。


 二つ。装備はほぼない。戦闘は不可能。


 三つ。帰路が不明。螺旋通路を登り返すのは困難。


 四つ。フェロモン濃度が高い。安らぎの香は2本(1本使用中)。長時間はもたない。


 ——つまり、上に向かって移動するしかない。蟻に見つからないよう隠れながら、浅い層に繋がる通路を探す。


 藤原は立ち上がった。


 壁面の微弱な発光を頼りに、通路を歩き始めた。足音を最小限にする。呼吸を浅くする。蟻の触角はフェロモンの変化に敏感だ。人間が動けば、空気中のフェロモン分布が乱れる。深層の蟻がそれを感知すれば——。


 通路は広かった。天井が高い。浅層の狭い通路とはスケールが違う。壁面のコーティングが厚く、構造が堅牢だ。蟻の唾液で長期間かけて整備された通路。


 10分ほど歩いた。


 通路が分岐している。左は水平方向。右は緩やかな上り坂。


 上りを選んだ。少しでも浅い方に。


 さらに10分。上り坂が続く。フェロモン濃度が——変わらない。むしろ僅かに濃くなっている。


 嫌な予感がした。


 上り坂に見えたのは、別の深層区画への接続通路だった可能性がある。ダンジョンの構造は三次元的で、上に向かう通路が必ずしも浅い層に繋がるとは限らない。


 通路が開けた。


 広い空間に出た。天井が10メートル以上。壁面のコーティングが特に厚く、リブ状の補強構造が等間隔に入っている。重要な空間だ。


 そして——空気が、異常に濃い。


 安らぎの香を焚いているのに、脳の奥が痺れる。視界の端が揺れる。足がふらつく。


 ここは70メートルではない。


 ——90メートルだ。


 あるいはそれ以上。


 分岐で上り坂を選んだことで、より深い区画に入ってしまった。ダンジョンの構造が冒険者を誘導する——浅い層に見せかけて、深い層に引き込む。掲示板でそういう報告を読んだことがある。「ダンジョンは人間を深層に誘い込むように設計されている」。


 藤原の膝が震えた。


 ——死ぬかもしれない。


 19歳。大学1年。限界値13の底辺冒険者。彼女に振られ、パーティを追放され、自暴自棄で未確認ルートに入り——深層に落ちた。


 掲示板に書かれるだろう。「行方不明者:1名。推定深度:深層」。名前も出ない。統計の数字が1つ増えるだけだ。


 その時——音が聞こえた。


 遠くから。通路の奥から。


 金属を叩くような衝撃音。連続する振動。空気が震えている。


 戦闘音だった。


 藤原は本能的に壁に張りついた。身体を小さくし、安らぎの香を素早く消した——煙が蟻を引き寄せる可能性がある。


 衝撃音は断続的に続いている。近づいているのではない。一定の距離で——何かが戦っている。


 好奇心ではなかった。生存本能だ。戦闘が行われている場所を避けなければならない。だが——どの方向に逃げればいいのか分からない。音の発生源を確認しなければ、逃げる方向すら決められない。


 藤原は壁に沿って、音の方向へ慎重に近づいた。


 通路がカーブした先に——光があった。


 正確には、光ではない。蟻の体液が飛び散り、その体液が含むフェロモンが空気中で酸化し、微弱な化学発光を起こしている。戦闘の残骸が、通路を照らしていた。


 藤原はカーブの陰から、覗いた。


 広い空洞だった。天井15メートル以上。そしてその中で——


 エリート兵隊蟻がいた。


 体長3メートル超。掲示板の画像で見たことはあるが、実物は想像を絶していた。全身を覆う外骨格が金属のような光沢を放っている。6本の脚が床を踏むたびに空洞全体が揺れ、大顎が開閉するたびに空気が唸る。


 ——だが。


 藤原の目が、別のものを捉えた。


 エリート兵隊蟻の隣に——人間がいた。


 いや。「人間だったもの」。


 体長2メートル近い。筋肉が異常に発達し、骨格が歪んでいる。服は所々破れ、皮膚が赤黒く変色している。目に知性はなく、獣のような呼吸をしている。だが——身体の動きには、人間の格闘技術の名残があった。攻撃の予備動作。重心の移動。腕の振り方。


 モンスター化した元冒険者だ。


 そして——その二体と、戦っている者がいた。


 初老の男だった。


 白髪混じりの短髪。痩身だが、骨格が太い。古武術の師範のような佇まい。——そして、素手だった。


 武器を持っていない。アーティファクトも、懐中電灯も、防具すらも。灰色の作務衣のような服だけを身につけ——素手で、エリート兵隊蟻とモンスター化した元冒険者を相手にしていた。


 藤原は、自分の目を疑った。


 初老の男が、エリートの大顎を——手刀で弾いた。


 3メートルの巨体が繰り出す大顎の一撃を、片手で逸らした。身体が半歩も動いていない。足裏が床に吸い付いているかのような安定感。エリートが怯んだ隙に、男が踏み込んだ。


 拳。


 エリートの胸部外骨格に、素手の拳が叩き込まれた。


 衝撃波が空洞に響いた。床面にひびが走った。エリートの外骨格に——亀裂が入った。3メートルの巨体が半歩後退した。


 素手で。


 エリート兵隊蟻の外骨格に。


 素手の拳一発で亀裂を入れた。


 掲示板の書き込みを思い出した。「指数25以上でエリートと1対1が成立する」。「素手でエリートを倒せるのは指数30以上」。


 ——この男は、30以上。


 モンスター化した元冒険者が、男の背後から飛びかかった。人間の格闘技術を残した動き——低い姿勢からのタックル。


 男は振り返りもしなかった。


 後ろ蹴り。


 モンスターの胸部に踵が命中し、2メートルの巨体が5メートル以上吹き飛んだ。壁に激突し、壁面のコーティングが砕ける。モンスターは起き上がろうとしたが、動きが鈍い。肋骨が複数折れ、内臓にダメージに負っている。


 その隙にエリートが突進した。3メートルの巨体が小型トラックのように迫る。


 男が——右の拳を引いた。


 踏み込み。


 拳がエリートの頭部に直撃した。先ほどの胸部への一撃よりさらに深い——外骨格が粉砕し、体液が噴出した。エリートが痙攣しながら崩れ落ちる。


 次の瞬間には、男はモンスターの前にいた。モンスターが壁からようやく立ち上がったところに——手刀が首筋に入った。乾いた音。モンスターの身体が一瞬硬直し——そのまま崩れ落ちた。


 静寂。


 2体を——30秒もかかっていなかった。


 男は乱れた呼吸を数秒で整えた。エリートの遺骸を一瞥し——それだけだった。戦利品を漁る素振りもない。まるで路上の石を踏み越えるように、通路の奥へ歩き去った。足音が遠ざかり、消えた。


 藤原は動けなかった。


 恐怖ではない。畏怖だ。これが——人間にできることなのか。フェロモンで強化された人間の、最高到達点。素手でエリートを殺し、モンスター化した元冒険者を一撃で沈める。——そして、エリートの遺骸に見向きもしない。特濃フェロモン結晶が手に入るはずの獲物を、拾いもせずに立ち去った。


 ——あれが、30以上の世界。


 自分の限界値13とは——文字通り、別の次元の存在だ。


 藤原は壁に背をつけたまま、しばらく動かなかった。心臓が早鐘を打っている。膝が震えている。安らぎの香を消したまま深層の空気を吸い続けていたため、頭がぼんやりしている。


 ——行け。今のうちに。


 自分に言い聞かせた。あの男がいなくなった今、この空間は「安全」だ。あの男が2体を倒した直後であれば、近くに他のエリートがいる可能性は低い。


 藤原は立ち上がり、空洞に入った。


 エリートの遺骸が転がっている。体液が床に広がり、フェロモンの化学発光で薄紫色に光っている。3メートルの巨体。粉砕された頭部。——あの男の拳が作った破壊痕。


 藤原の目が、粉砕された頭部の隙間に何かが光っているのを捉えた。


 半透明の結晶。拳大。深紅色の液体で満たされ、結晶の表面から濃密なフェロモンが滲み出している。


 ——特濃フェロモン結晶。


 あの男は——回収しなかった。3メートルの化け物を素手で殺しておいて、最も価値のあるドロップを拾いもせずに立ち去った。


 藤原の手が震えた。


 掲示板の書き込みが脳裏を駆け巡る。


 「限界値を突破させる唯一の手段」。


 「使用者の大半がモンスター化」。


 「限界値に近い状態で使えばリスクは下がる」。


 自分は12.8。限界値13.0。差は0.2。限界に最も近い状態。


 リスクは——下がるはずだ。


 だがモンスター化した元冒険者を、たった今この目で見た。異常発達した筋肉。歪んだ骨格。知性のない目。人間の格闘技術の残滓だけが動きに残った、抜け殻のような存在。


 あれになるかもしれない。


 ——なってもいい。


 本当にそう思えるか。


 藤原は結晶を見つめた。


 宮下の顔が浮かんだ。早見に寄り添う宮下。「友達でいようね」。


 早見の声が蘇る。「足手まとい」。


 掲示板の書き込み。「限界値が低い奴はダンジョンから離れた方がいい」。「弱い奴は永遠に弱いまま」。


 ——見返してやる。


 その感情だけが、恐怖を押し退けた。


 藤原は魔剣包丁を握った。品質スコア12の最底辺品。だが——エリートの外骨格は既に粉砕されている。体内の結晶を取り出すだけなら、この包丁でも足りる。


 粉砕された頭部の隙間に刃を入れた。外骨格の破片を慎重に剥がしていく。結晶は体内の中央付近、人間でいう胸腔の位置に埋まっていた。


 手が震えた。包丁の刃が外骨格の内壁に擦れて、キイ、と金属的な音を立てた。


 結晶に触れた。


 ——熱い。


 結晶の表面が体温以上の温度を持っている。触れた指先から、微かな電流のような感覚が走った。フェロモンが結晶の表面から直接皮膚に浸透しているのだ。


 結晶を取り出した。拳大。深紅色の液体が半透明の殻の中で揺れている。


 藤原はそれを——両手で持った。


 割るのか。これを割って、中の液体を飲むのか。


 15パーセント。


 その数字が頭の中で明滅する。


 だが——自分は限界値に最も近い。リスクは下がる。限界値13で指数12.8。差は0.2。


 限界突破すれば、限界値の壁が消える。とある冒険者が限界突破した時、指数が一気に3ポイント以上跳ね上がったという掲示板の書き込みがあった。自分も同じなら——指数16前後。更に限界突破者は同じ指数でもより強化されると言う。指数16の限界突破者であれば、最低でも指数20相当の実力に匹敵する。それはベテラン冒険者の領域。深層にも踏み込める身体。


 早見の指数は17.2。


 ——追いつける。


 追いつけるかもしれない。


 その可能性が——残りの理性を沈黙させた。


 藤原は結晶を握りしめ、力を込めた。


 パキン。


 半透明の殻が砕けた。深紅色の液体が手のひらに広がる。触れた瞬間、手のひらが燃えるように熱くなった。フェロモンが皮膚を通じて体内に浸透し始めている。


 口に含んだ。


 世界が——反転した。


 全身の血液が沸騰する感覚。心臓が胸を突き破りそうなほど激しく鼓動する。筋肉の繊維が一本一本引き裂かれ、再編成されていく。骨が軋む。腱が張る。視界が白く飛び、聴覚が消え、味覚が消え——痛みだけが残った。


 痛い。


 全身が痛い。筋肉が内側から組み替えられている。古い繊維が分解され、新しい、より太く強い繊維に置き換わっていく。骨密度が上がっている。関節の靭帯が強化されている。


 背中が反った。声にならない叫びが喉から漏れた。


 ——15パーセント。


 ここで——自我が消えるのか。あのモンスターのように。異常発達した筋肉。歪んだ骨格。知性のない目。


 意識が揺らいだ。


 脳の奥で、何かが膨張していた。快感。強烈な多幸感。フェロモンが脳の報酬系を直撃している。もっと。もっと欲しい。もっと強く。もっと深く。


 ——だが。


 その「もっと」が——思ったほど、強くなかった。


 不思議な感覚だった。掲示板で読んだ限界突破の体験談では、渇望が「津波のように押し寄せる」「自分が溺れる」「もう戻れないと思った」と書かれていた。


 藤原の渇望は——波打ち際程度だった。


 確かにフェロモンへの欲求はある。身体の奥が甘く疼く感覚。ダンジョンの空気をもっと吸いたいという衝動。だがそれは——押し返せる程度の力しかなかった。安らぎの香すら必要ない。


 意識が引っ張られる感覚はあった。自我が揺らぐ瞬間もあった。だが——踏み留まれた。さほどの苦労もなく。


 3分が経った。


 痛みが引いていった。心拍が落ち着く。視界が戻る。


 藤原は自分の手を見た。


 血管が浮き出ている。筋肉の輪郭が以前より明確だ。手を握ると——空気が軋んだ。


 明らかに、以前とは違う。


 身体が軽い。関節の可動域が広がっている。暗闇の中の視界が、格段に鮮明になった。空洞の壁面のリブ構造が、30メートル先まで見える。


 そして——渇望。


 ある。確かにある。フェロモンへの欲求。ダンジョンの空気の甘さ。もっと深くに行きたいという衝動。


 だが——軽い。


 指数12.8の時のフェロモン中毒と比べても、ほとんど変わらない程度の渇望しかない。限界突破したにもかかわらず。


 ——おかしい。


 掲示板の体験談とは、あまりにも違う。限界突破者は「渇望が桁違いに悪化する」はずだ。安らぎの香や守護の護符では抑えきれないほどの。


 自分の渇望は——安らぎの香すら必要ないレベルだ。


 藤原は混乱した。だが——今は考えている場合ではない。


 ここは深層だ。脱出しなければ死ぬ。


 立ち上がった。


 身体が——嘘のように軽かった。さっきまで重くてだるかった脚が、バネのように弾む。指数12.8の頃とは比較にならない。壁を軽く殴ってみた。琥珀色のコーティングにひびが入った。


 だが今はそれどころではない。脱出だ。


 藤原は空洞を出て、来た方向とは反対の通路を選んだ。上り坂を探す。壁面の発光が微かに弱くなる方向——フェロモン濃度が低い方向——が浅い層のはずだ。


 通路を歩きながら、自分の身体の変化を確かめ続けた。


 足音が以前より軽い。歩幅が自然と広がる。暗闘の視界が鮮明で、20メートル先の通路の分岐まで見える。空気中のフェロモンの微細な変化を——嗅ぎ分けられるようになっていた。


 これが限界突破者の感覚か。


 ——そして、その鋭敏化した感覚が、異変を捉えた。


 通路の先。フェロモンの残留濃度が、不自然に高い一角がある。


 20メートルほど進んだところで——見つけた。


 通路の壁際に、エリート兵隊蟻の遺骸が横たわっていた。


 体液は半ば乾燥している。数時間前に倒されたもの。あの男が——この空洞に辿り着くまでの経路で、既にもう1体を仕留めていたのだ。こちらも同じく、戦利品を回収した形跡がない。


 藤原は足を止めた。


 限界突破で鋭くなった嗅覚が、乾燥した体液の奥に——あの結晶と同質のフェロモンを嗅ぎ取っていた。


 ——もう1つ、ある。


 理性が警鐘を鳴らした。たった今、特濃フェロモン結晶を1つ摂取したばかりだ。2つ目を摂取すれば、中毒が桁違いに悪化するかもしれない。モンスター化のリスクが跳ね上がるかもしれない。


 だが——さっきの摂取で、渇望は驚くほど軽かった。


 1つ目が軽いなら——2つ目も耐えられるのではないか。


 限界値が3〜5ポイント上がると掲示板にはあった。もう1つ摂取すれば——さらに上がる。早見を超え、20の大台に乗るかもしれない。


 藤原は遺骸に近づいた。魔剣包丁で外骨格を切り開く。乾燥した体液が指にこびりつく。——あった。結晶。先ほどのものより僅かに小さいが、深紅色の液体は同質だ。


 迷いは——なかった。


 結晶を割った。深紅色の液体を口に含んだ。


 2度目の変容が来た。


 今度は——痛みが、1度目より鋭かった。既に組み替えられた筋繊維が、さらに密度を増していく。骨が軋み、関節が熱を持つ。視界が白く飛び——


 だが、時間は短かった。1分ほどで収まった。身体が1度目の変容を経験しているぶん、適応が早いのか。


 そして——渇望。


 来た。


 1度目よりも明確に強い。脳の奥に甘い痺れが広がり、ダンジョンの空気をもっと深く吸いたいという衝動が胸の底から突き上げてくる。指先が微かに震え、汗が額に浮いた。


 ——だが。


 掲示板の体験談にあった「津波のような渇望」「自分が溺れる」「もう戻れないと思った」——そのどれにも達していなかった。


 波は確かに高くなった。1度目の穏やかな渇望から、明確な衝動へ。安らぎの香を焚きたいとは思う。だが——焚かなくても、十分に理性は保てている。膝が崩れるほどでもない。人格が揺らぐほどでもない。


 特濃フェロモン結晶を——2つ摂取して。


 それでもこの程度か。


 噂に聞いていた限界突破の地獄は——藤原には、来なかった。


 上り坂を見つけた。フェロモン濃度が僅かに下がる方向。今度こそ、浅い層に繋がっていることを祈りながら、藤原は駆け出した。


 強化された脚が、以前とは別物の速度で通路を駆け抜ける。——1度目よりも、さらに速い。


 一時間後。


 地下30メートル付近の浅層に出た。冒険者が残したチョークの矢印が壁にある。「←池袋出口」。


 生きている。


 藤原は通路の壁にもたれかかり、座り込んだ。


 全身の力が抜けた。恐怖と緊張が一気に噴出し、手が震え、息が荒くなった。


 ——死ぬところだった。


 だが——生きている。


 しかも、強くなって。


 自分の手を見た。握りしめる。壁面のコーティングが掌の圧力で軋む。——1つ目の結晶を摂取した時よりも、さらに力が入る。2つ目の効果が上乗せされている。


 そして——渇望は、2つ目の摂取直後より落ち着いていた。


 波が引いたのだ。脱出に集中している間に、渇望の波がピークを過ぎた。今は——軽い衝動が残っている程度。安らぎの香を焚けば完全に抑えられそうな程度。


 特濃フェロモン結晶を2つ摂取して。


 なぜだ。なぜ自分だけ。


 その答えは、まだ見つからなかった。




     




 地上に出たのは午後9時過ぎだった。


 池袋の夜。ネオンの光が目に刺さった。深層の暗闇に4時間以上いた目には、都市の照明が眩しすぎた。


 カプセルホテルに戻り、シャワーを浴びた。鏡に映る自分の身体を見た。——変わっている。筋肉の付き方が違う。腕が以前より太く、腹筋の輪郭が浮き出ている。顔色も良い。目の下の隈が消えている。


 ベッドに横になった。


 眠れるはずがないと思った。深層での恐怖。エリート兵隊蟻の巨体。モンスター化した元冒険者の空虚な目。あの初老の男の、人間を超えた戦闘。そして——自分の身体を変えた、2つの深紅色の結晶。


 だが——眠れた。


 すぐにとはいかなかった。渇望が微かに疼いた。ダンジョンの匂いが鼻腔の奥に残っている。フェロモンの甘い残滓。安らぎの香を1本焚いた。——白い煙が狭いカプセルに広がると、渇望が穏やかに引いていった。


 限界突破前は安らぎの香を焚かないと寝付けなかった。特濃を2つ摂取した今も——同じ1本の安らぎの香で、眠れる。


 15分ほどで寝落ちした。


 翌朝、目が覚めた時——藤原は確信した。


 自分の身体は、フェロモン中毒に対して異常に耐性が高い。


 理由は分からない。先天的な体質なのか、限界値が低いことと何か関係があるのか。だが事実として——特濃フェロモン結晶を2つ摂取しても渇望は軽い。安らぎの香1本で眠れる。日常生活に支障がない。護符もアメジストも必要ない。


 スマホを開いた。掲示板に——体験を書き込もうかと思った。


 だがやめた。


 限界突破の体験を公開すれば注目される。だが同時に——「どうやって深層で特濃を手に入れた」「しかも2つ?」「盗んだのではないか」「あの深度に指数12で到達できるはずがない」——疑惑と質問が殺到するだろう。


 代わりに、匿名で、慎重に書いた。



 東京ダンジョン攻略スレ Part 104


 234:名無しの冒険者

 質問なんだが

 限界突破した後って、中毒症状は必ず悪化するのか?

 程度に個人差はないのか?


 256:名無しの冒険者

 >>234

 悪化するのがデフォ

 安らぎの香が効かなくなるのは全員共通

 渇望の強さには個人差あるだろうけど

 問題ないって話は聞いたことない


 278:名無しの冒険者

 >>234

 なんでそんなこと聞くの


 301:名無しの冒険者

 >>278

 気になっただけ


 323:名無しの冒険者

 指数30超えの化け物がいるって噂は聞いたことある

 素手でエリート殺せるレベルの

 50年武術やってて精神力が異常らしい

 でもあれは例外中の例外

 普通の人間には関係ない話


 345:名無しの冒険者

 中毒耐性って元々の精神の安定度に依存するらしい

 瞑想やってた奴とか自律神経が安定してる奴は耐性高い傾向がある

 でも「限界突破しても中毒が軽い」なんて事例は聞いたことない

 指数30の化け物クラスの精神力がない限り



 藤原はスマホを閉じた。


 自分の体験は——前例がないらしい。


 限界突破して中毒が軽い。しかも特濃を2つ摂取して。瞑想も武術もやっていない、普通の大学1年生なのに。


 ——これは、何かの間違いか。あるいは——時間が経てば悪化するのか。


 分からない。


 だが今の自分には——以前にはなかった選択肢がある。


 指数20近いの身体。中層で余裕を持って戦える。深層にも手が届くかもしれない。アーティファクトの品質が高いものを拾える。稼げる。——そして、フェロモン中毒に苦しまない。


 早見の指数は17.2。


 ——超えた。


 限界値の低さに絶望していた昨日の自分が、嘘のように遠い。


 藤原は窓の外を見た。池袋の朝。通勤の人波。サイレンの音。東京は相変わらず混乱の中にある。


 その混乱の中で——自分だけが、奇妙な幸運を手にしている。


 あるいは——幸運ではなく、別の何かを。


 藤原にはまだ、それが分からなかった。

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― 新着の感想 ―
最初なら軽いからいけるいける とかそれドラッグあるあるやんけ! 絶対落とし穴あるやろ…
武術の達人、格好いいね。 藤原も、達人の老人もまた出て欲しいキャラだ♪
あの武術老人は今まで奴...人間の中では一番強いだろう だがこの藤原の方がもっと強くなりそうだな、面白い そうでなきゃ遊戯(ゲーム)が一方的でつまらないからなぁ
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