第79話 動き出す世界 16
ヘルマンの拳が――背面の熱の筋へ走った。
拳は迷わない。
迷わなければ、大きな力になる。
ゴン、と鈍い音がした。
金属でも骨でもない、どちらともつかない不快な手応え。
叩いたのは、熱を吐く"嘘のつけない場所"だ。
TYPE-Σの身体が、ほんのわずか遅れた。
完全に止まったのではないが。
"間"が生まれた。
その一瞬の間に拳を受ける、結果は人間にとっては永遠の闇だ。
機械にとってはエラーだ。
商品にとっては、致命傷となる瑕疵の入口だ。
ベルリン郊外のモニターで、画面の隅の数値が乱れた。
「循環圧低下」「演算遅延」「姿勢補正補助起動」。
高官が息を吸う。今度は興奮ではない。焦りの息だ。
「……今、ヘルマンは何をした?」
高官が思わず口に出した。
バルツェクは表情を変えない。
「きっと偶然だ」
嘘だった。彼は分かっている。
ヘルマンはTYPE-Σの泣き所を知っている。
だから、拳を叩き込んだ。
だが買い手に"瑕疵"という単語を与えたくない。
まだ、ナマズ・ビル五十七階での静かな死闘は続いている。
Σ-1は遅れた分を埋めるように、姿勢を変えた。
背中のプレートがわずかに開き、義肢ブレードが、機能不全から"抜かれる"気配が走る。
音はない。
空気が重くなった。
Σ-2が工程を組み直した。
ヘルマンを"処理"するのではない。
ヘルマンはルカのために、時間を稼いでいる壁だ。壁は壊さず、回り込めばいい。
Σ-2が廊下の照明をさらに均質化し、影を消す。
影が消えると、視覚は距離を誤る。
誤った距離で、拳は空を殴る。
Σ-3は、もう扉を見ていた。
治療室の扉。
ルカがいる場所。
人間体になったロータと、イザベルがいる場所。
扉の前の空気だけが、急に冷えた。
扉の向こう。
ロータが立っている。
立っているが、膝が笑いそうになるのを必死で止めていた。
心臓が嫌な拍動を打つ。
発作性心房細動。
以前の自分なら、痛みを笑っていただろう。
だが今は笑えない。笑えないからこそ、怖い。
早く静まれと、これまでは一顧だにしなかった神に縋る。
イザベルはルカの手首に指を当てていた。
脈は細い。
x3000に継がれた細い脈は、修復された遺伝子の通り道。
まだしっかりとしている。
この"まだある"を奪われたくない。
奪われたら、彼はもう二度と戻れない。
ルカは目を閉じたまま言った。
「……来る。扉の前だ」
声は静かだ。静かすぎて、怖い。
ロータが唾を飲み込んだ。
「来させるな……って、誰に言われたっけな」
笑いのふりをした。だが喉が震えて、笑いにならない。
イザベルが言った。
ロータが扉の取っ手に手を添えた。
鍵は閉まっている。
だが鍵は、相手が常識で動くことを前提にしている。
扉の向こうの"無音"が、ねじれる。
ガツン、と衝撃が来た。
初めて、音が出た。
わざとだ。Σは"音を出さない"こともできるのに、あえて音を出した。
恐怖を与えるために。
ロータの肩が跳ねた。
扉がしなる。蝶番が悲鳴を上げそうになる。
二撃目。
今度は音が小さい。
小さいのに衝撃が深い。
構造だけを狙っている。扉の"弱いところ"だけを殴っている。
ルカが、目を閉じたまま息を吸った。
「……今のは、拳じゃない。刃だ」
耳が拾ったのは音ではない。
圧の切れ味だ。ブレードが空気を切った微細な波形。
イザベルが、ルカの頬に手を当てた。
「大丈夫。ここで終わらせない」
ロータが言った。
「終わるのは、向こうだ」
言った瞬間、ロータの胸が痛んだ。
痛みが、怖さを増やす。
怖さが、怒りに変わる。
怒りが、立つ力に変わる。
――とかく。人間は面倒だ。
面倒だからこそ、機械に勝つことがある。




