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第2話「実験と、夜の住人」

 翌朝。


 俺は目覚まし時計より早く目が覚めた。


 こんなことは珍しい。いつもは三度目のスヌーズでようやく布団から這い出すのに、今日は一度で起きた。身体が軽い。頭が冴えている。昨日の倦怠感が嘘のようだ。


 蚊に刺された跡は、まだ残っている。だが痒みはほとんど引いていた。


「さて」


 ベッドの上で上半身を起こし、部屋を見渡す。


 昨日の実験の痕跡が散らばっていた。真っ二つになったまな板。プリンのように貫かれた木製テーブル。インク切れだったはずなのに鮮やかな線を残したチラシの裏。


 どれも、夢じゃなかった証拠だ。


 俺の血は、物を変える。


 その事実を改めて確認し、俺は口元が緩むのを自覚した。


 昨夜、眠る前に考えていたことがある。


 物体に対する実験は、一通りやった。結果は上々。ルールもだいたい掴めた。


 なら、次のステップは一つしかない。


「生物に、試す」


 物体なら、ここまで劇的に変化した。


 じゃあ、生物は? 昆虫とか。動物とか。


 ――あるいは人間とか。


「いや、人間はさすがにまずいだろ」


 首を振る。倫理的にも、法的にも。でも、昆虫くらいなら……。


 俺は立ち上がり、部屋を見渡した。


 虫、虫……。窓の隅に、小さな蜘蛛がいた。


「……いや、もうちょっと大きいやつがいいな」


 変化が分かりにくい。せっかく試すなら、はっきりと結果が見えるものがいい。


 俺は部屋を出た。外に出れば、何かいるだろう。



 アパートの外に出ると、夜の空気が肌に心地よかった。


 ――昨日は一日中実験に没頭していたから、気づけばもう夜だ。


 街灯の光が地面を照らしている。その下を歩きながら、俺は地面に目を凝らした。


 蟻、ダンゴムシ、蛾……。どれも小さすぎる。変化が分かりにくい。


 もっと大きくて、分かりやすいやつがいい――。


 そう思った時、視界の端に何かが動いた。


「ん?」


 立ち止まる。アパートの駐車場の隅。街灯の光が届かない、暗がりの地面。


 そこに、何かがいた。俺はゆっくりと近づく。


 ――蟻だ。


 でも、普通の蟻じゃない。やたらと大きい。というか、やたらと長い。体長は1センチ以上ある。腹部が異様に膨らんでいて、動きが遅い。


「これ……女王蟻か?」


 思わず声が出た。女王蟻なんて、そうそう見られるもんじゃない。巣から出てくるのは、繁殖の時期だけだ。しかも、こんな近くで。


「ラッキー」


 俺はスマホのライトで照らした。間違いない。羽が取れた跡がある。これは確実に女王蟻だ。


 ポケットから、魔道具化した万年筆を取り出す。ペン先が鋭いから、指先を軽く刺すのにちょうどいい。


 チクリ。赤い雫が浮かんだ。


 そして――。


 ポタリ、と女王蟻の背中に、血の雫が落ちた。


 数秒間、俺は息を止めて観察した。女王蟻は動きを止めている。


 死んだ? いや、違う。


 触覚が微かに動いている。でも、変化はない。巨大化もしない。色も変わらない。


「……あれ?」


 首を傾げる。物体ならすぐに変化したのに。生物は違うのか? それとも、もっと血が必要?


 俺はもう一滴、血を垂らそうとした。


 ――その時だった。


 女王蟻が、動き出した。ゆっくりと。だが確実に。地面を這い、暗がりの奥へと進んでいく。


「おい、待て――」


 手を伸ばしたが、間に合わなかった。女王蟻は、駐車場の隅にある小さな隙間に消えていった。コンクリートの裂け目。指も入らないような狭い場所。


「……マジかよ」


 俺は膝をついて、隙間を覗き込んだ。真っ暗で、何も見えない。スマホのライトで照らしても、奥まで届かない。


「逃げられた……」


 ため息をつく。まあいい。もう一匹探せばいいだけだ。この時期なら他にも女王蟻がいるはず――。


 ――甘かった。


 結局、その後30分ほど探したが、女王蟻は一匹も見つからなかった。


 俺は諦めて、部屋に戻った。


 まあいい。生物実験は、また今度にしよう。そう思いながら、ベッドに倒れ込んだ。


 ――あの一滴で、何か変わったのだろうか。


 少しだけ気になったが、すぐに眠気が勝った。


 蟻一匹に血を一滴。


 たったそれだけのことだ。大したことにはならないだろう。


 そう思いながら、俺は二度目の夜を終えた。





 駐車場の隙間に消えた女王蟻は、地中を進んでいた。


 本能が告げている。ここではない。もっと、静かな場所。もっと、深い場所。


 地面の下を、ひたすらに掘り進む。普段なら疲労で動けなくなるはずだった。


 だが、身体に力が満ちている。温かい。濃い。


 赤い液体が、身体の奥で脈打っている。変化が、始まっている。


 ――だが、それはまだ表には現れない。


 ゆっくりと。確実に。女王蟻は地中を進み続けた。


 住宅地を抜け、道路の下を通り、公園を越え――。


 やがて、人気のない場所へと辿り着いた。


 廃工場の跡地。数年前に閉鎖され、今は誰も立ち入らない場所。雑草が生い茂り、フェンスが錆びついている。


 ここだ。


 女王蟻は、地中深くに穴を掘り始めた。


 産卵の準備。新たな巣の、礎。


 そして――変化が、加速する。





 同じ夜。


 真央が眠りに落ちた頃。


 都内のどこか。住宅街の一角。


 街灯の切れ目にできた、黒い空白のような路地。


 そこを、一人の男が歩いていた。


 仕事帰りだった。ネクタイは緩み、シャツは汗で背に張り付いている。片手にはコンビニ袋。中では缶ビールが小さく触れ合い、かすかな音を立てていた。


 疲れていた。だから気付かなかった。


 自分の背後に、もう一つの「気配」があることに。


 それは最初からそこにいた。街灯の光が届かない壁際に、細長い影のように貼り付いている。


 動いていないのに、そこだけ闇が濃い。


 いや――違う。


 闇が、その形を避けていた。


 濁った複眼が、男を捉える。


 熱。鼓動。皮膚の下を流れる、温かな液体。


 理解ではない。本能でもない。


 それはもっと原始的な――衝動だった。


 血。


 湿った羽が、かすかに震える。


 音は出ない。出せない。


 狩りとは、本来そういうものだからだ。


 男が足を止めた。首筋を掻く。


「……蚊か?」


 首筋を掻いた指先に、わずかな湿り気が触れた。血ではない。汗でもない。ぬるい、何か。


 男は眉をひそめ、指先を街灯の下にかざした。透明だった。


「……気のせいか」


 再び歩き出そうとした、その瞬間だった。


 背後の闇が――剥がれた。


 音はない。風すら動かない。


 ただ、距離だけが消えた。


 それはすでに男の背後に立っていた。あまりにも自然に。あまりにも滑らかに。まるで最初からそこに存在していたかのように。


 複眼が、首筋を見下ろす。


 皮膚の下を流れる血の位置が、透けて見えているかのようだった。


 口吻が開く。先端が花弁のように裂け、内部の細い管がわずかに蠢いた。


 男はまだ気付かない。


 コンビニ袋の中で、缶が触れ合う。カン、と乾いた音。


 その音にかき消されるように――


 刺さった。


 感触は、ほとんど無い。


 針よりも細く、髪の毛よりも繊細に、それは皮膚を割いた。


 男の体が、ぴくりと震える。


「……?」


 違和感だけがあった。痛みは、無い。


 すでに唾液が流し込まれている。


 強化された麻酔成分。神経の信号を遮断し、警告を発する前に沈黙させる。


 さらにもう一つ。筋肉の動きを鈍らせる微量の毒。


 そして――思考を、緩やかに濁らせる作用。


 男は、刺されたことを理解できなかった。


 ただ、妙に体が重い。足を踏み出そうとして、わずかによろめく。


「……あれ?」


 口から漏れた声は、驚くほど弱々しかった。


 その間にも、吸引は続く。


 ずるり、と内部で圧がかかる音がする。黒ずんだ腹部が、さらに膨らんだ。暗赤色の液体が流れ込み、内部でゆっくりと渦を巻く。


 体温が下がっていく。だが男は、それを寒さとして認識できない。


 ただ、眠い。異様なほどに。


「……疲れてんのかな……」


 視界が滲む。街灯の光が、滲んだ水彩のように広がる。


 助けを呼ぶ、という発想すら浮かばない。恐怖が生まれるには、脳が働いていなければならない。


 吸われている。だが理解できない。


 腹部が、限界まで膨れる。表面に細かな亀裂が走り、そこから血がにじんだ。滴り落ちたそれが、男の靴先を濡らす。


 それでも、男は気付かない。


 やがて――吸引が止まった。


 男の体から、力が抜ける。


 糸の切れた人形のように崩れ落ちる――その直前。


 口吻が、もう一度だけ深く脈動した。


 注入される。


 それは、改良された成分だった。


 血を吸い尽くしてしまった場合、獲物が「死体」であると周囲に悟らせないためのもの。筋繊維に疑似的な電気信号を送り、最低限の運動を維持させる。


 脳は機能しない。心臓も、ほぼ止まっている。


 だが――動く。


 男の膝が折れ、地面に触れた。


 数秒の静止。


 そして。


 ぎこちなく、立ち上がる。


 目は開いている。だが焦点は無い。


 唇は紫に変色し、皮膚は急速に乾いていく。


 一歩。足が前に出る。


 生きている者の歩き方ではない。関節が正しい角度を忘れたような、不自然な動き。


 それでも――歩く。


 捕食者はすでに興味を失っていた。


 満たされた腹を揺らしながら、湿った羽を震わせる。


 次を探している。


 より濃い血を。より温かい命を。


 闇の中へ溶けるように、その姿が消える。


 路地には、男だけが残された。


 いや。もう男ではない。


 それは、血を失った器だった。


 乾いた喉が、かすかに鳴る。


 意味のない呼吸を繰り返しながら、それは住宅街の方へと歩いていく。


 足取りは遅い。だが確実に、人のいる方へ。


 それが何をもたらすのか――


 まだ、誰も知らない。

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