第110話:広がるほど、話が変わる
朝。いつも通りの空気、畳の匂い、台所から味噌汁の湯気と包丁の音、窓の外では近所のラジオが小さく鳴っている、ニュースはいつもと同じ調子で流れているが内容は頭に入っていない、考えているのは別のこと、通りは押さえた、店は九、流れは面になった、そして来週、雑誌が出る、ここまでは予定通り、その先が違う、広がる、そして寄ってくる、その二つをどう使うかだけが残っている。
「恒一、新聞取って」
母の声。
「はい」
玄関から新聞を取る、紙の感触、インクの匂い、まだ朝の湿気を少し含んでいる、テーブルに置く。
「最近、あんたよく考え込んでるわね」
母が言う。
「ちょっとね」
短く返す。
「勉強?」
「それもある」
それだけ言う。
母はそれ以上聞かない。
(いいな)
そう思う。
余計な説明はいらない。
席に座る、味噌汁を飲む、いつもと同じ温度、同じ味。
(今日じゃないな)
そう判断する。
雑誌が出るまでは動かない。
今は待つ。
ただし止まらない。
学校へ向かう、道は変わらない、電柱、商店、子供の声、全部同じ。
(外から来る)
そう思う。
雑誌が出れば、必ず来る。
店主。
客。
そして――金。
教室に入る。
「おはよう」
「おはよう」
短く返す。
席に座る。
ノートを開く。
書く。
・通り(面)
・媒体(掲載待ち)
その下に。
・外(未接触)
(ここだな)
授業は流れる。
黒板の文字を写しながら考える。
(来た時にどうするか)
断るのは簡単。
だが遅い。
受けるだけでも弱い。
「選ぶ」
それだけ。
放課後。
田中の店へ向かう。
通りに入る。
違和感がある。
人が少し増えている。
まだ雑誌は出ていない。
だが――
(噂か)
そう思う。
小さく広がっている。
入口。
止まる。
入る。
回る。
どの店も同じ。
(いいな)
そう思う。
中に入る。
「来たか」
田中が言う。
「はい」
「ちょっと変だぞ」
(来てるな)
「人増えてる」
田中が続ける。
「まだ載ってねえのに」
(前兆だな)
「広がってる」
短く言う。
「口コミか」
「そう」
それだけ。
席に座る。
「で」
田中が言う。
「次どうする」
(来る)
そう思う。
「待つ」
短く言う。
「待つ?」
「来る」
それだけ。
田中が少し笑う。
「ほんとに来るのか」
(来る)
「来る」
短く返す。
その時。
入口の音。
「すみません」
見慣れない男が入ってくる。
スーツ。
年は三十前後。
動きが違う。
(来たな)
そう思う。
「ここが例の店ですか」
男が言う。
田中が答える。
「そうだが」
男は店内を見回す。
客の動き。
厨房の流れ。
全部見ている。
(見る側だな)
そう判断する。
男がこちらを見る。
「君がやってるのか」
(早いな)
「一部」
短く言う。
男が少し笑う。
「雑誌、見た」
(もう来たか)
「載る前だろ」
田中が言う。
「関係ない」
男が答える。
「編集と繋がってる」
(なるほどな)
そう思う。
「話がある」
男が言う。
「何」
短く返す。
「金を出す」
それだけ。
店内が一瞬静かになる。
田中が横で小さく笑う。
「いきなりだな」
男は続ける。
「このやり方、広がる」
「分かる」
一拍。
「だが遅い」
(同じこと考えてるな)
「資金を入れれば一気に行ける」
それだけ。
沈黙。
(来たな)
ここが分岐。
「条件」
短く言う。
男が少し驚く。
「早いな」
「必要」
それだけ。
男が頷く。
「出資」
一拍。
「だが経営には口を出す」
(そこだ)
「いらない」
短く言う。
男が止まる。
「全部?」
「全部」
それだけ。
沈黙。
空気が少し変わる。
田中が横で笑う。
「強気だな」
(当然だ)
そう思う。
「やり方はこっち」
短く言う。
「変えるなら意味ない」
それだけ。
男がじっと見る。
数秒。
「……なるほど」
小さく言う。
「型を守るってことか」
(理解してるな)
「そう」
短く返す。
男が少し考える。
「じゃあこうだ」
一拍。
「金は出す」
「だが利益は取る」
それだけ。
(当然だ)
「割合」
短く言う。
「三割」
男が言う。
(高いな)
「一割」
短く返す。
田中が吹き出す。
「お前な」
男が笑う。
「子供が交渉する顔じゃないな」
(関係ない)
「流れで決まる」
短く言う。
それだけ。
沈黙。
数秒。
男が息を吐く。
「二割」
(悪くない)
「一五」
短く言う。
男が少し笑う。
「……いいだろ」
それで決まる。
(通ったな)
そう思う。
その時。
別の客が入る。
スーツ。
さらに一人。
「すみません」
また同じ空気。
(もう来てるな)
そう思う。
田中が小さく言う。
「増えてきたぞ」
(当然だ)
雑誌前。
それでも来る。
「今日はここまで」
恒一が言う。
男が頷く。
「また来る」
それだけ言って出ていく。
外を見る。
通りに人が増えている。
少しだけ。
だが確実に。
(始まったな)
そう思う。
夜。
家に帰る。
机に向かう。
ノートを開く。
書く。
・通り(面)
・外部(接触開始)
・資金(導入)
その下に。
・拡張(加速)
(いいな)
やることは変わらない。
迷いを消す。
詰まりを消す。
それだけ。
だが――
規模が変わる。
人が変わる。
金が入る。
「速くなる」
小さく呟く。
布団に入る。
目を閉じる。
通りが増える。
街が増える。
同じ流れが別の場所に広がる。
その中に金が流れる。
(止まらないな)
そう思う。
もう小さい話じゃない。
外に出た。
完全に。
「……面白いな」
小さく呟く。
流れは加速している。
次はさらに外。
さらに広く。
その段階に、入った。




