第8章 直人の本音(1)
姫香の状態は悪化する一方で、俺は毎日小山教授に電話を掛けた。まだ認可は下りないのか。これ以上待っていたら治らなくなってしまう。そうなったら俺がやってきたことは意味がないのだと何度も訴えた。そのこともあり、小山教授は何度も、直接センターの人に訴えてくれたらしかった。今どうしても薬を必要としている女の子がいる。認可がまだ下りなくても、せめてその子に試験的でもいいから薬を与えてやってほしいと。
そんなある日、授業終わりに携帯を確認して初めて小山教授から電話が来ていたことを知った。
すぐに屋上に続く扉の前で電話を掛けなおす。
「小山教授、藤沢です! 認可が下りたんですか?」
興奮気味に俺が尋ねるが、
「いや、認可はまだ下りていない」
という声が返ってきた。それを聞いた瞬間俺は肩を落とした。どうして認可が下りない。確実にあの薬は腐敗症を治すのに。どうして認めてくれないんだよ。憤りがこみ上げる俺に、小山教授は続けた。
「認可はまだだが、投薬の許可が下りたぞ。保護者と本人の同意が必要だが、同意さえ得られたら試験的に薬を与えられるように決定を出してくださったんだ!」
言葉がうまく出てこなかった。どういうことだ?
「藤沢君、助かるんだよ! 助かるんだ!」
姫香が、助かるのか? その言葉の意味を理解した瞬間、俺は涙を流して座り込んでいた。
「良かった……。ありがとうございます。ありがとうございます」
何度そう言ったかわからない。ただ小山教授はずっと優しく声をかけてくれた。藤沢君、彼女の命は他でもない、君が救ったのだと。10年という途方もない努力が実ったのだと。その言葉に涙が止まらなかった。
姫香本人と両親が同意するとすぐに、特効薬が投与された。薬の効果はすぐに現れ、姫香は見違えるように元気になっていった。桐斗が見舞いの度に撮ってきてくれる写真を見ると、薬が効いて完治に向かっているのがはっきりとわかる。
やがて感染性がなくなると、姫香は一般病棟へと移されてあとは寝たきり生活だった体のリハビリを行い、体力の回復を待つだけとなった。
姫香の命が救われた後、俺は桐斗と姫香の様子を見に行った。ようやく死の運命から救われたあの笑顔を見たかったのだ。俺を何度も励ましてくれたその笑顔を見たら、きっとそれだけで報われる。ずっと傍にいるわけではない。クラスメイトとしてお見舞いの品を持って行って、一言でも姫香に声を掛けられたらそれでいいと思ったのだった。手の中にある小さなプリンを見て少し笑う。きっと喜ぶに違いない。
病室に着いた俺がそこで見たのは、姫香を囲むクラスメイトと、その真ん中で笑う姫香の姿だった。姫香は笑っている。それだけでよかったはずなのに、なぜか俺は素直に喜べなかった。俺が見たかった笑顔が戻ってきて、俺は泣いて喜ぶと思っていた。確かに胸はいっぱいになったが、それ以上に切なさが押し寄せてくる。本当なら、今笑っている姫香の隣で一緒にいたのは彼女らではなく俺だったのだ。俺と桐斗で会いに行って、姫香と笑っている。3人でいつも一緒にいた頃なら、今そうなっていたはずだった。
今の姫香の記憶の中に俺はいない。俺は1通も姫香からのメールを持っていないし、帰っても机に姫香の写真は無い。姫香の両親とも面識がない、何より俺はこの姿だ。姫香と仮にうまくいったとしても、俺は姫香とは確実に違う時間軸に生きている。もうあの日に戻れはしない。
姫香が笑っている姿を遠くから見守っていた俺の隣で桐斗が言った。
「会って行けよ。せっかく――」
「桐斗」
俺は声を遮った。桐斗は俺が時間を巻き戻して努力しているからこそ言ってくれたのだが、どうしても直接会う気にはなれなかった。姫香は何も知らないのだから、話したところで逆に苦しいだけだと思う。
「もういいんだ」
俺はそれだけ言って桐斗にプリンを渡すと、静かに病室を後にした。これ以上病室で姫香を見ていたら、泣いてしまう気がした。
日が沈んだ街を1人で歩いた。姫香を助ける為だけに頑張ってきた俺は、何をすべきか分からなくなっていた。約10年、姫香のために必死で勉強してきて姫香は助かった。小山教授や須川さんとも知り合って、医学部研究科に行ってから研究所に戻って来いと声もかけてもらえたけど、心に響かなかったのだ。姫香に薬が投与されることになってから直ぐ、論文は書いた本人である小山教授に返したから、認可が下り次第トップニュースになって、これから研究費に困ることもないだろう。小山教授はこの論文は君のものだから受け取れないと何度も言っていたが、その論文は確実に小山教授が書いてくれたものだから、半ば強引に返しのだった。
芦野宮公園南口を久しぶりに訪れた俺は、公園の中央にある巨大な池の方へと歩いた。池の周りには木製の手すりがつけられていて、1人静かに手をかける。月が反射する水面を眺めながら、俺は声を発した。
「姫香が助かったんだぞ。もっと喜べよ」
静寂に包まれたその場所で声が虚しく響き、急に胸が痛くなった。
誰も俺のことを知らないんだ。姫香と出会って恋をして、付き合って、色んな所へ行った。旅行にも行ったし、星も見に行った。桐斗と一緒に勉強に明け暮れ、合格を喜び合い、別れを惜しんだ。そんな、俺にとってかけがえのない10年ほどの時間はこの世界にはないのである。
「星、綺麗だったなぁ」
俺しか知らない星の美しさ。
「桐斗も鬼だったしなぁ」
俺にしか知らない受験の日々。朝が苦手で、寝坊したら桐斗に蹴り飛ばされたこともあった。一緒に何年も頑張ってきた。腐敗症研究への道を1度は反対されたりもしたけど、それでも真実を話せば桐斗は応援してくれた。思い出ばかりが蘇ってきて、それ以上何も言えなくなる。俺は独り嗚咽を堪えた。
姫香は助かったのに、なんでこんなに悲しいんだ? 時間軸からズレるほど孤独になるというケイの忠告は正しかった。姫香が助かったことは嬉しいけど、もう2度と3人で笑いあったあの日には戻れない。俺は目頭に手を当てた。くそ。くそ。なんでだよ。なんでこんなに辛いんだよ。涙が溢れて止まらない。目が熱くて、胸が苦しくて、喉の奥が鈍く痛んだ。涙が押さえた手を伝って流れ落ち、俺は声を押し殺して独り泣いた。
せめて、ほんの一瞬でも一緒にいたあの日を覚えていて欲しかった。俺が傍にいた事を、俺が姫香のために頑張ったことを、俺がどれだけ姫香を思っているのかを知っていて欲しかった。だって、姫香が俺を知らなくても俺はやっぱり好きなんだ。どうしようもなく姫香が好きなんだよ。
姫香の人生に俺はいない。俺の人生はこんなにも姫香でいっぱいなのにもう戻れない。俺と姫香には年の差があり過ぎることは、もうどうにもならない問題だった。同じ年齢なのに見た目が10歳も上の男を好きになるはずがない。
あぁ、姫香の記憶の中にほんの一瞬でもいられたら良かったのに。3人で一緒に帰った日々を、2人で過ごした日々を覚えていてくれたらどんなに良かったか。ほんの少しでいい、君の心の中にいたかった。それももう叶わない。そんな現実が重くのしかかってきた。
俺は自分の前で手を伸ばし、手を一気に開くと、俺の生命時計が手のひらの上に現れ、周囲が停止する。
「ケイ」
そう呼ぶと、目の前にケイが現れた。いつもどこか見透かすような顔をしていた彼が、今日はどこか浮かない表情をしていた。
「意味が、分かったか?」
そう悲しげに訊かれて、俺は頷いて涙を流した。
「痛いほど分かったよケイ。時間軸がズレるほどその人間は孤独になる。その通りだった。ケイは俺に覚悟があるかって訊いたけど、やっぱり覚悟なんてできてなかった。大切な人に忘れられることがこんなに苦しいなんて思わなかった……」
感情などないと思っていたケイが顔を伏せ、眉間にしわを寄せて今にも泣きそうな顔をする。
「ナオ、僕が時間を戻してもう1度あの子が死ぬまでの時間を一緒に過ごすことはできるぞ。ナオの生命時計を戻して、それから地球そのものの生命時計も戻せば――」
俺は首を横に振った。
「もういいんだよケイ。俺はもういいんだ」
姫香との時間も、桐斗との時間も、大切な物を随分失ってしまった。失った物はもう戻らない。でも、その犠牲があったからこそ今姫香は生きているのだ。俺はやっぱり姫香に生きていて欲しい。それだけは変わらない。
「返すよ。この力」




