第21話「日の出作戦(前編)」
午前6時。六本木ヒルズ南東、封鎖線外側。仮設司令部。
陸上自衛隊、特殊作戦群群長、久我山達也一佐が地図盤の前に立っていた。
52歳。精悍な体躯。髪は白髪交じりだが、背筋は定規で引いたように真っ直ぐだ。右頬に古い傷跡がある。イラク、南スーダン、ジブチ——3度の海外派遣を経験し、そのすべてで部下を生きて連れ帰った。
今日の作戦は、それらのどれとも似ていなかった。
仮設テント内には各部隊の指揮官と参謀が集まっている。テーブルの上に六本木ヒルズ森タワーの構造図。3方向の侵入経路が赤い矢印で示されている。
「最終ブリーフィングを行う」
久我山が静かに告げた。
「オペレーション・サンライズ。目標は六本木ヒルズ森タワー内部の敵性勢力の制圧、および建物の奪還。投入兵力は特殊作戦群300名。——各部隊長、任務を確認しろ」
3名の部隊長が顔を上げた。
「第1部隊、地下駐車場。梶原」
梶原裕介三佐。38歳。元レンジャー教官。100名を率いて地下駐車場から侵入する。車両搬入口のシャッターを爆破し、地下階を制圧しながら上層階へ押し上げる。
「第2部隊、エントランス。鳥居」
鳥居和也三佐。41歳。特殊作戦群歴12年。100名を率いて正面エントランスから突入する。吹き抜けロビーを確保し、非常階段とエレベーターへのアクセスを押さえる。
「第3部隊、屋上。藤堂」
藤堂正志三佐。36歳。空挺出身。100名を率い、ヘリ4機からのラペリング降下で屋上を制圧する。上層階から下に向けて掃討。
久我山が構造図を指した。
「SATの戦闘記録から判明している敵の情報を確認する。極めて断片的だが、これが我々の持つ全てだ」
参謀がスクリーンに映した。
【確認済み敵情報】
獣型生物(仮称「ワーウルフ」)——2体確認(目視)。
・体長2メートル超
・9ミリ弾が無効。散弾で一時的に損傷するが再生
・時速80キロ以上の突進(推定)
・火炎に対して脆弱(推定・未検証)
人型の敵(仮称「吸血鬼」)——2体確認(無線断片のみ)。
・SAT第2班の通信担当が送信した3秒間の無線が唯一の情報源
・「敵は人型、2体、弾が効かない、霧に——」で途絶
・霧化能力:身体を霧状に変化させ、弾丸が通過した可能性大
・身体能力:不明。ただしSAT10名を数秒で制圧→ワーウルフに匹敵する可能性
・外見・個体差:一切不明。姿を直接確認した生還者はいない。ただし、六本木ヒルズ占拠までの手際、計画性、また占拠後の声明から、知能は少なくとも人間に匹敵すると思われる。
徘徊者——推定数百体。
・噛みつきによる接触感染。潜伏30分
・頭部破壊でのみ停止
・元人間。外見で判別困難な場合あり
【不確定情報】
・人型の敵の総数不明(2体以上の可能性大)
・獣型の総数不明
・SAT第2班10名のうち、確認出来ているだけでも4名が「転化」された可能性
→人間の外見のまま敵に加わっている恐れ
→真偽不明。確認する術がない
「質問は」
梶原が手を挙げた。
「火炎放射器の配備数は」
「各部隊10基、計30基。特殊燃料仕様で射程15メートル、連続噴射40秒。ワーウルフに対する最大の切り札だ。射手の護衛を最優先にしろ。火炎放射器を失えば、ワーウルフを止める手段がなくなる」
鳥居が発言した。
「霧化——本当に霧になるのですか」
「SATの無線断片は『弾が効かない、霧に——』で途絶している。『霧に』の後に何が続くかは不明だ。霧になって弾を回避したのか、霧のような何かを放出したのか——解釈は複数ある。だが最も警戒すべきシナリオは『身体そのものが霧化して物理攻撃を無効化した』というものだ。そう想定して作戦を立てる」
「その場合の対策は」
「ない」
久我山の答えは率直だった。
「もし本当に霧化するなら、現有の火器では対処不能だ。従って人型の敵との正面戦闘は極力避ける。炎と日光で活動を制限し、その間に建物を制圧するのが基本方針になる」
「日光は有効なのですか」
「SATの戦闘は深夜だった。日光にどの程度弱いかは不明だが、日中強襲に意味がないとは考えていない」
藤堂が口を開いた。
「屋上の情報が最も少ない。獣型が屋上にいる可能性は」
「ある。想定しろ。日光下でワーウルフの能力がどの程度低下するかも未知数だ。そもそも日光が弱点というのも推測の域を出ていない。最悪の場合、フルスペックのワーウルフが屋上で待っている」
久我山が全員を見回した。
「最後に——感染の問題だ」
全員の表情が引き締まった。
「噛みつきによる接触感染。潜伏期間30分。戦闘開始から30分が経過した時点で、最初の感染者が徘徊者化する可能性がある。味方が敵になる。——その覚悟をしておけ」
テント内が静まった。
「タイムリミットは90分。それを超えた場合、感染者の累積で味方と敵の判別が困難になる。90分以内に決着がつかなければ全部隊撤退。例外なしだ」
「了解」
3名が同時に応えた。
「0930にヘリが離陸する。第3部隊は0950に降下開始。同時に第1・第2部隊が地上から突入。——全部隊、1000を期して攻撃開始」
久我山が腕時計を確認した。
「諸君。相手は未知の存在だ。訓練マニュアルにない敵と戦う。それでも——やることは同じだ。仲間を守れ。命令に従え。そして生きて帰れ」
敬礼。
300名の精鋭が、最後の準備に取りかかった。
午前9時50分。
UH-60ブラックホーク4機が、六本木ヒルズの上空に進入した。
藤堂が先頭機の開放ドアに立ち、風を受けながら屋上を見下ろした。眩しい日光。10月の空は高く澄んでいる。ヘリの影が屋上のコンクリートの上を滑っていた。
屋上は広い。給水塔、空調室外機の群れ、ヘリポートのマーキング。遮蔽物は多いが——死角も多い。
双眼鏡で屋上を確認した。動くものは見えない。
「降下開始」
4機から同時にロープが投げ下ろされた。隊員たちが次々とラペリング降下を始める。手にグローブ、銃は背中。両手でロープを握り、制動しながら降りていく。
最初の10名が着地。膝をつき、銃を構えて周囲を警戒。
——静寂。
20名。30名。着地のたびに隊形を広げ、屋上全体をカバーしていく。
藤堂が着地した。50名が展開完了。残り50名が降下中——
その時だった。
給水塔の影から、灰色の巨体が飛び出した。
ワーウルフ。
日光の下に出た瞬間、肌が赤く変色している。動きが僅かに鈍い。だがそれでも——人間の限界を遥かに超えた速度だった。時速60キロの突進。日光で弱体化してなお、短距離走の世界記録を凌駕する速度。
最も近い隊員が銃を構える前に、ワーウルフの前脚が盾のように振られた。隊員が横に吹き飛ばされ、コンクリートに叩きつけられた。防弾ベストが衝撃を吸収したが、意識が一瞬飛ぶ。
「射撃開始!」
藤堂が叫んだ。
89式小銃の一斉射撃。5.56ミリ弾がワーウルフに集中する。日光で弱体化した毛皮を貫通し、弾丸が肉に食い込む。
ワーウルフが苦痛の咆哮を上げた。背中と腹に十数発。血が飛び散る。
だが——止まらない。弾丸が食い込んだ箇所の肉が蠕動し、鉛の弾頭が押し出されていく。日光で遅延されているが、再生が始まっている。
「火炎放射器、前へ!」
射手3名が三方向からワーウルフに炎を浴びせた。高温の特殊燃料がワーウルフの左半身に付着し、毛皮が燃え上がる。再生能力と焼却のせめぎ合い。
ワーウルフが絶叫しながら地面を転がった。だが——炎の中から、火炎放射器の射手に向かって突進した。
燃えながら。
半身を炎に包まれたまま、時速40キロで射手に迫る。恐怖で足が竦む——それを訓練が上書きする。射手が炎を浴びせ続けた。ワーウルフの全身が火の塊になる。
それでも止まらない。あと5メートル。3メートル——
藤堂がショットガンを構え、ワーウルフの膝関節に至近距離でスラッグ弾を叩き込んだ。膝が砕け、前のめりに倒れた。射手の足元1メートル。燃え続ける巨体が痙攣し、やがて動かなくなった。
1体目、撃破。
藤堂の心拍数が180を超えている。訓練では経験したことのない恐怖だった。燃えながら突進してくる2メートルの獣人。殺せた——だが火炎放射器3基分の燃料を使い、隊員2名が負傷した。
そして——ワーウルフの突進は、陽動だった。
空調設備の影から、5つの影が動いた。
人間の姿をした存在。日陰に潜んでいた5名が、降下中の隊員に向けて一斉に動き始めた。
うち1名が日向に飛び出した。肌が赤く変色するが、動きは鈍らない。首元にお守りのようなアーティファクトが光っている。
その男——岡田——は護符を持つ元SAT。人間だった頃の記憶と技術がそのまま残っている。ラペリング降下中の隊員がどこに着地するか、SATの訓練パターンから正確に予測できる。
岡田が空調設備の屋根を蹴って跳躍した。3メートル。空中で降下ロープを掴み、ぶら下がっていた隊員を引きずり下ろした。2メートルの高さから落下。着地の衝撃で膝を突いた瞬間——岡田の手が首筋を掴み、爪が皮膚を裂いた。唾液が浸透する。
「降下中の隊員が狙われている! 降下を加速しろ! 着地したら即座に散開!」
藤堂が叫んだ。
護符を持たない4名も影の中から動いていた。渡辺——元SAT——はヘリの位置と風向きから着地ポイントを正確に予測し、空調設備の裏に待ち伏せている。着地した隊員が膝をついた瞬間——背後の死角から飛び出し、首筋に牙を突き立てた。
「後ろ——!」
隣の隊員が銃を向けた。だが渡辺は既に影に消えていた。噛まれた隊員が崩れ落ちる。
高橋——元SATのポイントマン——は戦闘に参加していなかった。給水塔の上から屋上全体を俯瞰し、念話でリリスに報告を送っている。
そして——もう1名の人型の敵が、火炎放射器の射手を狙った。日光下で肌が赤く変色しながらも、射手に突進する。射手が炎を向けようとしたが——敵の方が速い。ノズルを掴み、上に向けさせた。炎が空に向かって吹き上がる。
藤堂がショットガンで敵の背中を撃った。散弾が肉に食い込む。だが頭を外している。致命傷にならない。敵は射手を麻痺させて影に飛び戻った。
「頭を狙え! 頭部のみが確実な急所だ!」
藤堂が命令した。SATの記録にはなかった情報。だが今、戦場で学んでいる。胴体への射撃では止まらない。頭だけが急所だ。
隊員がライフルで敵の後頭部を撃ち抜いた。人型の敵が崩れ落ちた。——効いた。頭部への直撃は有効だ。
別の隊員がショットガンを至近距離で別の1名の顔面に叩き込み、もう1名を仕留めた。
だが護符を持つ岡田と、元SATの渡辺・高橋は健在だった。彼らは影を利用したゲリラ戦を続けている。日光の下にいる時間を数秒に抑え、ダメージを最小限にしながら一人ずつ感染させていく。人間の外見。暗色の服装。距離があれば味方と見分けがつかない。
開始5分。屋上の損害——ワーウルフ1体撃破。人型の敵2名撃破。だが人間側は感染者7名、死亡2名。火炎放射器3基喪失。
午前10時00分。地下駐車場。
爆発。
梶原の第1部隊が、車両搬入口のシャッターを指向性爆薬で吹き飛ばした。金属片が散乱する中、先頭の突入班が銃を構えて地下空間に踏み込んだ。
暗い。天井の非常灯が赤い光を投げかけているだけだ。暗視ゴーグルに切り替える。緑色の視界に高級車の列が浮かび上がった。
六本木ヒルズの住人が残していった車たちが埃を被って並んでいる。
静寂。
梶原の皮膚が粟立った。レンジャー教官として何百回と山林での待ち伏せ訓練をしてきた。だからこそ分かる。この静けさは——待ち伏せの気配だ。
「散開隊形。車列に沿って前進。2列縦隊、間隔3メートル。火炎放射器班は中央」
100名が地下に展開していく。靴音が反響する。暗視ゴーグルの緑の世界。
最初の変化は、音だった。コンクリートの壁の向こうから、低い唸り声。1つではない。複数。
そして——天井から落ちてきた。
ワーウルフ3体。配管に張り付いていた灰色の巨体が、同時に車列の間に着地した。コンクリートに亀裂が走る。
3体。SATの記録では2体のみ確認されていた。——増えている。
「ワーウルフ3体! 火炎放射器、前へ!」
梶原が命じた。
だがワーウルフたちは正面から突撃してこなかった。3体が散開し、車列の隙間に入り込んだ。車両を盾にして移動する。地下空間は天井が低く、車が密集している。この環境で火炎放射器を使えば、ガソリンタンクに引火する。
まるで——火炎放射器の弱点を知っているかのような動き。
1体が車列の下を這い、火炎放射器班の側面に回り込んだ。車の底から伸びた腕が射手の足首を掴んだ。
「うわっ——!」
射手が引き倒された。ノズルが床を向き、射手がずるずると車の下に引きずり込まれていく。仲間が腕を掴もうとするが——万力のような握力に抗えない。暗闇の中で悲鳴。骨が折れる音。そして沈黙。
「車の下だ! 下から来る!」
車体の下に向けて発砲するが、弾丸は金属のボディに弾かれる。
別のワーウルフが車の屋根を蹴って跳躍し、3メートル先の射手の頭上に降り注いだ。両腕を振るい、2名の隊員が壁に激突した。残りの射手が至近距離で炎を浴びせる。ワーウルフの右腕に燃料が付着し、燃え上がった。
だがワーウルフは——燃える腕でノズルを掴み、射手ごと持ち上げた。射手の足が地面を離れる。壁に叩きつける。そして燃える腕を車のボンネットに擦りつけて消火した。
梶原が唇を噛んだ。消火行動を取っている。本能ではない。訓練されている。
「全射手、後退! 車両から離れろ! 開けた場所まで下がれ!」
だがワーウルフは後退を許さなかった。3体が三方向から圧力をかけ、部隊を車列の間に閉じ込めていく。車に囲まれた状態では火炎放射器を使えば味方も焼く。
人型の敵も動き始めた。車列の影から、孤立した隊員に襲いかかる。暗闘の中では人間との差が絶望的に開く。暗視ゴーグル越しに一瞬見えた人影が味方か敵か判断する前に——首筋に牙が突き立てられた。
その中に——田中修がいた。元SAT副隊長。かつては梶原と同じ側にいた人間。特殊作戦群の戦術を熟知している。どこに射線の死角があるか。どこが火炎放射器の射程外か。どう動けば隊形を分断できるか——その全てを知っている男が、今は敵として暗闇に潜んでいた。
梶原は、見えない指揮官の存在を感じ取っていた。ワーウルフの動きが統率されている。人型の敵の攻撃タイミングが揃いすぎている。誰かが全体を統制している。
「無線が——」
通信担当が叫んだ。
「無線に異常はありません。だがワーウルフの動きが連携しすぎている。通信手段不明の指揮系統が機能しています」
念話。人間側がその存在を知る術はなかった。
開始10分。地下の損害——ワーウルフ全3体健在。人型の敵も全員健在。人間側は感染者8名、死亡0名。死亡がゼロなのが不気味だった。敵は殺さずに噛みつくだけだ。それが何を意味するのか——30分後に分かる。火炎放射器5基喪失。
午前10時05分。エントランスホール。
鳥居の第2部隊100名が、正面エントランスから突入した。
天井高20メートルの吹き抜けロビー。天窓のガラスパネルから日光が降り注ぎ、大理石の床が白く輝いている。
鳥居は思った。ここは明るい。日光が味方だ。敵勢力は深夜帯でのみ活発化している。吸血鬼にとっては最悪の環境になるはず——
受付カウンターの背後の暗がりに、人影が7つ。
そのうち2名が、日陰と日向の境界線に立っていた。漆黒の髪に深紅の瞳。もう一人は暗紫の瞳にウェーブした髪。人間の外見。だが目の色が人間ではない。首元にお守りのようなものが下がっている。
左側の女が——ゆっくりと境界を越えた。
日光が青白い肌を直接照らした。肌がわずかに赤みを帯びる。だがそれだけだ。煙も上がらない。苦痛の表情もない。
日光の下に、平然と立っている。
「日光が効いていない——」
鳥居の隣にいた通信担当が呟いた。
鳥居は直感的に理解する。知っていたのだ。首元に下げられたお守りのような物体のことを。ダンジョン産のアーティファクト。ブリーフィングにはなかった情報である。日光が弱点という推測自体が間違っていたのか、はたまた護符が弱点を打ち消しているのか。そこまでは分からないが、少なくとも相手は日光下でも問題なく動ける。
リリスの右手から血が滲み出した。それは重力に逆らって空中で蠢き、凝固し、刃渡り1メートルの紅い剣の形を成した。報告書にはなかった未知の能力——血の結晶化。
「来なさい」
リリスの声は静かだった。
「火炎放射器、集中砲火」
鳥居は冷静に命じた。あくまで日光が弱点というのは、断片的な情報から基づく推測でしかなかった。日中も問題なく動けるという状況は想定済み。彼の12年の経験が声を平坦に保たせた。
火炎放射器10基が一斉に炎を噴射した。高温の特殊燃料が空気を歪ませ、酸素を奪いながらリリスに殺到する。
リリスの身体が——消えた。
一瞬で。炎が到達する寸前に、固体から気体への変化が完了していた。赤黒い霧が炎の奔流の中を漂う。炎は霧を焼けない。固体が存在しないのだから、燃やすべきものがない。特殊燃料が霧を通過し、背後の大理石の床に飛散して燃え続けた。
霧が火炎放射器班の背後で凝集した。
リリスが実体化する。血の剣を構え、最も近い射手の背後に立っている。
射手が背後の気配に反応して振り向こうとした——遅い。
リリスの剣が火炎放射器のタンクとホースの接続部を正確に切断した。燃料供給が断たれ、沈黙する。リリスの左手が射手の首筋に触れ——爪先から麻痺毒が注入された。射手が崩れ落ちる。
3秒。1台の火炎放射器が沈黙した。
鳥居は見ていた。10基の集中砲火を霧で回避し、背後に回り込み、3秒で1台を無力化する。SATの報告書は誇張ではなかった。——いや、報告以上だ。
リリスが次の火炎放射器に向かった。霧化。移動。実体化。切断。麻痺。霧化——
30秒で4台が沈黙した。
「散開しろ! 固まるな!」
鳥居が叫んだ。だがその時、円柱の影からカーミラが動いた。右手から血が滲み出し、長さ3メートルの鞭を形成する。しなやかだが鋼鉄以上の硬度を持つ血の結晶。
鞭が空気を切り裂いた。10メートル先の隊員の足首に巻きつき、一瞬で引き倒す。80キロの男が人形のように引きずられ、影の中に消えた。短い呻き。沈黙。
「日向に留まれ! 影に近づくな!」
鳥居の判断は正しかった。霧化する個体は防ぎようがないが、日向に留まれば護符を持たない敵の行動範囲を制限できる。実際、影の中にいる人型の敵は日向に出ようとしない。
隊員たちがロビー中央の日当たりの良いエリアに集まった。背中合わせの円陣。全方位に銃口を向ける。
だがリリスは日向でも活動できる。護符の効果で能力低下はわずか1割。残像を残すほどの速度で円柱の間を駆け抜け、火炎放射器を1台ずつ潰していく。
鳥居は観察していた。戦いながら、学んでいた。
——霧化している間は攻撃できない。つまり射撃を続ければ、あの女の攻撃頻度を下げられる。殺せなくても、遅延はできる。
「射撃を止めるな! 霧化を誘発し続けろ! 霧の間はあいつも何もできない! 時間を稼げ!」
鳥居の分析は鋭かった。隊員たちが射撃を再開する。リリスが霧化で回避するたびに、次の火炎放射器への移動が数秒遅れる。残った火炎放射器を間隔を空けて配置し直し、1台が狙われている間に他の台がリリスの実体化を待ち構える。
リリスが6台目に近づいた瞬間——
「今だ! 十字砲火!」
3方向からの同時射撃。ショットガン、ライフル、火炎放射器。リリスが霧化して弾丸を回避する——だが炎が霧の周囲の空気を灼熱化した。実体化のタイミングが0.5秒ずれる。その隙に射手が射位を移動。
鳥居は学習していた。わずか2分で霧化の特性を観察し、対策を編み出している。殺せなくても遅延させる戦術。それだけでも驚くべき適応力だった。
だがリリスには切り札があった。
円柱の影から——エントランスに配置されたワーウルフ1体が突進した。日陰から日向への直線距離5メートルを0.3秒で駆け抜け、円陣の側面に激突する。3名の隊員が吹き飛ばされ、陣形に穴が空いた。
その穴から、影に潜んでいた人型の敵が雪崩れ込んだ。5名。霧化する個体とは違い、弾丸は通る——だが人間を遥かに超える速さで動く。
鳥居が拳銃を抜き、最も近い敵の頭部に2発叩き込んだ。1発が額を貫通し、敵が崩れ落ちた。
「頭を狙え! 頭部が急所だ!」
鳥居の指揮で隊員たちが反撃した。ショットガンの散弾が敵の顔面を粉砕する。別の隊員がライフルで後頭部を撃ち抜く。2名を仕留めた。
だが残りの敵が白兵戦に持ち込んだ。至近距離では銃が使えない。味方に当たる。そして霧化する個体が——混乱に乗じて、残った火炎放射器に再び向かった。
開始10分。エントランスの損害——人型の敵2名撃破。だが霧化する2名とワーウルフは健在。火炎放射器7基が破壊され、残りは3基。人間側は感染者12名。死亡3名。
午前10時15分。仮設司令部。
久我山が3つの戦場からの報告を聞いていた。
「開始15分。感染者27名。死亡5名。火炎放射器15基を喪失——半数です」
参謀の声が震えていた。
「あと15分で最初の感染者が徘徊者化します」
久我山の表情は変わらなかった。だがペンを握る指が白くなるまで力がこもっている。
「各部隊に伝達。感染者を後方に集めろ。拘束して監視要員を配置。徘徊者化した場合——」
久我山が一瞬、息を呑んだ。
「頭部を撃て」
参謀が硬直した。
「——了解」
「そして第2部隊・鳥居に伝えろ。霧化する個体との正面戦闘を避けろ。建物の制圧に注力しろ。殺せない相手に兵力を消耗するな」
久我山はモニターを見つめた。3つの戦場の状況がリアルタイムで更新されている。
地下——ワーウルフ3体が車列を利用した戦術で火炎放射器を封じ、梶原の部隊を圧倒している。
エントランス——霧化する人型の敵に有効打がない。火炎放射器が次々と破壊されている。
屋上——ワーウルフ1体を撃破したが、元SATと見られる敵のゲリラ戦術に翻弄されている。
久我山は冷静に状況を分析した。
火炎放射器が全滅すれば、ワーウルフを止める手段がなくなる。そしてエントランスの霧化する個体は——現有戦力では殺せない。
この作戦は——負ける。
その結論に、久我山は既に到達していた。だが撤退の判断は時期尚早だ。まだ戦闘開始から15分しか経っていない。
久我山は地図盤に向き直った。
「屋上の藤堂に伝えろ。ワーウルフの撃破に成功した戦法を他の部隊に共有しろ。そして——」
久我山の目が据わった。
「第2部隊・鳥居。霧化する個体を避けつつ、非常階段から上層階に部隊を分派しろ。エントランスの保持は放棄していい。目標を切り替える。霧化できない敵——徘徊者と、人型の敵——を各階で排除し、建物を可能な限り広く確保する。霧化する個体2名に対しては、残存火炎放射器で遅延させ、追わせておけ」
参謀が目を見開いた。
「エントランスを捨てるのですか」
「守る意味がない。あの2体がいる限り、エントランスは確保できない。ならば——あの2体をエントランスに釘付けにして、その間に上層階を取る」
負け戦の中で、どこまで成果を出せるか。それが今の久我山に残された勝負だった。
午前10時25分。
最初の感染者が——目を覚ました。
地下駐車場。後方の応急処置エリア。20分前に噛まれ、拘束されていた隊員8名のうち5名が——ほぼ同時に身体を痙攣させた。
虚ろな瞳。青白い肌。拘束のロープを引きちぎろうとする力は、人間だった頃と変わらないように見える。だがそのロープは——
ぶちり、と千切れた。
兵士としての筋力は残っている。ロープ程度では拘束できない。
「後方で——感染者が覚醒! 5名! 拘束を破っています!」
監視要員が叫んだ。
梶原が振り向いた。5名の徘徊者——30分前まで共に戦っていた部下たち——が、迷彩服のまま、虚ろな目で立ち上がっていた。
「……撃て」
梶原の声は、乾いていた。
「頭を——撃て」
監視要員が照準を合わせた。スコープの中に、つい先ほど「梶原三佐、右翼クリアです」と報告してきた部下の顔がある。その目は——もう何も映していない。
引き金を引いた。
3名を処理した。だが残り2名が暗闇に紛れ込んだ。迷彩服を着た徘徊者は、暗視ゴーグル越しでは味方と判別がつかない。
「味方の中に——味方だった奴が混じってる——!」
隊員たちの声に恐怖が滲んだ。前方にはワーウルフと人型の敵。後方には元味方の徘徊者。そして今、隊列の中に紛れ込んだかもしれない2名の徘徊者——
その混乱の中で、ワーウルフが仕掛けた。3体が同時に車列の隙間から飛び出し、火炎放射器班に突撃する。混乱で射手の反応が0.5秒遅れた。その0.5秒で、ワーウルフの爪が射手の腕を引き裂いた。火炎放射器が地面に落ちる。
梶原が火炎放射器を拾い上げ、ワーウルフに向けて噴射した。至近距離。燃料が顔面に付着し、毛皮が燃え上がる。ワーウルフが悲鳴を上げて後退した。
だが致命傷ではない。車の陰に飛び込み、燃える毛皮をボンネットに擦りつけて消火する。学習している。1度目は消火できなかったワーウルフが、2度目には自ら消火行動を取る。
そして——上層階から、足音が聞こえてきた。
不規則で、ぎこちない、無数の足音。
階段から溢れ出してきたのは、30体を超える徘徊者の群れだった。元はこのビルの社員、住民、警備員——あらゆる元人間が、生者の匂いを嗅ぎつけて地下に降りてくる。
前方にワーウルフ3体と人型の敵。後方に徘徊者化した元味方。側方から大量の徘徊者——
三方向からの挟撃。
梶原は無線を握った。
「司令部、梶原。地下駐車場、三方向から包囲されている。徘徊者の増援30体以上。味方の中に感染者が混在。——それでも持ちこたえる」
梶原の声は震えなかった。レンジャー教官として、どんな状況でも声を張ることだけは教え続けてきた。
しかし——持ちこたえるとは言ったが、勝てるとは言わなかった。
同時刻。エントランスホール。
鳥居は久我山の指示を受け、作戦を切り替えていた。
「第2小隊、第3小隊、非常階段から上層階に分派。2階から順に確保していけ。第1小隊はエントランスに残り、火炎放射器で敵を釘付けにする」
残存する火炎放射器3基をエントランスに集中配置し、リリスの動線を炎で塞ぐ。殺せなくてもいい。ここに留めておけばいい。
70名が非常階段に向かった。30名がエントランスに残る。
リリスが——動いた。
非常階段に向かう部隊を追おうとする。だがエントランスの火炎放射器3基が、非常階段入口の前に炎の壁を作った。リリスは霧化すれば炎を通過できるが——実体化した瞬間に至近距離から炎を浴びるリスクがある。
0.5秒の判断。リリスは追撃を中断し、エントランスの30名に向き直った。
鳥居の狙い通りだった。
70名が非常階段を駆け上がっていく。2階。3階。各フロアには徘徊者がいたが、少数であれば対処できる。ライフルの集中射撃で頭部を粉砕し、フロアを確保していく。
だが——5階で、予想外の事態が起きた。
非常階段の踊り場に、1人の女が立っていた。
銀灰色の髪。赤い瞳。両手に血の双剣。
セレネ。始祖が投入した予備戦力の1名が、上層階から降りてきていた。
その女は——駆け上がってきた隊員の先頭に、双剣を振り下ろした。躊躇なく。
先頭の隊員の防弾ベストが縦に裂けた。赤く光る刃はケブラー繊維を紙のように切る。致命傷。
2人目が銃を構える前にセレネの蹴りが胸を捉え、階段を5段分吹き飛ばされた。
3人目がショットガンを発砲——散弾が女の身体を通過した。霧になっている。「弾が効かない、霧に——」。SATの無線断片と同じだ。これが——霧化。
女が背後で実体化し、双剣の柄で後頭部を打った。隊員が崩れ落ちる。
狭い非常階段では、数の優位が活きない。1人ずつしか交戦できない。そしてセレネの身体能力は、この狭い空間で無双の威力を発揮する。
先頭小隊の小隊長が判断した。
「後退! 階段では勝てない! 4階で防御線を構築!」
70名の分派部隊が4階のオフィスフロアに退いた。デスクとコピー機でバリケードを構築し、非常階段の出入口に射線を集中させる。
セレネは追ってこなかった。非常階段の踊り場に立ったまま、上層階への通路を封じている。抜き身の双剣が薄暗い階段室で赤く光っていた。
——通さない。
その1体だけで、70名の精鋭部隊の上階への前進を完全に阻止している。
午前10時30分。
3つの戦場すべてで、自衛隊は窮地に立たされていた。
久我山が仮設司令部で戦況を集約する。
「屋上——ワーウルフ1体撃破。だが人型の敵が3名以上健在で、ゲリラ戦を継続中。うち1名はアーティファクトと思われる護符を所持。他の個体が物陰を移動しているのに対し、その1名のみが日光下で活動している。降下完了の100名中、感染者15名、死亡4名。火炎放射器残存5基」
「地下——ワーウルフ3体健在。三方向から包囲されている。火炎放射器残存4基。感染者20名、死亡0名。——0名?」
参謀が聞き返した。
「敵が殺していないのです。噛みつきで感染させるだけで——」
「30分後に、20名の徘徊者が梶原の部隊の中から生まれる」
久我山が低く言った。殺さずに感染させる。それは慈悲ではない。30分後に味方を敵に変えるための、冷酷な戦術だ。
「エントランス——霧化する個体が火炎放射器を7基破壊。残存3基。人型の敵2名を撃破するも、霧化する2名とワーウルフ1体は健在。分派した70名は5階の非常階段で別の霧化する個体に阻止されている。——霧化できる奴が3体目です」
「3体……」
「さらに。各戦場に徘徊者の増援が流入し始めています。合計100体以上」
久我山は目を閉じた。
開始30分。感染者累計47名。死亡7名。火炎放射器残存12基。そして敵は——霧化する個体が少なくとも3体。ワーウルフ3体が健在。人型の敵が多数。
まだ撤退は早い。だが——
「参謀。生還ルートの確保を命じろ。各部隊に、撤退時の退路を今のうちに確保させる」
勝てなくても、兵を生きて帰す。それが久我山の最後の責任だった。
六本木ヒルズ、30階。
ヘカテが各戦場の状況をモニターに表示していた。バッテリー駆動のノートPC。画面には、彼女が構築した通信ネットワークの全体図が映っている。
「地下:ワーウルフ3体健在。転種5名健在。人間側は混乱状態。感染者の徘徊者化が始まっています」
「エントランス:リリスとカーミラが火炎放射器をほぼ制圧。ワーウルフ1体が陣形破壊に成功。転種2名を失いましたが——」
「屋上:ワーウルフ1体喪失。転種2名喪失。ただし岡田、渡辺、高橋の3名が健在で、ゲリラ戦を継続中」
始祖が窓際の椅子に座ったまま頷いた。
「……セレネハ……」
「5階の非常階段で70名の部隊を止めています。1人で」
「……エリザベートハ……」
「待機中です。屋上への増援が必要ですか」
始祖が首を振った。
「……マダ……早イ……」
「……徘徊者ヲ……モット……送レ……」
ヘカテが頷いた。
「了解しました。各階の残存徘徊者を3つの戦場に追加投入します」
始祖の深紅の瞳が、窓の外を見た。封鎖線の向こうに仮設テントが見える。あの中で、人間の指揮官が必死に判断を下しているはずだ。
始祖はその指揮官を知らない。だが——命令を下す者の孤独は、理解していた。
「……立派ナ兵士タチダ……」
始祖が呟いた。
「……ダガ……勝タセルワケニハ……イカナイ……」
戦闘は、まだ終わっていなかった。




