【第3話 6】
「アップル州警察の警部殿がこんなネズミの巣穴で息子と感動の密会とは、ミュージカルより泣かせるじゃないか」
「おい、凶悪犯罪課長が殺人犯を匿っていいのか?」
「課長じゃない。俺は課長補佐だよ」と、刑事は対峙する老婆の息子に告げた。
むせ返るような濃厚なバニラの香水が、ドブの悪臭を強引に上書きしていく。
水路を照らす逆光から姿を現したのは、分厚い革張りの魔術書を胸に抱え、両指にびっしりと魔宝石の指輪を光らせる老婆――東部の裏社会で知らぬ者はいない、《氷河の女帝》の異名を持つフランソワーズ・ルブランだ。
その傍らには、濃緑の魔導槍を軽薄に肩に担ぎ、冷酷な笑みを浮かべる息子ジュリアン、そして背後には数名の武装した黒服の影が映る。
「と、父さん、こいつらは?!」
「本物のマフィア、あの老婆はグランドマダムだ。東部を牛耳るマザー・ファミリー、トルシトーロ東家のナンバー2……つまりは超大物が下水道にお出ましだ!」
「おい、俺を無視するな!」
「あいつはグランドマダムの息子、ジュリアンだ。クソクズ野郎だと覚えておけ!」
「グランドマダムに……ジュリアン?!」
今この瞬間、アインは秘密裏に個人案件で追っていた事件の巨悪さを思い知った。
敵が目の前に現れ、脂汗が止まらず、口の中が乾ききるも、即座に息子ベールを背中に隠す。
唇の端を微かに動かし、怯える息子にだけ聞こえるよう低く囁く。
「ベール、隙を見て逃げろ。いいな?!」
「と、父さんは?!」
「俺が奴らを食い止める。だから逃げろ。そして、南部の実家に行け!」
「な、なにを言って――」
「俺の代わりに事件を解決しろ。いいな?!」
「ねぇ、アップル州警察の凶悪犯罪課長……補佐さん?」
芝居がかった艶めかしい声が二人の緊迫した空気をあっさりと切り裂いた。
マダムは真っ赤な唇の端を吊り上げ、クククと喉を鳴らす。
その侮蔑に満ちた眼差しは、小綺麗な身なりをした人間に対してではなく、路地裏の隅で死にそうなドブネズミを見つめるそれだ。
「あんたが落ちこぼれの見習い魔術師から、どうやって課長補佐まで出世できたか、そのお利口な坊やに教えてあげたかい?」
アインの背中がピクリと硬直する。
「数年前、ラムアビ邸のメイドが消えた事件を嗅ぎ回っていた時、あんたは何をした?
事件を追っていた若い部下に横領の罪をなすりつけて売り飛ばしたんだよ!
『部下が捜査費を着服した』と報告書に書いて!
そして出世した。その醜いビール腹が何よりの証拠さ!」
「えっ……?!」息子の呼吸が止まる。
暗闇の中で、父の広い背中を見つめる瞳が激しく揺らいだ。
「父さんが……部下を売った?!」
「そうだよ。その部下はショックのあまり、自ら命を絶ったのさ」
「違う! お前らが殺したんだろッ!」
マダムは息子の動揺を見逃さず、獲物の急所を抉る。
「坊や、親子の血の絆なんてものはね、たった一言の疑いで呆気なく崩れ去るものさ。
あんたの親父は昔からそういう男だよ。
今回も息子をトカゲの尻尾切りにして、また手柄を立てたい。
そして、州の警察署長になるつもりだったんじゃないかい?」
「へへっ、ママの言う通りだろう? この汚ねぇ犬め!」
ジュリアンが囃し立てるも、アインは弁明しなかった。
ただ沈黙を守り、ジャケットの裏から愛用の特注魔法銃を引き抜いた。ルビーの装飾が施された無骨な銃口を、真っ直ぐにマダムの顔面へと向けた。
「……で、用件は何だよ、ババアども」
マダムの瞳が強欲に光る。
「そのガキが持っている『黒い石』を渡しな。そしたら小僧の命だけは助けてやる」
「断る!」と、父親は吐き捨てるように言った。
「交渉決裂だねぇ! ジュリアン、やっちまいな!」
マダムが魔術書を開いた瞬間、アインは迷わず引き金を引いた。
狙いは敵ではない――その頭上の太い下水本管だった!
「地獄で会おうぜ、ドブネズミどもッ!」
ズドォォンッ!!
放たれた火炎弾が暗渠に滞留していた高濃度のメタンガスへと直撃する。
爆縮ののち、猛烈な大爆発が発生する。轟音とともに赤黒い火柱が水路を埋め尽くし、マフィアたちを巻き込む。
「チッ、小賢しい火遊びを!」
だが、グランドマダムは動じない。
両手の全指に嵌めた魔宝石を一斉に怪しく輝かせ、分厚い魔術書を激しくめくる。
《絶対零度――氷柱の壁陣》
魔術書から解き放たれた絶対零度の冷気が、下水路の空気を一瞬で凍土へと塗り替える。
押し寄せるメタンガスの紅蓮の猛火が、壁面から競り上がった数十本の巨大な氷柱に激突し、火炎そのものが急速に鎮火・凍結していく。
濁流の水面までが一瞬にしてカチカチの分厚い氷板へと変わり、下水路全体が極寒の氷の洞窟へと変貌した。
「なっ……爆炎を、凍らせただと……?!」
アインが目を見張った、その決定的な刹那だった。
「余所見してんじゃねぇよ、デブ犬がああッ!!」
氷壁の背後から、ジュリアンの姿が掻き消えた。
両足に風の魔術を纏わせたジュリアンは、凍りついた水面をスケート靴のように超高速で滑空し、氷の乱反射を利用してアインの死角へと回り込んでいた。
グサッ! 「が、はっ……!?」
濃緑の魔法槍が、アインの脇腹を無慈悲に深く貫通したのだ。
「ママのドレスに汚いススを飛ばそうなんて、1万年早いんだよ!」
ジュリアンは残忍に嗤いながら魔法槍を横に薙ぎ払い、貫いたアインの巨躯を凍結した水面の上へと容赦なく投げ捨てる。
「父さんッ!」
「来るな、ベール!」
父親はその魔法銃を手放さなかった。
倒れながら火の魔術を唱え、その刺した槍の男を火のロープで捕らえ、母親のもとへとぶん投げた。
「走れ、ベールッ! 逃げるんだッ!」
父親は叫びながら魔法銃でマフィアたちを撃ちまくる。
言われた通り、息子は全力で走った。風の魔術を唱え、その場から疾風のごとく逃げる。
弾が切れた父親はベルトの安全ピンに指をかけた。1年前――最期を覚悟して特注した爆弾搭載のベルトだ。「じ、自爆はやめろーッ!」
ジュリアンの悲鳴をかき消し、圧縮爆薬が炸裂する。
――ドッッッカァァァァァァァァンッッ!!!!
だが、ベールは全速力で逃げていた。爆風がこないよう角を曲がり、壁の裏で耐えた。
そして父の最期の言葉通り、薄暗い下水道を無我夢中で疾走する――その直後だった。
刑事の自爆による衝撃で亀裂が入った下水道の頭上――コンクリートの道路が、カッと眩い紫電に染まる。地下水路の空気がバチバチと軋み、天からの怒りが降り注ぐ。
「ノブレス・オブリージュ……神の名を借りて、今宵、我が正義の裁きを下す」
クリス・ランスロットによる冷徹無比な宣告とともに、必殺の魔術が撃ち込まれる。
《雷神の爆撃》
――ズガガガガガガガッッッ、ドッッッッッッカァァァァァァンッッッッ!!!!
地上を突き破り、地下へ向けて極太の雷槍が何本も直撃した。
爆発した下水道の天井が丸ごと崩落し、粉塵と紫電の火花が吹き荒れる。
マダムは瞬時に魔術書を開き、氷結の防御魔術を展開して瓦礫と雷撃を弾き返す。
だが、落雷の凄まじい威力に氷壁が軋み、周囲は完全に崩壊の危機に瀕する。
「この雷撃はランスロット家の奥義……東部のじゃじゃ馬娘、クリス・ランスロットか!」
老獪なマダムは即座に損得を計算する。答えは一つしかない。
「ずらかるよ、ジュリアン! 軍と全面戦争なんて割に合わん!」
ジュリアンが悔しげに毒づきながら、二人は氷煙を撒いて崩落の隙間から闇へと撤退する。
雷鳴が止み、大穴からロープを伝って軍靴が降り立つ。
「ガイア帝国軍だ! この場にいる者は動くな!」
だが、軍人たちが目にしたのは、無残に砕け散った氷塊と瓦礫の山だ。
そして発見する、放水路の縁で冷たくなっていた一人の中年刑事の焦げた亡骸を――。




