第6章 桐斗と直人(5)
桐斗は力なく笑った。
「そんなファンタジーな話を信じろって? でも、過去の俺は信じたのか。論文だって丸暗記してるし、確かに直人の異常なまでのやる気は説明がつくよな」
俺の顔をもう1度見て、真剣な顔をする。
「信じてくれ」
ただ沈黙に耐えた。1秒が長く、変な汗が出てきそうになる。
「信じるよ」
俺が聞いたのは桐斗の優しい声だった。俺は顔を上げて桐斗を見ると、桐斗は笑っていた。
「論文まで暗記してるとか、もう信じるしかねぇじゃん。元々困ってる人は絶対に見捨てられないし、嘘つく奴でもないし、いきなり医学部行くとか言い出すし、受験終わっても勉強ばっかりしてるし……。姫香ちゃんを死に追いやった腐敗症を研究するんじゃなく、過去にいる姫香ちゃんを腐敗症から救うって聞いてなんか納得したんだよ。今までなんでこんなに必死なんだろうって思ってた。姫香ちゃんは何をしたって戻ってこないし、命を救いたいなら臨床科に行くはずなのに腐敗症の研究に進むってどういうことなんだってずっと思ってたんだ。でもその話を聞いたら全部辻褄が合う。必死だったのはただの腐敗症研究じゃなくて、姫香ちゃん自身を救う為。知識を得てから過去に戻って、死んでいる事実を消してまた一緒にいたい為。全部理解できる。だから信じるよ。直人が頭おかしくなってない方に賭ける」
「おお! 友よ! 持つべきものは友達だな」
俺は桐斗の手を掴んで力強く上下に振った。
「分かった分かった! 分かったからこの手を放しなさいよ。痛いから、割と痛いから!」
俺は振るのを止めると、桐斗は一瞬俯いてからまた顔を上げ、受験の時応援してくれたのと同じ笑顔になった。一瞬見えた寂しげな表情の意味もちゃんと分かっている。
「だいぶファンタジーな話だけど、直人って想像力乏しいからそんな話考えられないもんな」
「まさか、俺を信じたのってその理由?」
「あ、ばれた?」
「俺信じてたのに!」
そう非難して、数秒間が空いてから俺達は同時に笑った。桐斗はいつだって最後には俺を信じてくれる。そんな友達を持てて俺は幸運だ。ありがとう、こんな話でも信じてくれて。俺を信じてくれて本当にありがとう。
でも分かってるんだ。これから俺が行く道は、結局桐斗の記憶に残ったりはしない。俺が知識をつけて過去に戻った時、桐斗と受験勉強したことも医学部に入った事も、今こうして話している事も全て無かったことになるから。桐斗は賢いからそんなこと全部分かっているんだ。それでも俺に力を貸してくれる。
「やるぞ直人! ここまできたら御崎大学の首席で卒業してやれ! 俺も研究科の友達いるから教科書借りて勉強しとく。直人が困ったら俺が教えてやらなきゃな!」
「ありがとう」
こんな日々が消えてしまうのを考えたら少し寂しくなる。そんな事を考えた俺の額に桐斗がデコピンしてきた。
「ありがとうございます桐斗様だろーが! アイスコーヒーおごってくれてもいいんだぞ」
「お前な、調子に乗りやがって――」
桐斗の顔を見た時、桐斗もまたどこか寂しげな顔をしていた。大丈夫。俺はこの日々を忘れたりしない。
「よし、人肌脱ぐか!」
桐斗は大きく伸びをしながら言った。俺も頑張るんだ。桐斗のためにも、姫香のためにも、応援してくれた人達のためにも。俺にしかできないことだから。
俺と桐斗は頻繁に互いの下宿先に泊まって勉強するようになっていた。学ぶことは多く、桐斗はそれ以上を求めて教科書や先輩とのつてを最大まで活用して資料をかき集めてくれたし、俺は必死でそれらを吸収した。とにかくできることは全てやるのだ。
最初は泊まっていた俺達だが、その内ルームシェアをするようになっていた。その方が家賃も安くなるし、バイトの時間を減らせるからだ。桐斗は俺にただ勉強するように言い、家賃をほとんど払ってくれていた。俺が何を目的にここにいるかを知っているから、できることは何でもしたいのだと言う。桐斗もまた姫香と仲が良かったから、姫香が助かるかもしれないということに賭けたのだ。姫香を救うという事は俺だけではなく桐斗の目的にもなっていった。
3年目には俺達は別々の道に分かれて授業を受けることになっていた。桐斗は臨床科で医者になるために勉強し、俺は研究科で研究者として腐敗症の研究のために勉強する。それでも帰ってくる場所は結局一緒だ。
教科書の内容が理解できずに力尽きて机に額を打ちつけたまま白目を向いていたら、バイト帰りの桐斗が部屋に入ってくるなり悲鳴を上げていたこともあった。完全に殺人事件だと思ったらしい。
そんな俺でも解剖学だけは得意だった。臓器の位置や名前、働きは姫香が楽しそうに話していて覚えていたからだ。解剖自体は苦手だったけれど、臓器の名前を見ると姫香の事を思い出した。姫香、見える? 俺頑張ってるよ。そう思いながら臓器の名前を見て微笑んでいると、解剖学の先生からは好印象だったが、一部の女子からは頭おかしい人を見るような目で見られる事もあった。
テスト前に俺が勉強していると、突然隣からラブラブな会話が聞こえてきて集中できず、今だけはやめろ、と鬼の様な形相で迫った事もあった。その日のマユミンとのデートは俺の低い声がマイクを介してマユミンに伝わってしまい、マユミンが泣いて帰ってしまうという事件も起きた。
「俺のマユミンがぁぁぁぁ!」
と、言った後桐斗はそのまま魂が抜けたように倒れてピクピクと体を震わせ、以来俺が勉強している隣でラブラブすることは無くなった。最近はこの前の声の人が気になるとマユミンが言いだしたらしく、今まで以上に必死でマユミンに会いに行っている。もう少しリアルな女子に心を開けばすぐに彼女ができるだろうに。
冬が来れば、温かいと眠ってしまうから限界まで暖房をつけたくない俺と、少しでも寒いと感じたくない桐斗で暖房戦争もあった。結果、桐斗は暖房をつけて温風の前に行き、俺は窓を背にして少し開けることで、隙間風で体を冷やし眠気を振り払うという方法に落ちついた。温風に当たりながら隙間風の冷たさに震えている姿を見ると、正直桐斗が賢いのか疑問に思えてくる。
それでも俺が困った時は必ず桐斗が手を貸してくれたし、俺が桐斗に教える立場になることも出てくる程だった。研究科の科目に関しては今や桐斗よりも俺の方が知っている。俺は研究室に入って最先端の腐敗症研究に没頭した。御崎大学の教授は小山教授とももちろん繋がりがあり、たまに時間を見つけては教授が訪ねてきてくれた。
小山教授は優しいおじいちゃんといったイメージだ。年齢はもう80を超えているらしく、髪は頭皮が見える程に薄くなっていて、しわの多い顔でいつでもマイペースに笑っている。生徒の質問に答えなかった時などなかったし、優しすぎて1度生徒に捕まるとなかなかその場から動けなくなって困ったように俺を見てくることもあった。
そんな小山教授の傍でいつもサポートをしていたのが、過去俺を研究所から追い出した白衣の男。助手をしている須川弘は俺にしてみれば嫌なイメージしかなかったが、研究室に来る度見ていると、疲れた小山教授のためにお茶を淹れたりお菓子を持ってくることはもちろん、にこやかに肩を揉んであげたりする姿もあった。それはまるでおじいちゃんと孫である。
「小山教授は俺の恩師なんだ。最近は年もとってきて大変なのに多忙なのは変わらないから、少しでも俺が教授の負担を軽くしてあげたいんだ」
須川さんは俺にそう笑顔で説明してくれた。そんな姿を見て、本当は優しい男性なんだとようやく気がつく。俺が研究所に行って論文を見てもらおうとしたのも結局論文を受け取って誠心誠意答えようとする教授の負担を軽減しようとしたからなのだ。
須川さんは俺と気が合った。悪いイメージしかなかったが、研究室に来て会う度話すことが多くなり、俺が質問すれば優しく教えてくれた。人間色んな面を持っているもんだし、一瞬だけしか見ていないのにその人の全てを分かったような気になるのは間違いだとしみじみ思う。結局その人の1面しか見えていないのだ。
須川さんのおかげで俺は芦野宮研究所内の貴重な話も聞くことができたし、小山教授ともよく話すようになった。趣味は釣りだが釣ることよりも魚がかからないのんびりした時間が好きで、その間に餌だけ食べられている事も多いらしい。小山教授は本当に人がいいし心も広い。この人に絶対論文を届けてみせると、決意を固めた。




