第1話 婚約破棄されましたので、責任者をお呼びしますわ
「――レイベルナ・ファリス。私は今宵、この場をもって君との婚約を破棄する!」
王宮の大広間に第一王子エドガルの声が響いた。
春の祝宴。
国王夫妻が諸侯をねぎらい、各地の収穫と平穏を祝う夜も終わりに差し掛かっていた。
儀礼的な挨拶を終えた国王は隣の執務室へ、王妃は別室の茶席へ戻ってきたが、宴そのものはまだ続いていた。
天井の魔晶灯は白金色に輝き、磨かれた床には花の模様が映っている。楽団は演奏を止め、貴族たちは扇や杯を持ったまま固まり、誰もが大広間の中央を見ている。
そこにはエドガル王子がいた。
その腕には淡い桃色の髪を揺らした子爵令嬢ミレーヌ・モーントが寄り添っている。
そして、少し離れた場所にレイベルナ・ファリスは立っていた。
公爵家の長女。
第一王子の婚約者。
今日まではそう呼ばれていた令嬢である。
淡い青のドレスの裾を整え、レイベルナはゆっくり膝を折った。
「……理由を伺ってもよろしいでしょうか」
声は乱れなかった。
その冷静さが気に入らなかったのか、王子は眉を吊り上げた。
「理由だと? 自分の胸に聞くがいい。君は冷たい。可愛げがない。婚約者でありながら、私を支えるどころか書類だの規則だのと口うるさいことばかり言う!」
ミレーヌが王子の袖をそっとつかんだ。
「殿下……レイベルナ様をそんなふうに責めないでください。私のせいで……」
「君は悪くない、ミレーヌ。悪いのは君を傷つけたこの女だ」
大広間に小さなどよめきが走った。
レイベルナは目を伏せなかった。
「私がミレーヌ様を傷つけた、と」
「そうだ。君はミレーヌの家の借金を調べ上げ、帳簿を送りつけ、そして侮辱した。王子の婚約者という立場を使って、か弱い令嬢を追い詰めたのだ」
「借金の確認は王太子執務室の封蝋つき支払い保証が出回っていたためです」
「ほら見ろ! すぐにそうやって書類の話をする!」
「支払い保証は書類でございますので」
どこかで誰かが咳き込んだ。
笑いをこらえたのかもしれない。
王子の顔が赤くなる。
「黙れ! だいたい君には王子妃としての華がない。授かったスキルもただの《呼び鈴》ではないか!」
その言葉で広間の空気がわずかに緩んだ。
貴族たちの中に昔の噂を思い出した者がいたのだろう。
呼び鈴令嬢。
鈴の姫君。
鳴らすだけの婚約者。
レイベルナが一生にひとつだけ授かったスキルは……《呼び鈴》だった。
神殿で授かった日、彼女の手には小さな銀の鈴が現れた。丸く、軽く、指先で揺らすとチリンと可愛らしい音が鳴る。
ただ、それだけ。
侍女を呼べるわけでも魔物を退けるわけでも、花を咲かせるわけでもない。
幼かったエドガル王子はその鈴を見てこう言った。
「……ずいぶん可愛らしいスキルだな」
笑ってはいた。
だが、その目に浮かんだ落胆をレイベルナは見逃さなかった。
それから何年も彼女は学び続けた。
礼法。
法律。
王家の系譜。
領地経営。
国庫の流れ。
交易品の相場。
各貴族家の利害。
外交文書の読み方。
スキルが地味なら知識で補えばいい。
鈴しか持たないのなら、鈴を持っていても恥ずかしくない自分になればいい。
そう思ってきた。
だが、今王子はその努力ごと踏みつけようとしている。
「ミレーヌのスキルは《癒し花》だ。傷をふさぎ、疲れた者の体を楽にする。人を救える力だ。鈴を鳴らすだけの君とは違う」
ミレーヌは涙ぐんだ瞳で王子を見上げた。
「殿下……私、そんな立派な者では……」
「謙遜しなくていい。君の力には実際に救われた者がいる。王子妃にふさわしいのは君だ。レイベルナではない」
人を癒やす力が尊いことはレイベルナにも分かっていた。
だが、傷を癒やせることと責任を取れることは別の話だった。
王子は勝ち誇ったようにレイベルナを見た。
「分かったか、レイベルナ。君のような冷たい女は王家に必要ない」
広間の端で近衛騎士のひとりがわずかに眉を動かした。
セドリック・オルブライト。
近衛騎士団の若き副隊長で、王族警護の場ではいつも無駄口を叩かない男だ。
黒髪を後ろで束ね、背筋はまっすぐで剣の柄に置いた手に浮つきがない。
彼は王子を見ていた。
それから、レイベルナを見た。
同情ではない。
興味でもない。
ただ、何が起きているかを見極めようとする目だった。
レイベルナはその視線に少しだけ救われた。
そして、右手を開いた。
銀の鈴が現れる。
大広間のあちこちで含み笑いが漏れた。
「出ましたわ」
「呼び鈴令嬢の鈴よ」
「この場で侍女でも呼ぶのかしら」
レイベルナは王子に向き直った。
「殿下」
「何だ」
「婚約破棄は王家と公爵家の正式契約を解除する重大な行為でございます。この場の責任者をお呼びしてもよろしいでしょうか」
王子は鼻で笑った。
「好きにしろ。誰を呼んだところで私の決定は変わらん」
「ありがとうございます」
レイベルナは微笑んだ。
そして、鈴を鳴らした。
――チリン。
可愛らしい音が広間に落ちる。
次の瞬間、大広間の中央に国王が現れた。
礼装から着替えたばかりらしく、絹の夜着に濃紺のガウンを羽織り、片手には読みかけの政務書、もう片手には銀縁の眼鏡を持っている。
足元は室内履きのままだった。
大広間が凍った。
王子も凍った。
国王だけが、数秒ほど状況を理解できずに瞬きをした。
「……なぜ私は祝宴の中央で寝間着なのだ」
短編版を加筆修整した【連載版】として始めました。
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