第186話:まだ誰も知らない、“連鎖”の始まり
平成二年。
盛夏。
朝。
強い日差し。
窓を開けた瞬間、熱気が流れ込んでくる。
蝉の声。
遠くの工事音。
トラック。
人。
街は動いている。
今も。
変わらず。
テレビ。
「平成景気、引き続き好調――」
「企業投資意欲は高水準――」
「地方再開発も順調に推移――」
(まだ崩れない)
恒一は新聞を閉じる。
未来を知っている。
だから分かる。
本当の崩壊は。
“問題が出た時”じゃない。
問題が“繋がった時”だ。
母が麦茶を置く。
「最近また工事増えたわねぇ」
父も頷く。
「うちの取引先も工場増設してる」
だが。
少しだけ表情が曇る。
「……でも、支払い遅れる会社増えた」
(来たな)
恒一は視線を上げる。
父が続ける。
「潰れてはない」
「でも“少し待ってくれ”が増えた」
(始まった)
未来でも。
最初は小さい。
支払い遅延。
手形延期。
入金遅れ。
それが。
静かに広がる。
机へ向かう。
大学ノート。
全国地方再生ネットワーク。
十二都市。
協力都市二十七。
さらに。
新しいページ。
・支払い遅延観測
・手形延期微増
・資金繰り悪化
・小規模連鎖開始
(繋がり始めた)
今までは単独だった。
一社。
一工場。
一店舗。
だが。
今回は違う。
“連鎖”が始まっている。
学校。
昼休み。
男子達は騒いでいる。
「また土地上がったって」
「うちの親また買うらしい」
「マジで景気終わんねぇな」
笑い声。
誰も知らない。
その裏で。
小さな資金繰り悪化が増えている事を。
放課後。
今日は第五物流都市。
物流基地。
コンテナ。
大型トラック。
倉庫。
全部動いている。
だが。
恒一は気付く。
(待機車両増えたな)
少しだけ。
本当に少しだけ。
積み込み待ちの車が増えている。
未来でも見た。
流れが詰まり始める時の兆候。
会館へ向かう。
物流会社。
倉庫会社。
銀行。
港湾関係。
いつもの顔。
だが。
空気が重い。
会長が煙草を置く。
「最近な」
苦笑する。
「金は回ってる」
皆頷く。
「でも現金が無い」
(そこだ)
未来でも。
最後はそうなる。
資産は増える。
売上も増える。
だが。
現金が足りない。
物流会社社長が言う。
「取引先の支払いが遅れる」
倉庫会社も。
「うちも」
銀行員が資料を開く。
「短期融資希望が増えてます」
(完全に始まった)
まだ表には出ない。
だが。
現場では始まっている。
その時。
若い銀行員が言った。
「でも景気良いですよね?」
(未来だな)
会館が少し静かになる。
ベテラン経営者達は。
笑わなかった。
物流会社社長が苦笑する。
「景気良い時ほど危ないんだよ」
若い銀行員が困惑する。
恒一は黙って聞いていた。
未来でもそうだった。
経験の浅い人間ほど。
数字しか見ない。
経験のある人間ほど。
流れを見る。
その時。
古い倉庫会社の社長がぽつりと言った。
「最近、“払えない”じゃなくて」
皆が見る。
「“払わない”会社が増えた」
(来たか)
危険な兆候。
余裕がある前提。
後で払えばいい。
来月上がる。
来年もっと儲かる。
そう思い始める。
未来でも。
崩壊直前に増えた。
夕方。
物流基地を歩く。
コンテナ。
荷物。
フォークリフト。
全部動いている。
だが。
少しだけ荒れている。
作業員不足。
残業増加。
疲労。
そして。
焦り。
その時。
運転手達の会話が聞こえる。
「また支払い遅れた」
「どこ?」
「建設系」
「最近多いよな」
(連鎖だ)
建設。
物流。
工場。
全部繋がっている。
だから。
一つ崩れると。
少しずつ広がる。
夜。
第四工場都市。
工場社長達との会食。
工場は忙しい。
機械も動いている。
受注も多い。
だが。
空気が違う。
以前より。
皆。
言葉が少ない。
社長が酒を飲みながら言った。
「最近な」
少し黙る。
「“儲かってる”って感じしない」
(そうなる)
未来でも。
最後は。
数字と実感がズレ始める。
別の社長も言う。
「売上は増えてる」
「でも金が残らん」
「人件費」
「設備」
「借入返済」
全部増える。
さらに。
「取引先の支払いも遅い」
静かになる。
未来でも。
そうやって連鎖した。
誰も倒れていない。
だが。
皆。
少しずつ苦しくなる。
帰宅。
静かな部屋。
蝉の声。
時計の音。
机へ向かう。
大学ノート。
新しいページ。
・平成二年盛夏
・支払い遅延増加
・短期資金需要急増
・小規模連鎖開始
さらに。
・まだ誰も知らない、“連鎖”の始まり
書き込む。
未来でも。
最初は小さい。
誰も騒がない。
新聞にも出ない。
テレビも報じない。
だが。
現場では。
確実に始まる。
支払い。
借入。
返済。
人件費。
全部。
繋がっている。
だから。
一つの歪みが。
静かに広がる。
布団へ入る。
目を閉じる。
全国地方再生ネットワーク。
成功した都市。
工場。
物流。
港。
商店街。
全部浮かぶ。
まだ日本は強い。
まだ崩れない。
だが。
その内側で。
静かに。
確実に。
“連鎖”が始まっている。
未来を知る恒一だけが。
その小さな音を聞いていた。
そして知っている。
本当に怖い崩壊は。
一社が潰れる事じゃない。
“皆が少しずつ苦しくなり始める事”なのだと。




