12.海辺の恋
白いスカートを風になびかせ、つばの広い麦わら帽子をかぶって君はカメラのファインダーを覗いている。
刻一刻と変わりゆく茜の空にひたすら魅せられ、あたりが闇に覆われるのも気付かずに君はファインダーを覗き続ける。
暗くなり始めた空に星が瞬き始めてもカメラを離さない君に声をかけたとき。周りが真っ暗になっていることに気が付いて震えだした君の、涙にぬれた瞳が僕に向けられた。
暗くてろくに見えないはずなのに、綺麗な目だと思った。
その横顔に、眼差しに、気付かぬうちに僕は恋をしてしまっていたようだ。
◇◇◇◇
あたしは顔を真っ赤にして本を閉じた。
すぐ横ではアキラがにこにこ……ううん、にやにやしながらあたしを見下ろしている。
これがすでに六冊出ているアキラの『海辺』シリーズの冒頭だなんて、知らないわよ。しかもミステリー仕立てなのに恋愛小説!
しかもこの『僕』がアキラで、『君』があたしだなんてっ!
道理で、新作が出るたびに編集長や斉藤さんに冷やかされるわけよね……。
「いつからっ……」
「いや、だからシリーズ開始から。……あの時の印象が強くって、そのまま使ってみたら一発OKもらえてさ。まさか彼女が美紀だったなんて……」
それはあたしのほうこそ言いたい。
いつの間にかあたしがモデルの作品が世の中に出回っていて、しかも六冊も!
アキラが自分の作品をあたしに読ませたがらなかった理由がよく分かった。
じとっと横目で見ると、アキラはうれしそうな表情はそのままで腕を腰に回してきた。
「でも、あたしじゃないと思って書いてたんでしょう?」
「違う! ……いや、違わないけど、彼女が美紀だったらと思って書いたんだ。だから、作中の彼女は美紀でっ」
腕を離してアキラがわたわたと弁解を始める。
「じゃあ、あの時頼まれてた原稿三十枚は?」
そう尋ねると、アキラは口をつぐんでそっぽを向いた。
顔を覗き込んで辛抱強く待つと、ちらりとあたしの方を見てようやく口を開いた。
「……『僕』が『君』にプロポーズする話」
だから美紀にだけは読ませたくなかったんだって。
そう言って唇を尖らせるアキラの顔はほんのり赤い。
「なんで?」
「だってっ……俺より先に小説のキャラが美紀にプロポーズするなんて許せなかったんだ。だから……この作品が本になる前にちゃんとプロポーズしようってあの日……」
ごそごそとポケットから出してきたのは、ベージュの色した天鵞絨の小さな箱。
どきりと心臓が高鳴る。
アキラはあたしから体を離すと、ソファに座るあたしの前に片膝をついて、箱を開きながら差し出した。
「美紀、結婚してほしい。この五か月で思い知った。俺、美紀がいないと生きていけない。俺の横で一緒に笑ったり泣いたり怒ったりしてほしい」
箱の中には縦爪のオーソドックスな婚約指輪が収まっていた。
控えめに見ても給料三か月以上だろうと思われる大粒のダイヤが輝きを放っている。
何か言わなきゃ、と口を開いたものの、声が出てこない。
「……美紀、いや?」
八の字眉のアキラに首を横に振って答える。そんなわけない。嬉しいに決まってる。
見降ろすアキラの顔がにじんでくる。
「こんな……あたしでいいの? 思い込みでアキラを傷つけてっ……」
「美紀でなきゃやだ。美紀がいい」
あたしはアキラに抱きついた。
「大好き、アキラ」
涙の合間にようやく紡げた言葉を耳元でそっと囁いた。
◇◇◇◇
寄せては返す波の音が耳に心地よい。
浜辺を歩くにはいまいちだけど、あの日と同じサンダルでゆっくり歩く。
白いふわっと広がるスカートにお気に入りのタンクトップ、白いボレロ。
つばの広い布地の帽子とカバンだけがあの日と違う。
白い砂の上に足跡をつけながら、歩く。
アキラを失ったと思ったあの時と同じ格好をするのは抵抗があった。
でも、ほかならぬアキラのリクエストだ。
浜辺の反対側までゆっくり進むと、テトラポットの上にアキラが座っている。
夕暮れまではずいぶん時間がある。アキラの前を素通りすると、あの日と同じようにカメラのファインダーを覗き込んだ。
吹いてきた風がおろしたままのやわらかい髪を揺らす。少し汗ばんだ肌には心地よい。
すぐ後ろからさくりと砂を踏む音がした。
ふんわりとたばこの香りが匂ってくる。
「……美紀」
ファインダーに彼の腕が上から映り込み、下りていく。
肩口に吐息を感じる。後ろから回された腕はあたしを抱きしめる。背中に密着したアキラに、ファインダーから目を上げる。
「愛してる、美紀」
「なっ……き、急にどうしたのよ」
あの日のやり直しじゃなかったの? 記憶の上書きがしたいって言ったの、アキラなのに。
あれから半年。この格好でも寒くない時期まで待ってようやくこの場所に来たのに。
「もういいよ、美紀。思い出したから。あの日の美紀」
息をのむ。
ぱーっと血が上ってきた。面と向かって言われるとすごく恥ずかしい。
「今の美紀もかわいい。……誰にも見せたくないくらい。食べていい?」
「ばっ、ばかっ」
身をよじって逃げようとするけれど、がっちり押さえられて動けない。
後ろを振り向いたところで頬っぺたにちゅっとキスされた。
「そうやって照れるところもかわいい。……風も出てきたから帰ろう。早く奥さんを食べたいし」
「ちょっとっ……ん」
振り向いた途端に唇をふさがれた。
解放されて上目遣いに睨むと、アキラの目が脂下がっている。
もう一度あたしの唇をついばむと、手をつないで岸壁のほうへ歩き出した。
「そういえばさっきの電話、出口さん? なんか言ってた?」
「ああ、早く帰ってこいって」
「新婚旅行中だっての。ったく……馬に蹴られちまえ」
「まあ、仕方ないよ。締め切り明後日だし」
事情が事情だけに、あたしは苦笑を浮かべるしかない。
はぁ、とため息をついてアキラは立ち止まった。
相変わらず人手不足の編集部が忙しいのはわかってるから、四日も休みをもらえたのは奇跡に近い。
本来は五日もらえる結婚休暇だけど、事情がわかってるだけに無理言えないし。
後藤さんには無理をお願いしてるし、新人のフォローは編集長に任せた。
新人が成長するまでまとまった休みは取れないだろうと言ったら、アキラがねじ込んだのよね。
曰く『式のあと新婚旅行に行けないなら次の連載引き上げる』って。
で、編集長と折衝して、四日までは連続でくれることになった。
そのかわりアキラが飲んだ条件は、『休みの間に短編を一本書き上げること』。
結婚後の休み明けに原稿用紙三十枚一本って、それ結局休みじゃないじゃないのよ。
確かにあたしは休めるけど、アキラが全然休めない。
「俺はいいの。美紀がそばにいてくれれば百人力」
大きな手が頬を撫でていく。
「もう構想できてるの?」
「うん。あとは書くだけ。一日あればできるから、心配しなくていいよ」
「わかった。……読むのは禁止?」
「え? あ、う、うん。やっぱり禁止」
照れたように顔を赤らめてアキラはそっぽを向く。
読むの禁止にしてた理由、あたしを勝手にモデルにしてたのが後ろめたいのかと思ってたんだけど、どうもそうじゃないみたいなんだよね。
この間、斉藤さんと奥さんも交えてお茶した時にちらっと聞いたんだ。
曰く、『あれは君へのラブレターだからねえ』って。
そんなわけないと思ってたけど、この反応はやっぱりそうなのかも。
きっと彼はこの先も自分の書いた作品は読ませてくれないんだろう。
あたしも、彼との約束を守って読まないだろう。
読もうと思えばいくらでも読める。
でも、これは彼との約束だから。
「はぁい。じゃあ帰ろっか。旦那様?」
「うっ……不意打ちはずるいよ」
真っ赤になったアキラにくすくす笑いながら抱きつくと、力強く抱きしめられた。
この呼び方でこんなに照れるんなら、『あなた』って呼んだらどんな反応するんだろう。
岸壁にたどり着いて、浜辺を振り返る。
怖い思いもつらい思いも悲しい思いも一杯した。でも、今のあたしたちにたどり着くには全部必要だったことだ。
だからもう、怖くない。
あたしたちにとっての大切な場所だ。
「で、題名はもう考えてあるの?」
砂を払い落とし、駐車場に向かいながら聞くと、アキラは振り返って後ろ向きに歩きながら答えた。
「まだ。でも海辺シリーズの予定」
ああやっぱり、プロポーズの結末を書くのね。
「そっか。……二人を幸せにしてね?」
「もちろん」
立ち止まったアキラはあたしの方に歩いてきて、また腕の中に囲い込んだ。
「遠藤実も海藤悠も、桐生美紀も全員幸せにする」
顔が火照ってくる。もう、さらっとこういうことを真剣な顔で言うの、禁止なんだからっ。
「桐生昭もね?」
お返しとばかりにそうささやいてあたしのほうから背伸びしてキスをすると、案の定アキラは真っ赤になって硬直した。
腕から逃げようとしたら、がっちり捕まった。
「……煽るとはいい度胸だ。今夜も覚悟しろよ?」
そう低く告げた夫は、にこやかに笑いつつも目が捕食者のそれになっていた。
……翌朝目覚めたあたしは、二度と不用意に煽ることはすまいと硬く心に誓うこととなったのだが、それはまた別の話。
これにて不器用な二人のお話はおしまいです。
まともに恋愛ものを書いたのは(がっつりという意味合いでは)これが初めてとなります。
拙いものとなってしまい、お目汚し大変失礼いたしました。
あまりギャップ萌えがうまく書けなかったように思います。精進いたします(汗)
それにしても恋愛ものってパワー要りますね……。
何本も恋愛ものの長編を書き上げられている先達の皆様には頭が下がるばかりです。