第21話「日の出作戦(後編)」
午前10時35分。
3つの戦場に、徘徊者の波が押し寄せた。
始祖の指示を受けたヘカテが、各階に待機していた200体以上の徘徊者を一斉に動かした。階段を駆け下り、エレベーターシャフトを這い降り、あるいは階段を駆け上がり——虚ろな目の人型が、津波のように3つの戦場に流れ込んでいく。
地下駐車場。
梶原の部隊は既に三方向から包囲されていた。前方にワーウルフ3体と人型の敵。後方に覚醒した元味方の徘徊者。そこに——上層階から50体以上の徘徊者が階段を降りてきた。
スーツ姿の男。エプロンをつけた女。警備員の制服。パジャマ姿の者。——元はこのビルの住人だった人間たちが、虚ろな目で、ぎこちない足取りで、しかし止まることなく前進してくる。
「射撃開始! 頭を狙え!」
梶原が命じた。隊員たちが発砲する。弾丸が徘徊者の頭部を貫き、次々と倒れていく。10体。15体。だが倒しても次が来る。弾薬が減っていく。
そして——人間側にとって最も恐ろしい局面が訪れた。
感染から30分が経過した隊員たちが、部隊の後方で次々と徘徊者化し始めたのだ。
拘束していた者は監視要員が対処した。だが——戦闘を続けていた感染者の中に、自分が噛まれたことに気づいていない者がいた。ワーウルフの爪で負傷した際に唾液が浸透し、本人も周囲も「ただの裂傷」だと思っていた。
その隊員が——弾倉を交換する手を止め、ゆっくりと振り返った。目が虚ろになっている。ライフルを持ったまま、隣の仲間に向かって歩き始めた。
「——河野? おい、河野! ……目が——!」
隣の隊員が異変に気づいた時には遅かった。河野が銃を振り上げ、床尾で仲間の顔面を殴打した。鼻が砕ける音。仲間が倒れ、河野が馬乗りになって噛みつこうとする。
梶原が拳銃で河野の後頭部を撃った。
河野が崩れ落ちた。5分前まで「梶原三佐、弾薬が心許ないです」と報告してきた男だ。
梶原の手は震えなかった。だが心臓が、石のように重くなった。
同じことが、別の場所でも起きていた。火炎放射器の明滅で暗視ゴーグルを跳ね上げた隊員も多く、肉眼と暗視が混在する中で視界が安定しない。迷彩服を着た徘徊者が味方の中に紛れ込んでいる。暗がりでは判別がつかない。
恐怖が伝染していく。味方を信じられなくなる。隣の仲間が敵かもしれない。暗闇の中で、誰が人間で誰が徘徊者なのか分からない。
「全員、2名1組で行動しろ! 声をかけて応答を確認しろ! まともに返事ができない者は——」
梶原の声が途切れた。ワーウルフが車列の隙間から飛び出し、混乱している部隊に突撃したからだ。
3体のワーウルフは、この瞬間を待っていた。徘徊者の波と、感染者の覚醒と、恐怖の伝染が——人間の隊形を完全に崩した瞬間を。
田中が転種チームを率いて突入する。味方と敵の区別がつかない混沌の中で、元SATの戦術知識を持つ転種は、正確に「まだ人間である者」を識別し、効率的に無力化していく。
梶原が最後まで火炎放射器を構え、ワーウルフ1体の突進を正面から受け止めた。炎が至近距離でワーウルフの顔面を焼く。毛皮が燃え、肉が焦げ、ワーウルフが絶叫した。
だがワーウルフは——炎の中から梶原の腕を掴んだ。万力のような握力。梶原の前腕の骨が軋む。火炎放射器のノズルが明後日の方向を向いた。
梶原が空いた手で拳銃を抜き、ワーウルフの顎の下から撃ち上げた。頭蓋骨の中で弾丸が跳弾し、脳を損傷した。ワーウルフが一瞬怯む。その隙に梶原が腕を引き抜き、転がって距離を取った。
ワーウルフは——倒れなかった。頭部への9ミリ弾は致命傷に至らなかった。だが動きが鈍っている。脳が再生するまでの数十秒間、このワーウルフは判断力を失っている。
梶原が再び火炎放射器を構え、トリガーを引いた。燃料タンクの残量表示がゼロに近い。最後の噴射。全量をワーウルフに浴びせた。
燃料が尽きた火炎放射器を投げ捨て、後退する。燃え盛るワーウルフが、もがきながらコンクリートの床を転がった。再生能力と炎のせめぎ合い。やがて——動かなくなった。
地下のワーウルフ2体目、撃破。
だが残り2体は健在だ。そして梶原の手元には、もう火炎放射器はなかった。
エントランスホール。
鳥居のエントランス残留部隊30名は、持ちこたえていた。
残存する火炎放射器3基を盾に、日向の中央エリアに陣取り、リリスの接近を炎で阻止し続けている。殺せなくても、足止めにはなっている。
だが——徘徊者80体が、奥の廊下から雪崩れ込んできた。
元社員、元住民、元警備員。青白い肌。虚ろな目。口から垂れる唾液。ぎこちなく、だが確実に前進してくる人型の群れ。
「射撃開始! 頭を狙え!」
弾丸が徘徊者の頭部を貫く。10体、20体と倒していく。だが倒しても倒しても次が来る。80体の波。弾薬の消費が激しい。
そして——徘徊者の群れの背後で、リリスとカーミラが動いていた。
徘徊者という「壁」の陰に隠れて接近する。隊員たちは徘徊者の排除に集中せざるを得ず、霧化する個体への警戒が分散する。
リリスが徘徊者の隙間から霧化して飛び出し、残った火炎放射器の1台を斬り落とした。カーミラが血の鞭で隊員を影に引きずり込んだ。
鳥居は火炎放射器の残りを数えた。2基。
「後退! 非常階段で合流する!」
鳥居はエントランスの保持を放棄した。30名が非常階段に向かって走る。リリスが追撃しようとしたが、最後の火炎放射器2基が階段入口で炎の壁を作り、数秒の時間を稼いだ。
その数秒で30名が非常階段に飛び込んだ。2階のフロアに上がり、バリケードを構築する。
エントランスを失った。だが——30名は生きている。鳥居の判断が、部下を救った。
屋上。
藤堂の部隊は、ワーウルフ1体の撃破に成功した後、残存する人型の敵3名とのゲリラ戦を続けていた。
護符を持つ1名が最大の脅威だった。日光下でほぼフルの機動力を保ち、影から日向、日向から影へと縦横無尽に動き回る。3名が連携して火炎放射器の射手を1人ずつ潰していく。
だが藤堂の部隊も学習していた。屋上の構造を把握し、影の位置をマッピングし、敵の移動パターンを予測し始めている。
護符を持たない1名が影から飛び出した瞬間を、藤堂が待ち構えていた。日光下で明らかに動きが鈍っている。藤堂が至近距離でショットガンの散弾を顔面に叩き込んだ。頭蓋が粉砕され、敵が崩れ落ちた。
もう1名にも、複数の隊員がライフルの照準を合わせていた。影から飛び出した瞬間に6発の集中射撃。うち2発が頭部を貫通し、仕留めた。
ここまでに撃破した4名のうち2名は、ワーウルフとの交戦中に仕留めた一般の転種だった。今しがた2名を倒し、人型の敵は5名いたうち4名を撃破。残るは護符を持つ1名のみ——
その時、屋上の非常階段ドアが蹴り開けられた。
ダークレッドの髪。血のように赤い瞳。護符が首元で金色に光っている。
エリザベート。
始祖が投入した最後の切り札。5名の純種の中で最も野心的で、最も攻撃的な個体。
右手から血が滲み出し、大鎌の形に結晶化していく。長い柄に巨大な弧状の刃がついた、死神のような武器。
エリザベートが、日光の中に踏み出した。護符の効果で、肌がわずかに赤みを帯びる程度。能力低下1割。
「お待たせ」
エリザベートが微笑んだ。太陽の下で。
藤堂が瞬時に判断した。この女も霧化する可能性がある。手にしている大鎌は範囲が広い。近づけてはならない。
「火炎放射器、集中! あの女に!」
残存する火炎放射器4基が一斉にエリザベートに向けて炎を浴びせた。
エリザベートが霧化した。4本の炎の奔流が赤黒い霧を通過する。
だが藤堂は学んでいた。鳥居がエントランスで見出した戦術——霧化中は攻撃できない——を無線で共有されていた。
「撃ち続けろ! 霧の間は何もできない! 実体化した瞬間を狙え!」
隊員たちが射撃と炎を浴びせ続ける。エリザベートが実体化するたびに弾丸と炎が殺到し、再び霧化を強いられる。
だが——エリザベートは笑っていた。
霧化のまま移動し、射手の真上で実体化した。3メートルの高さから落下しながら大鎌を振り下ろす。弧状の刃が射手の火炎放射器のタンクを一刀両断した。燃料が飛散し——
爆発。
タンク内の加圧燃料が破裂し、周囲3メートルに炎が広がった。射手が炎に包まれた。隣の隊員が巻き込まれた。
エリザベートは——爆発の瞬間に霧化して退避し、炎が消えてから実体化した。
大鎌を一振り。防弾ベストごと、隊員の胴体が裂けた。血の結晶の刃はケブラー繊維を紙のように切る。
「火炎放射器がなくなれば——あとは狩りの時間よ」
エリザベートが大鎌を回転させながら、隊員の群れに突入した。1振りで2名の負傷者を出す範囲攻撃。リリスの剣が精密な一対一の武器なら、エリザベートの大鎌は群衆制圧兵器だ。
そして岡田が、エリザベートが正面を引きつけている間に背後から仕掛けた。人間と変わらない外見だが——万力のような握力で火炎放射器の射手の関節を極め、地面に叩きつける。元は味方だったかもしれない男。SATの動きだ。
藤堂がショットガンで護符を持つ敵を狙った。散弾が肩に命中し、肉が弾けた。だが——5秒で傷が塞がりかけている。
「化け物——!」
隊員の悲鳴。それでも藤堂は指揮を続けた。
「円陣を組め! 日向に留まれ! 火炎放射器を守れ!」
だが火炎放射器はもう2基しか残っていなかった。そして屋上の非常階段から、徘徊者が溢れ出し始めた。30体以上。
前方にエリザベート。側方に岡田。後方から徘徊者の波。
藤堂が歯を食いしばった。
「司令部——藤堂。屋上の状況を報告する。敵の増援。霧化する個体が1名追加で出てきた。火炎放射器残存2基。徘徊者30体以上が流入。——撤退を具申する」
午前10時50分。仮設司令部。
久我山が3つの戦場からの報告を聞き終えた。
壁に掛けられた時計が、開始から50分を示していた。
「損害集計」
参謀が読み上げた。
第1部隊(地下):感染者35名、死亡3名、徘徊者化18名。戦闘可能44名。
→ワーウルフ1体撃破。だが残存2体と人型の敵が健在。
第2部隊(エントランス+上層階):感染者25名、死亡8名。戦闘可能67名。
→転種2名撃破。だがリリス・カーミラ・ワーウルフ健在。5階でセレネに阻止。
第3部隊(屋上):感染者20名、死亡9名。戦闘可能71名。
→ワーウルフ1体撃破。転種4名撃破。だがエリザベートが参戦。岡田が健在。
合計損害:感染者80名、死亡20名、徘徊者化18名。
残存戦闘力:182名。
「感染者80名。あと30分で——更に80名の徘徊者が生まれる」
久我山が静かに言った。
300名で突入して、50分で118名を失った。そのうち死者は20名。残り98名は——感染して敵になったか、これから敵になる。
殺すのではなく、増やす。それが吸血鬼の戦い方だった。人間を殺さず、味方に変える。倒した敵がそのまま敵の増援になる。——こんな戦争は、人類の歴史に存在しない。
「撤退」
久我山の声は、静かだった。
「全部隊に撤退命令を出せ。タイムリミットの90分を待たない。今すぐだ」
「——了解」
「撤退ルートは事前に確保させている。各部隊は最短距離で封鎖線まで後退しろ。感染者は——」
久我山が言葉を切った。
「感染者で歩行可能な者は連れ帰れ。隔離施設に収容する。歩行不能の者は——建物内に残置する」
「残置……」
「生きて帰れる者を、帰す。それが今の最善だ」
無線で撤退命令が伝えられた。
3つの戦場から、生き残った隊員たちが撤退を開始した。
藤堂が屋上で最後まで指揮を執った。火炎放射器の残り2基でエリザベートを牽制しながら、隊員をヘリの降下ロープに誘導する。
「順番に昇れ! 慌てるな! 転ぶな!」
エリザベートは——追撃しなかった。大鎌を肩に担ぎ、撤退していく隊員たちを見送っている。
「帰るの? つまらないわね」
エリザベートが呟いた。だがその目は冷静だった。追撃して殺すより、生かして帰す方が合理的だ。帰った兵士が「勝てない」と報告する。その恐怖が——次の攻撃を躊躇わせる。
藤堂が最後にヘリのロープを掴んだ。上昇しながら屋上を見下ろした。ダークレッドの髪の女が、大鎌を杖のようについて立っている。その横に、護符を持つ元SAT——岡田が立っていた。
その足元に、先ほど仕留めたはずの2体の敵が横たわっている。——頭部を撃ち抜かれたはずの転種だ。動いていない。だが——岡田がその傍に立ち、見下ろしている。死体を回収しているように見えた。
藤堂は眉をひそめた。だがヘリのロープは上昇を続けている。確認する術はなかった。
2名の姿が小さくなっていく。大鎌の女と、護符を持つ人型の敵。六本木ヒルズの屋上が遠ざかる。
藤堂は拳を握りしめた。
負けた。
梶原が地下駐車場で最後の隊員を脱出させた。車両搬入口から装甲車に乗り込む。ワーウルフ2体は追ってこなかった。建物の外には出ない。
梶原は装甲車のハッチを閉じる直前に、地下の暗闇を振り返った。暗視ゴーグル越しに——車列の間に立つ灰色の巨体が2つ、こちらを見ていた。追う気はない。ただ見ている。
梶原がハッチを閉じた。
装甲車の中は沈黙していた。100名で突入し、生きて出てきたのは44名。残り56名は——死んだか、感染したか、敵になった。
鳥居が非常階段から隊員を退避させた。2階のバリケードを維持したまま、1階のエントランスを経由せず、窓から外壁を伝って脱出。ロープ降下で地上に降り、封鎖線まで走った。
リリスは追撃しなかった。窓際に立ち、逃げていく隊員たちを見下ろしていた。血の剣を消し、護符に手を触れた。
「……行きなさい」
リリスが呟いた。誰にも聞こえない声で。
「そして——伝えなさい。ここには手を出すな、と」
午前11時15分。
オペレーション・サンライズ、失敗。
六本木ヒルズの封鎖線外に、生還した隊員たちが集められていた。
久我山が1人ずつ確認して回った。名前を呼び、返事を聞き、顔を見る。意識がある者。負傷している者。茫然自失で座り込んでいる者。泣いている者はいなかった。泣く余裕すらなかった。
参謀が最終集計を持ってきた。
「集計が出ました」
【オペレーション・サンライズ 最終戦果報告】
投入兵力:300名
生還:45名(うち負傷者多数)
死亡確認:28名
感染(徘徊者化見込み):推定165名
建物内残留(未確認):推定62名
敵側確認損害:
ワーウルフ:2体撃破(残存3体)
人型個体:6名撃破
徘徊者:推定60体を頭部破壊
久我山が紙を握りしめた。
300名投入して、生還45名。生還率15パーセント。
そして——155名の兵士が、30分以内に徘徊者として敵の戦力に加わる。更に10名が吸血鬼として転化する。
我々が投入した300名の兵士の大半が——敵の増援になった。
「……霧化する個体は」
久我山が聞いた。
「霧化する個体は、確認された4体すべてが無傷です。我々の攻撃は一切通用しませんでした」
「ワーウルフは」
「5体中2体を撃破。火炎放射器が有効でした。しかし——ワーウルフは火炎放射器の射手を最優先で狙ってきました。火炎放射器30基中、27基が破壊または燃料切れで使用不能になっています」
久我山は空を見上げた。午前11時の太陽が高い。こんなに明るい昼間に、300名の精鋭が壊滅した。日光は——ほとんど役に立たなかった。
「吸血鬼どもが護符を持っていた」
久我山が呟いた。
「ダンジョン産のアーティファクト——守護の護符。精神を安定化させ、体調を回復させるという代物だ。屋上の戦闘報告では、護符を持たない個体は日光下で明らかに動きが鈍り、護符を持つ個体は制限なく動いていた。——日光が何らかの形で影響しているのは間違いない。そして護符がそれを打ち消している可能性が高い。いずれにしろ、護符を持った個体には日中強襲の優位が通じなかった」
参謀が言葉を選びながら口を開いた。
「司令。これは——従来の軍事力では対処不能だということでしょうか」
久我山は答えなかった。
しばらく沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。
「生還者の全員に聞き取りを行え。特に霧化する個体の能力に関しては、行動パターン、弱点の手がかり——何でもいい。1つでも多く情報を集めろ。今日の戦闘で我々が学んだことは、次の作戦に必ず活きる」
「次の作戦——があるのですか」
「ある。今日でなくても、いつか必ずやる。それまでに——あの化け物に対抗できる手段を見つけなければならない」
久我山はそれ以上言わなかった。具体的な対抗手段の構想はまだない。ただ一つだけ確信していることがある。
通常の軍事力では——足りない。
銃と火炎放射器と訓練された兵士。人類がこれまで積み上げてきた戦争の道具は、霧になる敵の前で無力だった。何か根本的に違うアプローチが必要だ。それが何なのかは、今の久我山には分からない。
だが——分からないなら、分かる人間を探す。答えがないなら、答えを持っている場所を探す。
ダンジョン。アーティファクト。フェロモン。——この国に出現した超常の力。敵がそれを使っている以上、味方もそれを使わなければ対等にならない。
その漠然とした直感だけが、久我山の中に残った。
久我山はテントに戻り、防衛大臣への報告書の作成を始めた。
六本木ヒルズ、30階。
戦闘終結後、一族が集結した。
始祖の前に、リリスが戦果を報告する。
「母。作戦は勝利で終わりました」
ヘカテがノートPCの画面に数字を表示した。
「戦果報告です」
人間側の損害:
投入兵力:300名
死亡:推定28名
感染(徘徊者化):推定155名
転化(吸血鬼化):10名(精鋭隊員を選別して転化)
生還:45名(うち負傷多数)
建物内残留:推定62名
我々の損害:
ワーウルフ:2体喪失(残存3体)
転種:4名喪失(残存11名。新規転化10名を含まず)
転種:2名重度損傷(元SAT。回復中)
徘徊者:推定60体喪失(頭部破壊による)
純種:損害なし
「ワーウルフを2体失った」
セレネの声が低い。銀灰色の髪の下で、拳が白くなるまで握り締められていた。5体のうち2体。
「屋上の1体は火炎放射器3基の集中砲火で焼かれた。地下の1体は部隊長に——顎下への拳銃射撃で脳を損傷された後、残存燃料を全量浴びせられた」
セレネが唇を噛んだ。
「……火炎放射器は、やはり致命的だった」
「ですがセレネの訓練が効きました」
ヘカテが補足した。
「地下のワーウルフ3体は車列を利用して火炎放射器を封じ、消火行動も取りました。訓練なしなら3体とも失っていた可能性があります。2体が生き残ったのは、セレネの指導の成果です」
セレネは答えなかった。2体が生き残ったことより、2体を失ったことの方が重い。
リリスが報告を続けた。
「転種は4名を失いました。エントランスで2名、屋上で2名。いずれも護符を持たない転種です」
リリスが一拍置いた。
「屋上では更に2名が重度の損傷を受けています。渡辺と高橋——元SATの転種です。人間の部隊長が頭部射撃を徹底した。一般の転種なら即死していた攻撃ですが、2名ともSAT時代の反射で直前に身を捩り、直撃を僅かにずらしていた。頭蓋の一部が損壊し、一時的に意識を失いましたが——再生は始まっています。完全な回復には数日かかる見込みです」
「……元の素体が精鋭だと、転種としての耐久力も上がるのね」
カーミラが呟いた。
「そのようです。転種の再生能力は、元の人間としての肉体の素養に依存する。鍛え上げた身体は転種になっても鍛え上がったままです。あの2名がSATでなかったら、頭部の損傷で死んでいたでしょう」
田中が補足した。自分と同じ元SATの仲間が辛うじて生き延びたことへの安堵は、声には出さなかった。
「いずれにしろ——人間の適応力は侮れません」
カーミラが口を開いた。
「こちらの指揮官も厄介だった。霧化の特性を2分で見抜いて遅延戦術を組み立てた。エントランスの火炎放射器を潰すのに予定の3倍の時間がかかった」
「人間は学ぶ」
エリザベートが言った。大鎌を肩に担ぎ、窓際に立っている。
「サンライズは撃退した。だが——次は、もっと賢い相手が来る。今日の戦闘データを分析し、対策を練り、より精鋭の部隊を編成して」
「同感です」
田中が発言した。
「今回の指揮官は、SATの佐藤隊長以上の辣腕ぶりだった。撤退のタイミング、生還ルートの事前確保、感染者の管理体制——すべてが組織的でした。今日は我々が勝ちましたが、あの指揮官は次の戦いの準備を始めているはずです」
「……具体的ニハ……ドウイウコトダ……」
始祖が尋ねた。
田中が一瞬考え、答えた。
「通常戦力での奪還が失敗した以上、次の選択肢は限られます。最も警戒すべきは——建物ごとの破壊です」
全員の表情が変わった。
「サーモバリック弾頭。もしくは大型爆弾の航空投下。六本木ヒルズを物理的に消滅させる。今日の敗北は、その判断への一歩です。『通常戦力では勝てない。ならば建物ごと焼くしかない』。こちらには人質もいますし、政治的な障壁はまだ大きいですが、被害が拡大し続ければ世論が後押しします」
「……それが来たら……防ぎようがない」
カーミラが呟いた。
「ありません。霧化も再生も、爆圧と熱量が一定の閾値を超えれば意味を成さない。ビル全体が瞬時に崩壊し、数千度の熱が全フロアを焼き尽くせば——純種でも生存は不可能です」
リリスが頷いた。
「だから散る。以前話した通りよ。一箇所に留まれば、いつか一撃で全滅する。田中の分析は、拡散の緊急性を裏付けている」
始祖がゆっくりと立ち上がった。
「……勝ッタ……ダガ……安心ハ……デキナイ……」
「……リリス……エリザベート……拡散ノ準備ヲ……始メロ……」
「……次ハ……兵士デハナク……炎ガ来ル……ソレマデニ……散レ……」
リリスが頷いた。
「はい、母。約束通り——勝ったら、散ります」
エリザベートの赤い瞳が光った。
「私の出番ね」
午後3時。首相官邸。緊急記者会見。
総理大臣が壇上に立った。
「本日午前10時、六本木ヒルズ森タワーに対する奪還作戦——オペレーション・サンライズを実行しました」
記者たちがペンを握りしめた。
「陸上自衛隊特殊作戦群300名を投入しましたが、敵の戦力は予想を遥かに上回っていました」
「現時点で確認されている状況は——生還45名。残り255名は、死亡もしくは行方不明です」
ざわめき。記者たちが一斉に手を挙げた。
「行方不明の255名は、どうなったのですか」
「死亡が確認されている者が28名。残りの約220名は——敵に感染もしくは転化した可能性があります」
「自衛隊員が200名以上、敵に変えられたということですか」
「……その可能性を否定できません」
会見場が静まり返った。
「今後の対策は」
「封鎖を継続します。ビル内部への突入作戦は——当面、凍結します」
「六本木ヒルズは放棄するのですか」
「放棄ではありません。封じ込めです。内部の脅威が外部に拡散しないよう、封鎖線を強化します」
「より強力な兵器——爆撃やミサイルによる建物の破壊は検討しないのですか」
総理大臣の表情が険しくなった。
「六本木ヒルズの周辺には民間施設が密集しています。また、建物内にはまだ——人質がいる可能性が高い。そして、元は人間だった者たちもいる。治療法が見つかる可能性を、現時点で排除できません。あらゆる選択肢を検討していますが、慎重な判断が必要です」
記者会見は2時間に及んだ。だが——国民が求めている「どうすればこの危機を終わらせられるのか」という問いに、総理大臣は答えられなかった。
答えが、なかった。
深夜。墨田区向島。アラクネの巣。
宍粟真央は空き家の畳の上でスマホのニュースを読んでいた。
「六本木ヒルズ奪還作戦、失敗。投入300名中、生還45名」
「へー。失敗したんだ」
記事を読み進めた。投入300名。生還45名。死亡28名。残り227名は感染もしくは転化。
「自衛隊でも勝てないのか。吸血鬼、強いんだな」
画面をスクロールする。SNSは炎上状態だった。恐怖、怒り、分析、陰謀論——その中に、真央の指が止まる投稿があった。
「吸血鬼がアーティファクトと見られる物品を首から下げていたという生還者の証言。ダンジョン産の守護の護符か? だとすれば吸血鬼はどうやって護符を入手した?」
「護符……」
真央は少し考えた。守護の護符。自分が作ったお守り——の、蟻によるコピー。ダンジョンで冒険者が拾い、市場に流通しているアーティファクト。それを吸血鬼が持っている。
「ふーん」
真央はすぐに興味を失った。護符が吸血鬼に効くのは面白い情報だが——それが自分と関係があるとは思わない。護符はダンジョンで蟻が作っている。吸血鬼がそれを入手した。それだけの話だ。
「……ウン……ニンゲン……マケタンダ」
天井からアラクネの声が降りてきた。8つの赤い目が暗がりの中で光っている。
「負けたんだな。まあ、しょうがないだろ。相手が化け物なんだから」
「……オヤガ……バケモノ……ツクッタ」
真央の手が一瞬止まった。
「——俺が作った訳じゃない。向こうが勝手に化け物になったんだ」
「……ソウ?」
「そう」
真央はスマホを畳に置き、仰向けに寝転がった。
「まあ、もっと面白くなるだろ。これで終わりじゃないだろうし」
天井の蜘蛛の糸が、かすかに揺れた。アラクネが何か言いたそうにしていたが、結局何も言わなかった。
窓の外で、遠くからサイレンの音が聞こえた。救急車か。パトカーか。それとも——消防車か。
真央には関係のない音だった。
すべての起点にいる青年は、蜘蛛の巣の中で目を閉じた。




