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第190話:比較の熱は、静かに人を壊していく

平成三年。


初夏。


朝。


湿った風。


窓を開けると、青臭い匂いと一緒に、遠くの工事音が流れ込んでくる。


商店街のシャッターが上がる音。


配送トラックのエンジン音。


学生達の声。


いつも通りの朝。


景気はまだ良い。


街も動いている。


新聞を開けば。


地価。


株価。


企業収益。


再開発。


全部、まだ明るい。


テレビでは朝から経済特集。


「平成景気はなお底堅く――」


「地方都市の再開発効果に期待――」


「個人資産形成は新たな段階へ――」


(底堅い、か)


恒一は新聞を畳む。


未来を知っているから分かる。


こういう言葉が増える時は、もう“強い”からではない。


“不安を打ち消したい”からだ。


母が朝食を並べながら言う。


「最近、近所でも新車買う家が増えたわね」


父も苦笑する。


「会社でもそうだぞ」


「誰が何買ったとか、誰が土地持ってるとか」


少し間を置いて。


「仕事の話より多いかもしれん」


(完全に比較社会だな)


恒一は味噌汁を飲む。


比較。


それは厄介だった。


未来でも同じ。


人は、自分の生活が壊れていなくても、隣が急に豊かに見えた瞬間、不安になる。


そして。


本来なら不要な借金をする。


不要な投資をする。


不要な拡大をする。


“負けたくない”から。


机へ向かう。


大学ノート。


全国地方再生ネットワーク。


十三都市。


協力都市三十一。


その横に、新しい項目。


・比較圧力

・見栄消費

・無理な設備投資

・過剰借入

・心理的劣等感


(ここから人が壊れる)


未来を知っている。


数字の崩壊より先に。


人間の判断が崩れる。


学校へ向かう。


通学路。


第一都市の駅前は、さらに華やかになっていた。


新しい看板。


高級車。


証券会社の広告。


銀行の資産相談。


住宅販売。


“成功した街”。


それは間違いない。


だが。


今の華やかさは、少し違う。


以前は、人が戻った喜びだった。


今は、人に見せるための豊かさになり始めている。


(嫌な変化だな)


学校。


昼休み。


男子達が騒いでいる。


「うちの親、新しい車買った」


「すげえ」


「うちはマンション買うって」


「マジかよ」


笑い声。


羨ましさ。


自慢。


その中で、一人が黙っていた。


恒一はそれに気付く。


その少年の家は、昔ながらの金物屋だった。


家業は悪くない。


むしろ堅実だ。


だが。


派手ではない。


その少年は小さく言った。


「うち、何も変わらん」


誰も悪気は無い。


ただ笑う。


だが、その一言に、今の時代の歪みが詰まっていた。


(何も変わらないのは、本来悪い事じゃない)


堅実に働く。


堅実に暮らす。


それは十分立派だ。


だが今の空気では。


“変わらない”ことが、負けのように見える。


放課後。


今日は第二都市へ向かった。


駅を降りる。


人は多い。


商店街も賑わっている。


広場ではイベントの準備。


喫茶店には若者。


百貨店には買い物客。


成功している。


間違いなく。


だが、空気が少し刺々しい。


以前より、高級品の広告が増えていた。


輸入車。


ブランド品。


資産運用。


高級マンション。


“豊かさ”を見せる広告ばかり。


(生活を良くする街から、成功を見せる街になり始めてる)


会館へ向かう。


商工会。


銀行。


建設。


物流。


不動産。


いつもの面々。


だが今日は、いつもと違って議題が重い。


会長が紙を広げる。


「最近、設備投資の相談が増えすぎてる」


銀行員が頷く。


「はい」


「特に、“他社がやったからうちも”という案件が多いです」


(やっぱりか)


建設会社社長が苦笑する。


「隣の会社が新社屋建てたら、うちにも話が来る」


物流会社社長も言う。


「倉庫も同じだ」


「必要量じゃなくて、“規模で負けたくない”って」


静かになる。


恒一は資料を見る。


設備計画。


新社屋。


倉庫拡張。


店舗増設。


その中には、必要なものもある。


だが。


明らかに見栄のものも混じっていた。


「これは弱い」


恒一が短く言う。


会館が静かになる。


「どれだ」


会長が聞く。


恒一は一つの計画を指差す。


郊外の大型倉庫。


立地は悪くない。


だが、既存倉庫でまだ足りている。


今すぐ必要ではない。


「必要で建ててない」


「見せるため」


それだけ。


銀行員が資料を見る。


「確かに、稼働率見込みが甘いですね」


不動産会社の男が苦笑する。


「でも担保価値はありますよ」


(そこだ)


今の時代。


担保価値があると、計画の弱さが見えなくなる。


土地が上がる。


建物がある。


融資が付く。


だから大丈夫。


そうやって、必要のない物まで増えていく。


「担保と利益は違う」


恒一が言う。


静かになる。


「動かない倉庫は金食う」


それだけ。


物流会社社長が深く頷いた。


「その通りだ」


「倉庫は建てた後が大変なんだ」


会長が腕を組む。


「昔は、必要だから建てた」


「今は、建てられるから建てる」


(本当に危ない)


未来でもそうだった。


“必要”ではなく、“可能”で動き始めた時、経済は歪む。


夕方。


第二都市の裏通りを歩く。


小さな町工場。


古い商店。


昔からの住宅。


表通りほど派手ではない。


だが、人が生きている。


生活がある。


恒一は一軒の食堂に入った。


昔からある店。


店主が笑う。


「久しぶりだね」


「うん」


店内には作業着の男達が数人。


工場帰りだろう。


テレビでは不動産特集。


“平成の勝ち組資産術”。


店主が苦笑する。


「最近こういう番組ばっかりだよ」


恒一は頷く。


店主は続ける。


「うちの息子も言うんだ」


「食堂なんかやってても金持ちになれないって」


(そうか)


未来でも何度も見た。


地道な仕事ほど、軽く見られる。


店主は笑っている。


だが、その目は少し寂しい。


「でもさ」


「腹減った人に飯出すのも、悪くない仕事だと思うんだけどな」


恒一は短く返す。


「悪くない」


少し間を置いて。


「必要だから」


店主は一瞬黙り、それから笑った。


「そう言ってもらえると嬉しいね」


夜。


第一都市へ戻る。


駅前は明るい。


ネオン。


人。


タクシー。


高級車。


笑い声。


その中で、恒一は一つの違和感を見る。


皆、楽しそうだ。


だが。


どこか落ち着きがない。


他人の服。


車。


時計。


持ち物。


そういうものを、さりげなく見ている。


(比較が日常になってる)


誰が勝っているか。


誰が負けているか。


誰が乗れているか。


誰が置いていかれているか。


その目線。


未来でも見た。


そして、その目線は人を狂わせる。


帰宅。


静かな部屋。


時計の音。


机へ向かう。


大学ノートを開く。


新しいページ。


・平成三年初夏

・比較圧力拡大

・見栄投資増加

・必要性より外見重視

・堅実層の劣等感発生


さらに下。


・比較の熱は、静かに人を壊していく


書き込む。


未来でも。


崩壊の直前。


人は未来を見なかった。


隣を見た。


隣が買ったから。


隣が借りたから。


隣が儲けたから。


だから自分も。


その繰り返し。


そして。


必要のない借金。


必要のない投資。


必要のない拡大。


それが積み上がる。


恒一はペンを置く。


自分の資産整理は終わっている。


現金は厚い。


借入は薄い。


残しているのは、本当に人が流れる場所だけ。


だが、街全体は違う。


人々は、まだ増やそうとしている。


もっと。


もっと。


もっと。


隣より。


他人より。


昨日の自分より。


布団へ入る。


目を閉じる。


第一都市。


第二都市。


第三都市。


工場。


物流。


港。


商店街。


全部浮かぶ。


成功した。


本当に成功した。


けれど。


その成功が、人を比べさせ始めている。


未来を知る恒一だけが、その危うさを見ていた。


そして知っている。


人が未来ではなく隣を見始めた時。


その社会はもう、自分の足元を見失い始めているのだと。

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