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血を与えたら進化しすぎた件~世に出回るアーティファクトも東京に出来たダンジョンも多分俺のせいだけど面白いからいいよね~  作者: 唯之助


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第20話「夜の城」

 六本木ヒルズ、45階。


 深夜1時。かつてオフィスフロアだった空間は、吸血鬼の作戦室に変わっていた。デスクは壁際に押しやられ、中央のテーブルには六本木ヒルズの構造図と東京の地図が広げられている。構造図にはフロアごとの防衛配置が赤いマーカーで書き込まれ、地図には封鎖線の位置と監視カメラの配置が記されていた。


 蝋燭の炎が揺れている。電力は遮断されて久い。だが吸血鬼には暗視が効く。蝋燭は雰囲気のためではなく、テーブル上の紙資料を転種に読ませるためだ。


 田中修が、地図の上に指を走らせた。


 元SAT副隊長。38歳——もう年齢に意味はない。リリスの血で転種となった身体には、10年以上の特殊部隊経験と、吸血鬼の知覚能力が融合している。人間だった頃よりも視力が上がり、聴覚が鋭くなり、分析の速度が増した。だが思考の癖——敵の立場に立って作戦を読む習慣——は、人間の頃と変わらない。


「封鎖線の動向について報告します」


 田中の声に、部屋にいた全員の視線が集まった。


 純種5名——リリス、カーミラ、セレネ、ヘカテ、エリザベート。


 転種から選抜された3名——田中のほか、同じくSAT出身の岡田と渡辺。4名のうち高橋が外壁警備に出ているため、ここには3名。


 そして——部屋の奥、窓際の椅子に座る始祖。変態は80パーセントに達している。体表のキチン質はほぼ消え、頭部の輪郭は人間の女性に近づいていた。まだ耳が尖り、瞳孔は縦に裂けているが、暗がりなら人間と見分けがつかない。


「封鎖線の兵力は、ここ数日で変化しています。表面上は170名前後で推移していますが——配置のパターンが変わった」


 田中が地図の3箇所を指した。


「従来は封鎖線上に均等配置でした。それが3日前から、特定のポイントに兵力が集中し始めている。地下駐車場の出入口付近、エントランス正面、そして——北側の空地。ヘリコプターの離着陸が可能なエリアです」


「屋上からの侵入を想定しているということ?」


 リリスが確認した。


「はい。地下、エントランス、屋上——3方向からの同時侵入。SATの時はエントランスと地下の2方向でしたが、今度は違う。封鎖線の動きから逆算すると、特殊作戦群——SAT時の10倍以上の兵力を投入してくる」


「数は」


「配置から推定して200名から300名。投入は日中になるはずです。敵が我々の日光という弱点を知っているかは分かりませんが、夜間に来る理由がない。午前10時前後——太陽が十分に高い時刻が最も可能性が高い」


 田中が一呼吸置いた。


「そしてもう一つ。搬入される物資の中に、燃料タンクの形状に一致する容器が複数確認されています。社会浸透組の転種が封鎖線付近を通過した際に目視した情報ですが——」


「火炎放射器」


 セレネが低い声で言った。銀灰色の髪の下で、目が鋭く細められている。ワーウルフの管理は彼女の担当だ。


「まず間違いないでしょう。ワーウルフの再生能力への対策として、焼却を狙ってくる。軍事用の特殊燃料は粘性が高く、対象に付着して長時間燃焼します。蝋燭の炎とは比較にならない」


 セレネの拳が白くなるまで握り締められた。5体のワーウルフ。彼女が管理し、訓練してきた獣たち。


「ワーウルフの対策は」


「閉鎖空間で戦わせることです」


 田中が構造図に切り替えた。


「地下駐車場は天井が低く、車両が密集している。この環境で火炎放射器を使えば、ガソリンタンクへの引火リスクがある。人間側も無制限には使えません。ワーウルフは車両を遮蔽物にして炎を避け、火炎放射器の射手を最優先で排除する。——これが最善策です」


「車の陰から出るな、炎を持つ人間を真っ先に潰せ。この2つを叩き込む」


 セレネが頷いた。


 田中が防衛配置の全体図を示した。


「提案する防衛配置は以下の通りです」



 地下駐車場:ワーウルフ3体、転種5名

  →日光の届かない環境。近接戦闘力で圧倒

  →車両を盾に炎を回避、射手を最優先排除


 エントランス:リリス、カーミラ(純種2名)、転種5名、ワーウルフ1体

  →日光が差し込むが護符で対処

  →純種の霧化能力で火炎放射器を無力化

  →ワーウルフ1体を日陰に伏せ、突出した隊員を奇襲


 屋上:ワーウルフ1体、転種5名(うち元SAT2名を含む)

  →日光が最も強い環境。給水塔・空調設備の影を利用

  →元SAT転種の戦術知識でゲリラ戦を展開

  →護符を1個、最も戦闘力の高い転種に配布


 予備戦力(30階):始祖、セレネ、ヘカテ、エリザベート(純種3名)

  →戦況に応じて最も危険な戦場に投入

  →徘徊者200体以上を各階に配置、始祖の指示で一斉投入



 リリスが配置図を見つめた。


「屋上に純種がいないのが気になるわね」


「はい。屋上は日光が最も強い戦場です。護符なしの純種を配置しても、能力が大幅に低下する。むしろ——」


 田中が岡田を見た。


「元SATの岡田と渡辺を屋上に配置します。二人はSAT時代に屋上制圧訓練を繰り返している。建物の屋上での戦い方を身体が覚えている。転種化で身体能力は人間の5倍以上に向上していますし、屋上の遮蔽物を使った待ち伏せ戦術なら——」


 岡田が口を開いた。元SATの無骨な男。転種になってなお、寡黙で実直な性格が残っている。


「問題ありません。給水塔の影からなら射線を3方向に取れます。ロープ降下中の敵は空中で無防備です。降下を始めた瞬間に仕掛ければ、着地前に半数を無力化できる」


「護符は1個、岡田に渡す」


 リリスが決定した。


「日光下で自由に動ける転種が屋上に1名いるだけで、戦術の幅が変わる。岡田、お前に任せる」


「了解しました」


「あと——渡辺は屋上に上がってくる隊員の動線を読め。お前はSAT時代、ヘリからのラペリング降下を何度もやっている。降下ポイントの選定パターンを知っているはずだ」


 渡辺が頷いた。


「降下ポイントは風向きと障害物で決まります。北風なら南東の空地、南風なら北西。当日の風向きが分かれば、着地点を特定できます」


「当日の朝、ヘカテが風向きを確認する。屋上チームに即座に伝達する」


 ヘカテがタブレットに記録した。


「通信手段を確認しておきます。屋上チームとの連絡は——」


「念話で」


 リリスが言った。


「岡田と渡辺は私が転種化した。私との念話が可能よ。戦場では無線は傍受される。念話なら傍受の心配はない」


 念話。純種同士、および始祖と純種の間で使える精神的な通信。そして——転種は、自分を転種化した「親」の純種と念話で繋がることができる。田中、岡田、渡辺、高橋の元SAT4名は全員リリスが転種化した。リリスとの念話が可能だ。


「各戦場の転種リーダーとの通信は、すべて私が担う。エントランスは私自身が前線にいるから問題ない。地下はセレネが投入された時点でセレネ経由。屋上は岡田経由。——30階の指揮所からの全体統制はヘカテが担当」


「ヘカテとの連絡は?」


「念話で私に伝え、私がヘカテに直接伝える。あるいはヘカテ自身が純種間念話で各戦場の状況を把握する」


 田中が補足した。


「従来の無線と比較して、念話には3つの利点があります。傍受不能。電波妨害の影響を受けない。そして——送信に手が要らない。戦闘中でも通信できる」


「欠点は」


「範囲が限定される。純種同士か、親子関係のある転種とのみ。それ以外の転種同士では使えません。一般の転種への指示は、口頭か手信号になります」


 リリスが全員を見回した。


「迎撃態勢はこれで固める。田中、配置の細部を詰めてちょうだい。各戦場の転種リーダーには明日の夜、直接ブリーフィングする」


「了解しました」



 田中と岡田、渡辺が退室した後——純種5名と始祖だけが残った。


 リリスが、声のトーンを変えた。


「ここからは、長期の話をします」


 全員が居住まいを正した。


「奪還作戦を撃退できたとして——その後のことを考えなければならない」


 エリザベートが口角を上げた。


「ようやくその話になるのね」


「ええ。以前からエリザベートが提案していた拡散戦略。私も必要性は認めている。一箇所に集中している限り、サーモバリック弾頭一発で全滅するリスクがある。田中も同じ指摘をしている」


「では——」


「ただし」


 リリスが釘を刺した。


「順序がある。まず目の前の戦いに勝つ。勝ってから散る。戦力を分散させた状態で大攻勢を受ければ、各個撃破される」


 エリザベートが少し黙った。


「——それは、分かっているわ」


「分かっているなら良い。全ては奪還作戦を撃退した後、そこで初めて、外に出す純種を決める。封鎖線の外に配置し、社会浸透の基盤を構築する。転種を増やし、拠点を確保し、護符の調達ルートを確立する」


「その役目は——」


 エリザベートの赤い瞳が光った。


「私がやるわ。以前からそのつもりだった」


 リリスが微かに笑った。


「知っている。お前は、5人の中で最も外向きで、最も野心的。人間社会への浸透能力も高い。——だから、奪還作戦では命を惜しみなさい。死なれては困る」


「リリスに心配されるとは思わなかったわ」


「心配ではない。投資の保全よ」


 カーミラが肩をすくめた。


「相変わらず、二人とも感情表現が下手ね」


 セレネが無言で頷いた。


 始祖が、静かに口を開いた。


「……散ルコトハ……必要ダ……」


 片言の声が、部屋に落ちた。


「……ダガ……リリスノ言ウ通リ……マズ……勝テ……」


「……勝ッテカラ……散レ……」


「……一箇所ニ留マレバ……イツカ……滅ボサレル……」


「……世界ニ……根ヲ張レ……人間ガ気ヅイタ時ニハ……手遅レニナル……ヨウニ……」


 始祖の深紅の瞳が、子供たちを見渡した。


「……ダガ今ハ……全員デ……コノ城ヲ守レ……」


「はい、母」


 リリスが頷いた。


「全員で守ります。そして——勝った後に、散ります」


 ヘカテがメモを取った。


「奪還作戦後の拡散計画。第一段階として東京都内の拠点分散——社会浸透組の転種を通じたセーフハウスの確保。第二段階として日本国内の主要都市への転種派遣。第三段階として純種を外部配置し、海外展開の足がかりを作る。——これを草案として記録しておきます」


「その通り。計画は今のうちに詰めておく。実行は、勝ってからよ」



 会議が終わり、純種たちが散っていく。


 カーミラが田中を呼び止めた。


「田中。一つ確認する」


「何でしょうか」


「お前たち元SAT——4名は、サンライズで前線に立つ。人間だった頃の仲間と戦うことになるかもしれない。特殊作戦群に知り合いもいるだろう」


 田中の表情は変わらなかった。


「……分かっています」


「動揺はない?」


「ありません。転種化した時点で、あちら側の人間は——もう仲間ではありません」


 カーミラが田中の目を見た。深紅の瞳。だがその奥に、確かに人間だった頃の記憶が残っている。


「嘘が下手ね」


「……」


「動揺があるならあるで構わない。ただし、それを理由に判断を誤るな。お前たち4人の戦闘経験と戦術知識は、サンライズの勝敗を左右する。それだけの責任がある」


「了解しました」


 田中は一礼して去った。


 カーミラは一人、窓の外を見た。封鎖線の装甲車のライトが、夜の六本木を照らしている。


「……数日か」


 呟いた。


 自分が血の鞭でなぎ倒すことになる人間たちは、今頃、仮設テントで最後の確認をしているのかもしれない。写真を見つめているかもしれない。家族に電話をかけているかもしれない。


 カーミラは目を閉じた。


 情けはかけない。だが——相手が命がけで来ることだけは、忘れない。



     



 深夜3時。54階の窓際。


 始祖が、一人で夜を見ていた。


 封鎖線の向こうで、装甲車のエンジンが低く唸っている。自衛隊員が資材を運び込んでいるのが見えた。始祖の瞳には、人間の視力では捉えられない距離の兵士の表情まで映っている。


 緊張した顔。覚悟した目。装備の確認を繰り返す手つき。


 彼らは——来る。


 リリスが近づいた。足音を立てずに。


「母。お休みにならないのですか」


「……眠レナイ……」


「身体は」


「……問題ナイ……変態ハ……進ンデイル……ダガ……産卵ノ余力ハ……マダ……ナイ……」


「変態完了が先。産卵はその後に。——了解しています」


 始祖が微かに笑った。口元の筋肉はまだ不器用だが、笑みの意図は伝わった。


「……リリス……」


「はい」


「……私ハ……前線ニ出テモ……足手マトイダ……」


「分かっています」


「……ダガ……見テイル。ココカラ……全テ……見テイル……」


「はい。母が見ていてくださるだけで——私たちは安心できます」


 始祖が窓の外を見た。東の空は、まだ暗い。


「……オ前タチナラ……勝テル……」


「はい」


「……勝ッタラ……散ラセル。エリザベートヲ……外ニ……」


「はい。勝ったら」


「……約束シロ……」


「約束します」


 静かな夜だった。嵐の前の、最後の静寂。


 始祖は窓辺に佇んだまま、夜明けを待った。


 子供たちが戦う。自分はそれを見守る。


 それが——今の始祖にできる、すべてだった。



     



 墨田区向島。


 住宅街の外れ、行き止まりの路地の奥に、その空き家はあった。


 築40年の木造2階建て。外壁には蔦が這い、庭は雑草に覆われている。門扉は錆びて半開きのまま固定されていた。人間がここに住んでいた痕跡は、もうほとんど残っていない。代わりに——天井の梁から壁の隅まで、銀色がかった蜘蛛の糸が張り巡らされている。


 宍粟真央は、1階の畳の上に寝転がりながらスマホで掲示板を読んでいた。自分のアパートから徒歩5分の、アラクネの巣。真央にとっては居間の延長みたいなものだ。畳は湿気ているし、電気は通っていないが、特に問題はない。


 午後11時。窓の外は暗い。向島の街灯は寂しくなった。夜間の外出を控える人が増えてから、商店街のシャッターは早く下りるようになり、コンビニの看板だけが通りを白く照らしている。



 東京ダンジョン攻略スレ Part 84


 112:名無しの冒険者

 六本木の封鎖線、自衛隊増えてないか?

 今日通りかかったら装甲車の台数が先週の倍になってた


 134:名無しの冒険者

 >>112

 マジ? また作戦やるのかよ

 SATの二の舞になるだけだろ


 156:名無しの冒険者

 SATと自衛隊は別物だぞ

 特殊作戦群なら火力が桁違い


 178:名無しの冒険者

 何やっても勝てないだろ

 霧になるかもしれない化け物に銃で勝てるわけがない


 201:名無しの冒険者

 >>178

 銃が効かなくても火なら効くかもしれない

 ワーウルフは生き物だ。焼けば死ぬ

 問題は霧になると言われてる方だけど

 あれに対抗する手段があるかは分からない


 223:名無しの冒険者

 話変わるけどアーティファクト犯罪ヤバくないか

 昨日のニュースで魔弾銃使った強盗出てた

 防弾ガラスごと貫通したらしい


 245:名無しの冒険者

 破壊のバット持った暴漢に冒険者が襲われた動画見たわ

 車のドアが紙みたいにへこんでた


 267:名無しの冒険者

 政府がアーティファクト取引規制法作ったけど

 ダンジョンの中で取引されたら取り締まりようがない

 地上に出たらただの棒と棒の区別がつかないんだから


 289:名無しの冒険者

 もう無法地帯だよ

 冒険者同士で組合みたいなの作ったほうがいいんじゃないか

 互助制度とか保険とか 事故った時に助け合える仕組み


 312:名無しの冒険者

 >>289

 誰がまとめんだよ

 利害が一致しないだろ

 ソロで稼いでる奴は会費なんか払いたくないし


 334:名無しの冒険者

 >>312

 ソロで稼いでる奴が事故ったら誰も助けてくれないんだぞ

 ダンジョン内で怪我して動けなくなったらそのまま死ぬ

 保険がないから遺族には何も残らない

 組合は必要だと思うけどな


 356:名無しの冒険者

 今日フェロモン中毒で搬送された奴見たわ

 ダンジョンの入口の前でうずくまって震えてた

 目が虚ろで完全にキマってる感じだった

 声かけても反応しない


 378:名無しの冒険者

 >>356

 中毒者増えすぎだろ

 病院が足りないって聞いた

 隔離施設も満杯


 401:名無しの冒険者

 ダンジョンも吸血鬼もグールも中毒も犯罪も全部同時に来てる

 しかも、東京だけで起きてるのが不気味だわ

 まぁ、でも流石に全部裏で繋がってるっていうのは穿ちすぎだな

 はいはい、陰謀論って感じ


 423:名無しの冒険者

 >>401

 陰謀論かもしれないけど

 全部の起点が東京に集中してるのは事実だろ

 巨大蟻、ダンジョン、グール、吸血鬼

 これ全部、半年と経たずに起きた出来事だぞ


 445:名無しの冒険者

 >>423

 だとして「誰が仕組んだ」って話になるだろ

 ダンジョンは蟻が作ったし吸血鬼は突然現れた

 黒幕がいるとしたら何者なんだよ


 467:名無しの冒険者

 宇宙人だろ(適当)


 489:名無しの冒険者

 >>467

 笑えない冗談やめろ

 マジで世界が終わりそうな時に



 真央はスレッドをスクロールしていた。


 「全部の起点が東京に集中してるのは事実だろ」


 その投稿で、スクロールする指が一瞬止まった。


 蚊のことが、頭をよぎった。


 あの夜。蚊に血を吸われた。その蚊がどうなったかは知らない。確かめる気もない。仮にあの蚊が吸血鬼の始まりだとして——何が変わるわけでもないし。


 指がスクロールを再開した。


 掲示板に戻る。中毒者の報告。犯罪の増加。組合の提案。そして「東京が不気味だ」という漠然とした不安。


 すべてが、画面の向こう側の出来事だった。


「……ウン……ナンカ……キナクサイ」


 頭上からアラクネの声が降りてきた。2階の梁の上に蜘蛛の下半身で張り付き、人間型の上半身を逆さまにぶら下げている。8つの赤い目が暗がりの中で光っていた。ここはアラクネの巣だ。天井を我が物顔で歩き回るのは当然のことだった。


「きな臭いって、何が」


「……パトカー……サイレン……マイニチ……フエテル」


「ああ。最近毎晩鳴ってるな」


 向島の日常が変わっている。夜間営業を短縮するコンビニ。シャッターを早く下ろす商店街。この路地の周辺も、住人が減った。2軒先の家は先週引っ越していった。路地裏で徘徊者が目撃されたという噂もある。


「大変だなあ」


 真央は他人事のように呟いた。


 スマホの通知が鳴った。ニュースアプリ。


 『六本木ヒルズ周辺、封鎖強化——自衛隊の増援部隊が到着か』


 その見出しを読んで、真央はふっと息を吐いた。


「もうすぐ奪還作戦かあ」


「……オヤ……ダイジョウブ?」


「ん? 何が」


「……セカイ……タイヘン……ナノニ……オヤ……ヘイキ……ナノ」


 真央はアラクネを見た。8つの赤い目が、心配そうにこちらを見ている。人間ではない。蜘蛛から生まれた異形。それが——心配している。


「平気だよ。俺には関係ないし」


「……ホントニ?」


「うん、ほんとに」


 真央はスマホを畳の上に置いた。画面には封鎖線の空撮画像。自衛隊の車列が六本木ヒルズを取り囲んでいる。


 仰向けに寝転がり、目を閉じた。


 世界は嵐の前だ。自衛隊が動き、吸血鬼が備え、社会が軋みを上げている。


 そのすべての起点にいる青年は、何も感じず、何も考えず、ただ眠りに落ちようとしている。


「……まあ、どうなるか楽しみだな」


 呟いた。天気予報を聞くような温度感で。


 アラクネは何も言わなかった。梁の上に戻り、真央の寝顔を見下ろした。8つの赤い目が、暗闇の中で静かに光っている。


 空き家の畳の上で、真央は眠りに落ちていく。アパートのベッドより硬いが、気にしたことはない。蜘蛛の糸が張り巡らされた異形の巣で眠る人間。それが宍粟真央の日常だった。


 窓の外で、遠くからヘリコプターの音が聞こえた。六本木の方角。回転翼の低い唸りが、夜の空気を震わせている。


 真央には聞こえていなかった。



     



 六本木ヒルズ。午前4時。


 高橋が、外壁の巡回から戻ってきた。


 元SAT。4名の中では最も寡黙な男だ。転種化する前は突入班のポイントマン——最前列で扉を蹴破る役——を務めていた。口数は少ないが、危険を嗅ぎ取る嗅覚は4名の中で最も鋭い。


 リリスの居室に入り、報告した。


「外壁巡回を完了しました。異常はありません。ただ——」


「何かあった?」


「封鎖線の北東セクターで、通常と異なる動きがありました。装甲車が1台、エンジンをかけたまま20分間停車していた。乗員が降りて何かの作業をしていましたが、距離があって詳細は確認できません。——何かを設置していた可能性があります」


「センサーか、カメラか」


「あるいは通信の中継器です。突入時の通信網を事前に構築している可能性がある」


 リリスが頷いた。


 念話が飛んだ。


 《リリスから田中へ。北東セクターに通信中継器の設置疑い。高橋が確認。突入時の通信網を構築している可能性》


 《田中からリリスへ。了解。予想通りの動きです。突入時の指揮通信系統を事前に整備するのは標準手順。——作戦は近いです》


 リリスは高橋を見た。


「高橋。お前は屋上の転種チームに入る。岡田と渡辺と共に」


「了解しました」


「お前の仕事は、敵の降下ポイントを予測して待ち伏せること。SATの突入訓練で得たパターンを、そのまま防御に転用しなさい」


 高橋が微かに目を伏せた。


 SATの突入訓練。自分がポイントマンとして、何度も繰り返した手順。扉を蹴破り、フラッシュバンを投げ込み、突入する。その訓練を——今度は、突入してくる元仲間を迎え撃つために使う。


「……了解しました」


「迷いはある?」


「ありません」


 高橋の声は、平坦だった。


 リリスはそれ以上聞かなかった。迷いがあるかないかは、戦場で分かる。


 高橋が退室した後、リリスは窓の外を見た。


 封鎖線の向こうに、東京の夜景が広がっている。灯りが減った街。人が逃げた街。それでもまだ——星よりは明るい。


 念話が飛んだ。遠い場所から。


 《エリザベートからリリスへ。社会浸透組の松田から報告。アプリ経由で護符を1個追加調達。これで一族の保有護符は7個》


 《リリスからエリザベートへ。了解。サンライズまでに護符の配分を最適化する。新しい1個は屋上チームに回す可能性が高い》


 《了解。——リリス、あと何日?》


 《数日。田中の分析では、早ければ明後日》


 《……勝ちなさいね》


 《勝つわ》


 念話が途切れた。


 リリスは目を閉じた。


 4名の元SAT。人間だった頃の仲間と戦うかもしれない男たち。彼らの中にある葛藤を、リリスは知っている。念話で繋がっているから。完全に読み取れるわけではないが——感情の揺らぎは、微かに伝わってくる。


 だがリリスは、それを口にはしない。


 戦場で問われるのは結果だけだ。元SAT4名が——田中の分析力、岡田の射線支配、渡辺のパターン予測、高橋の嗅覚——をすべて発揮すれば、このビルは守れる。


 リリスは確信していた。


 護符は7個。純種は5名。転種は15名。ワーウルフは5体。グールは300体以上。


 そして——人間の精鋭が転種として味方にいる。


 負ける気はなかった。


 窓の外で、東の空が僅かに白み始めていた。

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