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第7章 得たもの、消えるもの(5)

 その日から姫香は隔離病棟での入院となった。姫香が初めて腐敗症になってから持って行って喜んだものを買っては桐斗が見舞いに行く時に渡した。姫香が好きな物なんて知り尽くしている。暇な時間を過ごさないようにと、俺が内臓の図鑑を買って桐斗に持たせると、


「直人、さすがに内臓はやばくね?」


とひどい顔をされた。俺はそんな桐斗の表情を見て笑って答える。


「いいんだよ。持って行ってあげてくれよ」


君のことは俺が1番よく知っている。内臓大好きだったもんな。体を見えないところで支えている大切なものだから。


 それでもその話をすると高確率で嫌な顔をされるから、姫香自身が本当に気を許した相手にしか教えないことだった。ゾンビ映画を選んで、俺も姫香の話に乗ったから好きだと思ったんだろう。本当は内臓なんて聞くのも気持ち悪かったのに、今では姫香の好きなものだから好きになってる自分がいるんだ。大学の解剖の授業で動じなかったのは姫香のおかげなんだと思う。俺はこれ以上特効薬の開発には関われないから、せめて少しでも姫香が喜ぶものを贈ろうと思う。桐斗から受け取って笑っている姿を想像したら、それだけで俺は幸せだから。


 桐斗は俺が渡した物を姫香に届けては、その時の反応や感想を教えてくれた。喜んで食べていたとか、内臓図鑑にはしゃいでいたとか、そんな話を聞くだけで喜ぶ姿が目に浮かぶ。それだけで十分だった。







 その一方で、姫香の状態はどんどん悪くなっていった。今まで俺が見てきたものと同じ道をただ歩んでいるという状態だ。どれぐらいの時期にどこまで進行するのか分かるからこそ、逆に焦りが募っていた。研究センターに送られた小山教授のまとめたデータの検証に、教授は自ら出向いて安全性や効能を伝えに行っているのだが、なかなか認可が下りないらしい。何もできない俺はただ出席日数確保のため学校に来ていた。


 ある日、姫香の病室に見舞いに来いと桐斗に強く提案され、途中までついていくことになった。今の姫香を見て、俺は動じずにいられるだろうか。それに、俺が突然来たりして姫香は驚かないだろうか。


 そんな不安を抱えながら、桐斗に案内されることなく何度も通った病室へと向かった。倒れた時点で隔離病棟に入院は義務だ。分厚いドアを2重に隔てられた小さい世界で今も暇に1日過ごしているだろう。

 気がつくと、俺は病室の前に到着していた。懐かしくもあり、もう二度と来たくない場所。姫香が弱って、そして何度も死んでいった場所。ドアの前に来ると、胸をえぐられるような日々が蘇って入るのがためらわれる。


「やっぱり、今日はいいや」


そう言ったが、桐斗はせめて声だけでもと言って強引に俺を中へ押し込むと、自分は病室の外にいると言って出て行った。正直入るのも嫌だったがこの際致し方ない。挨拶ぐらいしようと、俺は病室の固定電話の受話器を取った。壁の中央をくり抜いてはめ込んだガラスの窓から見えないように座り込むと、背中に壁の冷たさが伝わってくる。


「やぁ」


それだけなのに、何故か緊張していた。挨拶とも言えない言葉にさえ姫香は丁寧に返事をしてくれる。


「こんにちは」


その声は今まで聞いたどんな声よりも綺麗で、かわいくて、か弱かった。久しぶりに聞く俺に向けられた言葉なのに、姫香は今も病魔に蝕まれ、死に向かっているのだと思うと辛くなる。病気の進行が現実味を帯び、苦しくなって言葉が詰まった。そんなこととは露知らず、手元にある受話器から姫香の声が聞こえてくる。


「お名前を教えてくれませんか?」


弱っているのに、もう時間はほとんど残されていないっていうのに、それでも姫香の声を聴くと受話器を握りしめたまま涙が溢れてくる。君は生きている。まだ生きているんだ。言葉がなかなか出てこない。今姫香は苦しんでいるのに、俺に向けられた言葉が嬉しくて、苦しかった。唇を噛み、拳を握りしめた。今にも零れ落ちそうな涙を目に溜めながら1度深呼吸してから受話器に向けて言葉を絞り出した。


「藤沢直人」


名前を言うだけで精いっぱいだった。これ以上話してしまったら話している途中で泣き出してしまっていただろう。俺の返事に対して、姫香は優しい声で返してくれる。


「藤沢君?」


そうだけど、そうじゃない。本当のことは言えない。





直人君





そう呼んでくれたことを思い出すとまた苦しくなった。俺達は他人だ。ただのクラスメイトで、顔も知らない人間同士。あの頃の面影などないのだ。


「今日は来てくれてありがとう」


俺は唇を噛みしめて必死で胸の痛みに耐えながら、袖で涙を拭う。


「体調、どう?」


少しすると、また耳元の受話器から姫香の声が聞こえる。本当はもっと綺麗なのに、受話器を介しているせいで少しこもったように聞こえてくる。


「今日は気分がいいよ」


「そっか。暇じゃない?」


「うん。みんな頻繁にお見舞いに来てくれるし、藤沢君も来てくれたでしょう?」


「うん」


姫香が俺に向けて何かを話してくれていたが、俺の頭には入ってこなかった。嬉しくて涙が溢れているはずなのに、会話をすればするほど胸が痛んだ。


 姫香は俺の背中にある壁2枚先にいる。たった2枚だ。こんなに君の近くにいるのに、どうしてこんなに遠くに感じるんだろう。本当は今すぐ大好きだと伝えたい。姫香を助ける為に頑張ってきたんだってことも、未来から腐敗症特効薬の知識を持ってきたことも、話したいことはたくさんあるのにどうして言いたいことを一生懸命我慢しているんだろう。


 そう考えると、俺は受話器を抱くようにして身を丸めた。苦しくて、息が詰まりそうで、気がつけば俺は姫香の声を遮るように尋ねていた。


「俺のこと、本当に何も知らない?」


「え?」


姫香の戸惑う声が聞こえてきて我に返った。俺は何を聞いているんだ。


「それって、どういうこと?」


意味が分からずにそう言った姫香に、なんでもないとだけ告げて受話器を置いて病室を飛び出した。後ろから桐斗が名前を呼んでくるが、無視してそのまま走り去る。


 何を訊いているんだ俺は。覚えているはずがないじゃないか。俺の時間はずれている。他の人と根本的に時間の軸が違うのだ。この時代に俺はいても俺の時間は10年ほど先で、上書きされて、一瞬の思い出さえもない。そう思えば思うほど、胸には苦しみが押し寄せるのだった。

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