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『う〜ん…なんでなんだろう…』
夕暮れ時の教室サロンは、レッスンを終えた後の井戸端会議をする人達や、会社帰りでレッスンを受けるための準備をする人達など、最も賑わう時間帯である。
そのサロンの奥、受付ブースからも見えない位置にあるソファに身体を沈めたサトルは、1週間前の梶山との体験レッスンの事を思い出しながら、心の中で呟いていた……。
ストレッチ、ウォーミングアップ、ブレストレーニング、リップロール、ハミングといった流れを軽くした後に聞いた、梶山の発声はなかなかのものだった。
入口での挨拶の時からわかっていた姿勢の良さと声の大きさから、呼気流のスピードや発声時の陰圧維持は悪くないと感じていたサトルではあったが、音階練習をしてみると音も外すわけではなく、リズム感も悪くない。
さすがに高音域の発声には少々難はあったが、少しキーを下げて、基礎的な体内腔拡張をやれば、響きを維持した声で一曲歌えるくらいの音域にはなるだろう、とサトルは感じていた。
「梶山さん、良い声ですし、音やリズムもしっかり聴こえて出せてますね」
と、一通りの音階練習をした後、サトルは素直な感想を梶山に伝えた。
「む?そうですかな?」
憮然とした表情は変わらない梶山だったが、まんざらでもなさそうな声音にはなっていた。
「はい、高音域の発声に若干の改善点はありますが、1ヶ月も掛からず解決できるくらいのわずかなものです」
「おぉ!それは良かった!」
ここでようやく、梶山の顔が崩れたのを見て、
「では、次は一度、SHEをお聞かせください、私が伴奏しますので」
「わかりました!」
「SHE」という曲は、日本では1999年にヒットした映画「ノッティングヒルの恋人」の主題歌として、エルビス・コステロが歌ったものが有名だが、元々は1974年にフランスのシャルル・アズナバールが歌った曲であり、邦題を「忘れじの面影」という。
女性への想いを情熱的に歌いながら、それらのほとんどが「〜かもしれない」という言葉によって彩られ、ある種のファンタジーのような空気を醸し出す。
この名曲に、声帯の厚みを活かした、重みのある響きを持つ梶山の声はとてもよく合っていた。
音の繋ぎ方や歌い回しはコステロのものとは少し違っていたり、母音の発音に少し気になるところはあったが、元々の歌の上手さなのか、独特なのに滑らかさがある。
何よりも、歌っている時の梶山の表情は、とても真剣に曲に没入しており、その本気さと集中力の高さを感じさせた。
「梶山さん!とてもイイですよ!これなら少し発音や歌い回しの部分を修正して、最高音のところで声が細くならないようになれば、バッチリ歌えるようになります!」
ここから3ヶ月あれば、充分精度を上げられる、という確信を抱いたサトルは、少し安心しながら歌い終えた梶山に称賛の言葉を送った。
「………。」
しかし、梶山の表情は、先ほどとはうってかわって、元の憮然とした表情に戻っていた。
「ん…?あれ?…どうされました?」
「先生…今の高さは原曲とは違いますよね?」
「えっ?…あ、キーですね。はい、先ほどの音階練習でわかった梶山さんの音域に合わせて、原曲から2つほど下げたものですね」
「2つも!?…そ、それじゃ…それじゃ!ダメなんだっ!!」
思い詰めた表情で梶山は激しく叫んだ。その声はサトルに向けたものというよりも、焦りと苛立ちを含んだ自身への叱咤のようであった。
「あ………も…申し訳ない、大声を出してしまって…」
表情を変えずにこちらを静かに見つめるサトルの姿に、梶山はハッと我に返り、慌てて取り繕うように謝罪した。
「う〜ん、どうやら私が勘違いをしていたようです。梶山さんの『ちゃんと歌えるように』とは、原曲の高さで歌えるようになること、という意味だったんですね。そこを私が理解していませんでした。申し訳ございません」
サトルは自身のミスを速やかに認め、素直に謝罪してから、静かに話し始めた。
「梶山さんの歌声はお世辞ではなく、とても良いと思います。声量も響きもメロディの歌い回しも私の想像以上でした。なので、3ヶ月あれば、今以上の声量と響き、高音部分の発声齟齬の解消、英語の発音向上を促す事によるブラッシュアップは充分に可能です。但し、それは原曲から半音2つ下げた今のキーであれば、の話です」
サトルが正直にそう告げると、梶山の顔にはみるみる落胆の色が広がり、絞り出すような声で問いかけた。
「原曲の高さでは、歌えるようにはなりませんか…」
「ん〜、単純な疑問なのでお教えくださると有難いのですが、梶山さんが原曲キーにこだわられる理由は何ですか?」
「い、いや…それは…」
サトルの至極もっともな、素朴な疑問に梶山は言い淀んだ?
「少しキーを下げていたとはいえ、先ほども申しましたように梶山さんの歌は、少しレッスンで修正すれば、充分に人前で披露できるレベルです。今はカラオケはもちろん、電子鍵盤でもトランスポーズ機能を使えばキーコントロールは簡単ですよ」
「そ…それでは意味が無い……、意味が無いんです!!あ…いや、私がしっかりと説明していなかった事が悪かったですな、先生にお時間を取らせて申し訳ない…」
来た時とは別人のように疲弊した顔で、梶山はもうここには用はないとばかりに上着と荷物を手に取り、帰る準備を始めた。そのあまりに元気の無い様子を見て、サトルは思わず呟いた。
「う〜ん…まぁ、どうしても、とおっしゃるなら、そのためのトレーニングが無いこともありませんが…」
「えっ…!?ホ、ホントですかっ!?」
今にもレッスン室を出ていこうとしていた梶山が驚いて振り向きながら、今度は明確に、サトルに向かって叫んだ。
「でも…体力的に、結構キツイですよ?」
「構いません!!」
「それに、そのトレーニングを続けたとしても3ヶ月で間に合うという保証はできませんし、仮にその高さに到達できても、それで精一杯になってしまい、他の部分はあまり変化を促せないかもしれません」
「それでもいいんです!どんな方法でも構いません、それを教えてください!」
あれほど傲岸不遜な態度だった梶山が、まさしく懇願と言えるほど、すがりつくようにサトルに迫った。
「……わかりました」
不確定要素の多い約束は基本的にしたくないサトルだが、梶山のあまりの勢いに承諾せざるを得なかった。
「それで、梶山さん、原曲にこだわる理由は……」
「では、白髪先生!来月からのレッスン、何卒お願いします!」
一筋の光明が見えて、一気に元気を取り戻した梶山は、サトルの質問をかき消すような元気な声で、意気揚々とレッスン室を出ていった……。
「う〜ん…なんでなんだろう…?」
教室の外はそろそろ、夕暮れから夕闇に変わる頃であろうか。サロンロビーでソファに沈みながら、サトルはもう一度同じ言葉を、今度は心の中ではなく、声に出して呟いた。
ボーカルを習いに来る人の中には一定数、アーティストと同じキーで歌う事に強いこだわりを持っている人が居る。それ自体は何も悪いことではないし、憧憬は上達のための大きなモチベーションの一つなので、むしろ歓迎すべきものである。
しかし、サトルが感じた梶山の切迫感は、そういう類のものではない気がしていた。なので、あの日以来、休み時間の度にそれを思い出しては、なんでだろう?と呟いている。
「やっぱ、わかんないなぁ…けど、まぁ、いいか!」
そうは言ってもレッスンは引き受けたわけなので、来週から始まる梶山のレッスン計画は詰めていかなければならない。
動機はわからなくても、目指す成果がより明確になっただけマシだと思う事に決めたサトルが、ソファから立ち上がったその時、
「あ…白髪先生!」
サトルの後ろから聞き覚えのある声がした。