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第61話:家の中にある“止まっている流れ“ 流れは入口で決まる

夕方。


玄関の引き戸を開けた瞬間、いつもと同じ匂いがした。


油の匂い。


少しだけ焦げたような。


「……ただいま」


返事はない。


奥からは、鍋をかき混ぜる音だけが聞こえる。


靴を脱ぎ、居間に入る。


台所では母親が背中を向けたまま立っていた。


「遅かったわね」


振り向かずに言う。


「まあ」


短く答える。


テーブルを見る。


料理はある。


だが――量が少ない。


(……減ってるな)


そう思う。


前より明らかに。


「今日もお客さん少なかったの?」


何気なく聞く。


一瞬だけ、母の手が止まる。


「……まあね」


軽く流すように言う。


だが、声が少しだけ硬い。


(……やっぱりか)


そう判断する。


この家は、小さな定食屋をやっている。


昔から。


だが最近――明らかに客が減っている。


理由は簡単だ。


近くに新しい店ができた。


安い。

早い。

わかりやすい。


(……負けてるな)


そう思う。


味じゃない。


“流れ”で負けている。


テーブルに座る。


料理を口に入れる。


うまい。


普通に。


(……問題じゃないな)


そう確信する。


味じゃない。


「母さん」


声をかける。


「ん?」


「なんで来ないと思う?」


一瞬、空気が止まる。


「……何よ急に」


「理由」


短く言う。


母は少しだけ考える。


「味じゃない?」


「違う」


即答する。


「じゃあ値段?」


「違う」


さらに切る。


母が少しだけムッとする。


「じゃあ何よ」


その言葉。


(……いいな)


そう思う。


考え始めている。


「迷うから」


そう言う。


「は?」


「何頼めばいいかわからない」


それだけ。


母が止まる。


「そんなことないでしょ」


「ある」


短く言う。


「メニュー多い」


指を差す。


壁のメニュー。


ずらっと並んでいる。


「選ぶのに時間かかる」


「その間に帰る」


それだけ。


母が黙る。


(……刺さったな)


そう感じる。


「あと」


続ける。


「初めての人が入りにくい」


「なんでよ」


「何がいいかわからない」


短く言う。


「おすすめがない」


それだけ。


沈黙。


鍋の音だけが響く。


「……じゃあどうすんのよ」


小さく言う。


完全に否定じゃない。


(……来たな)


そう思う。


「一つ決める」


「一つ?」


「最初に頼むやつ」


それだけ。


母がこちらを見る。


「それだけで変わるの?」


「変わる」


即答する。


「迷わなくなるから」


それだけ。


母は少しだけ考える。


「……そんなもんかね」


半信半疑。


だが、完全否定ではない。


(……いけるな)


そう思う。


「明日やる」


短く言う。


「え?」


「一つだけ前に出す」


それだけ。


母は少し笑う。


「そんな簡単にいくなら苦労しないわよ」


(……まあな)


そう思う。


だが――


「やるだけ」


それだけでいい。


流れは、止まっている。


なら、動かすだけだ。


翌日。


学校が終わると、そのまま店に向かう。


店の前。


看板。


少し色あせている。


(……まずここだな)


そう思う。


中に入る。


母がカウンターに立っている。


「来たの?」


「うん」


そのまま奥に行く。


紙とペンを出す。


「何してんの?」


「書くだけ」


短く言う。


紙に書く。


大きく。


シンプルに。


“おすすめ定食”


それだけ。


下に、小さく一つ。


“日替わり 〇〇円”


(……これでいい)


余計な説明はいらない。


迷わせない。


それだけ。


店の入り口に貼る。


母が見ている。


「それだけ?」


「それだけ」


短く言う。


(……まずは変化を作る)


それだけでいい。


夕方。


客が入ってくる。


常連ではない。


初めての顔。


少しだけ店の前で止まる。


看板を見る。


(……見たな)


そう思う。


そのまま入ってくる。


席に座る。


メニューを見る。


だが――


すぐに顔を上げる。


「おすすめってどれですか?」


母が少し戸惑う。


(……来たな)


そう思う。


「それです」


恒一が先に言う。


紙を指す。


「あ、それください」


即決。


(……速い)


そう感じる。


迷いがない。


それだけで、流れが変わる。


母が料理を出す。


客が食べる。


「……うまいですね」


普通の感想。


だが――


「また来ます」


それがつく。


(……これだ)


そう思う。


夜。


客数は劇的には変わらない。


だが――


“迷って帰る人間”が減った。


(……入口は通ったな)


そう判断する。


母が言う。


「……ちょっと変わった気はする」


小さく。


それで十分だ。


「次やる」


短く言う。


「まだやるの?」


「ここじゃない」


店の中を見る。


(……問題はもっと奥だ)


そう思う。

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