第6章 桐斗と直人(4)
御崎大学に入学してから、正直受験勉強よりもはるかに難しい授業との戦いが始まった。受験で使った科目はついていけたがスピードの速い授業についていくのは必死で、ついていけなくなってきたら桐斗に訊いた。俺が受験勉強している間に自分も勉強しておくという言葉に偽りは無く、質問には簡潔に分かりやすく答えてくれたし、テスト前には一緒にテスト勉強をした。俺達は自ずと受験1年目のように一緒にいる時間は多くなった。
桐斗が家に泊まりに来た時も俺は相変わらず勉強に力を注いでいた。今学んでいることは姫香の命に直結するのだから、と。
その一方で、桐斗は俺を外へ連れ出そうとする事が多くなった。勉強があるからダメだと言っても聞かないことが多くなり、家に迎えに来ることもしょっちゅうだった。勉強をさせてくれと言っても俺のノートを閉じて家の外へと走り出す。姫香のために、今力を抜くわけにはいかないんだと俺は断ることが多くなった。
俺が入った医学部研究科では臨床科と別れる年から研究室に入って教授と共に学ぶことができる。そこで腐敗症について学ぶには相応の知識が必要なのだ。桐斗にそう説明しても、桐斗はしつこく俺を外に連れ出そうとしてきた。
その日も桐斗は俺に誘いのメールを入れてきたが、断りのメールを入れた。今はできるだけ多くの知識をこの頭の中に詰め込んでおきたいのだ。机に向かった俺の携帯にまた桐斗からメールが来る。小さくため息をついてメールを見てみた。
「少し話そう。あのカフェに来れるか?」
俺が1年目の御崎大学受験の結果発表までに立ち寄った、丸い木製のテーブルが置かれたあのカフェだ。いつもの桐斗と違う気がして、仕方なく了解、とメールを送った。
俺がカフェに着いた時には、桐斗は既に店内におり、俺に手を振ってくれた。勉強に戻りたい気持ちを抑えながら桐斗に向かい合う形で窓際の席に座った。受験の時に来たのと同じ場所だった。
「で、なんだよ話って」
用件を早く終わらせてしまいたくてついつい桐斗を急かしてしまう。桐斗はそんな俺に言った。
「なぁ、直人。腐敗症の研究に関わるのはやめないか?」
その言葉は、初めて聞く俺と逆の意見だった。絶句して何度も瞬きする姿を見て、桐斗は浮かない顔で続けた。
「姫香ちゃんが好きで、姫香ちゃんが死ぬ原因になった腐敗症を研究したい気持ちは分かる。でも、今の直人は勉強にとりつかれてるみたいに思えるんだよ」
俺が、勉強にとりつかれている? 俺は驚いた表情のまま桐斗を見た。
「俺さ、姫香ちゃんの死を受け入れて前に進んでるんだって思ってた。そのためなら、俺も協力しようって思ったんだよ。受験期は勉強に没頭するのも当たり前だったから良かったけど、今の直人はどうだ? 勉強以外に何をやってる? サークルに入ってるか? 部活に入ってるか? 友達はできたか?」
桐斗は険しい表情のまま運ばれてきたアイスコーヒーを一口飲んで俺を見る。その言葉に何も言い返せなかった。サークルも部活も入っていなければ、気の合う友達も桐斗しかいない。医学を必死に勉強することにだけ力を入れてきた俺にはそんなこと不必要だったからだ。
「直人、勉強だけしてちゃダメなんだよ」
俺を説得するように桐斗は言った。
「これじゃあ、過去を受け入れるどころか、過去に囚われたままだ。直人は変わったけど、今の直人はあまりにも腐敗症を見過ぎていてもう見てられないんだ」
俺の事をいつでも笑顔で応援してくれていた桐斗が、険しい顔をしていた。
「腐敗症からは手を引いた方がいい。そりゃ今まで頑張ってきたけど他の研究だって案外面白いものいっぱいあると思うし、サークルとか入ってのんびり頑張るっていうのもいいと思うんだ。直人の力なら単位落とすこともそんなにないだろうし、テスト前は俺が力を貸してやるじゃん。知らないだけで面白いサークルなんていっぱいあるんだぞ。一緒に探しに――」
「桐斗」
俺は桐斗の言葉に被せるようにして言った。
「違うんだよ。俺は、腐敗症の研究をしたいんじゃない」
俺の目的はそうじゃないんだ。その言葉に驚いたのは桐斗だった。
「違う? どういうことだよ。だって、ずっと腐敗症の研究のために突っ走ってきたんじゃないのか?」
「そうだけど、そうじゃないんだよ」
「どういうことだよ」
俺が生命時計を操れるという話を桐斗は信じてくれるだろうか。前みたいに俺を応援してくれるのだろうか。今桐斗は俺の事を腐敗症に囚われた、と言っていた。もしかしたらこんな話をしたら頭がおかしいと思うかもしれない。それでも、桐斗は今俺の事を心配してこう言ってくれているのだ。俺もまた桐斗に誠心誠意向き合うべきじゃないのか?
「なんなんだよ。早く言えよ」
桐斗に急かされて、俺は決心した。
「桐斗、もしかしたら俺の事頭がおかしいと思うかもしれないけど、聞いて欲しい」
桐斗が俺を見ているのを感じながら、俺は真実を話し始めた。生命時計の話、姫香を救う為に何度も姫香の時間を戻していた事。それでも死んでしまった未来で腐敗症の特効薬が完成し、論文を桐斗と協力して1字1句間違えずに暗記して過去へ戻り、研究所に見せに行ったが相手にしてもらえなかった事。そんな研究所の人間に何としてでも特効薬完成の要である正式な論文を読ませて姫香が生きている間に特効薬を完成させるために今勉強している事も。
「どうやって過去に戻ればいいのか分からなかった俺は、桐斗に相談したんだ」
桐斗は真剣な顔で俺に訊いた。
「その時、俺はなんて言ったんだ?」
「俺の話を信じて、地球を1つの生命体と考えたら地球の生命時計は使えるんじゃないかって言ってくれたんだ。地球の時間の中には俺も桐斗も、姫香だって存在していたなら、その生命時計自体を戻してしまえば姫香がいたっていう時間に戻れるんじゃないかって。俺、そんな方法思いつかなくて、ほんとにすごいって思ったんだ」
桐斗は俺の話を聞いて頭を掻いた。
「直人の話が本当なら、直人は俺と一緒に論文を覚えたってことか?」
数秒沈黙が続いた。桐斗は信じられるか、俺がただ夢幻を話しているのかを吟味しているのだろう。俺はただ結論を持っていたが、ふと思い出したように論文の内容を声に出した。
「全部覚えて過去に論文を持っていくために覚えたから1字1句間違えずに覚えてるんだ」
目を丸くして、桐斗は自分の携帯で小山教授の論文のページを出すと、20枚に渡る論文内容をスラスラと言う俺を見て声を上げた。
「嘘だろ」
「桐斗、俺は頭がおかしいんじゃないんだ。今勉強してまた過去に戻って今度こそ小山教授にこの論文を読ませて特効薬を開発してもらわないといけない。小山教授は腐敗症の第1人者って言われるぐらいの人なんだろう。俺じゃあ特効薬をいきなり作るなんてできないし、そもそもこの論文は教授のものだ。この論文はあの人に必ず返す。たとえ本人がそんなもの発見してないと言い張ってもだ」
俺は地位も名誉もいらない。姫香が助かればそれでいいのだ。
「だから力を貸してくれ。姫香を救う為にはとにかく今知識がいるんだよ」




