アオイ㉒(前編)
アオイはジュンとのこれまでのメッセージのやり取りをぼんやりと眺めていた。
(あのジュンさんが、ついにハイスペになった)
頭の中で何度その言葉を反芻しただろうか。ハイスペ。選ばれし者。完璧な人間。この社会が定めた究極の勝者。そしてジュンは、その頂点に到達したという。
次の約束は今週末とすでに決まっていた。ハイスペになったジュンとついに結ばれることになるのだろうか。心臓が不規則に脈打つ。期待なのか、恐怖なのか、自分でも判別がつかなかった。
ハイスペ優遇法の廃止を訴える自分がハイスペ男性と交際する……その矛盾が胸の奥で渦を巻いていた。法的には全く問題のないことだ。誰も咎めることはできない。しかし、自身の活動と相容れない行為であることは疑いようのない事実だった。集会で壇上に立ち、平等を訴え、差別の撤廃を叫ぶ自分が、その差別の頂点に立つ者と関係を持つ。この偽善を、自分はどう正当化すればいいのだろうか。もし断る場合、ハイスペとなったジュンを前にしてそれが出来るだろうか。その問いが、脳内で何度も繰り返し響いた。まるで磁石のような、ブラックホールのような強力な引力を前にしたとき、アオイは自分を保つことが出来るか不安を感じた。
彼女はふと思い出した。久遠財閥のハイスペ化の被験者はジュンを含めて全5人だったはずだ。その情報は最初の報道で確認していた。ジュンは自分で「ハイスペになった」と言っていた。メッセージには確かな自信が滲んでいた。おそらく本当なのだろう。では、他の4人はどうなったのだろうか。スマホを取り出し、検索窓にいくつかのキーワードを打ち込んでみる。久遠財閥、ハイスペ化、被験者、結果——。しかし、画面に表示されるのは、被験者募集を発表した際の記事や、財閥のホームページだけだった。どれも既視感のある情報ばかり。新しい情報は出てこない。実際に成功したのか、失敗したのか、結末はどこにも存在していなかった。情報の海の中に、その答えだけが存在しないかのように。実際にハイスペ化が成功していたのであれば、ジュンの存在は瞬く間に全国に知れ渡るはずなのに。いや、世界中が注目するはずなのに。人工的にハイスペを生み出すという、人類史上かつてない快挙。それが成功したなら、メディアは殺到し、記者会見が開かれ、社会は騒然となるはずだ。なのに、この静けさは何なのだろうか。
(何かがおかしい気がする)
違和感だけが残った。モヤのかかった視界の中で、何かが見えそうで見えない。答えに手が届きそうで届かない。その焦燥感が胸を締め付けた。ジュンがハイスペになったことを知っているのは、財閥を除けば彼自身と自分だけなのかもしれない。その可能性が、奇妙な特別感をもたらした。秘密を共有する二人。誰も知らない真実を知る者同士。そんな重要なことを打ち明けてくれたことに、アオイの胸は微かに暖かくなった。冷たい疑念の海の中で、小さな暖かい光が灯ったような感覚だった。
週末。今日の外出は集会へ行くのではない。集会で着ているモノトーンのコンサバなファッションは今日の場にはふさわしくない気がした。あの服は戦闘服だ。闘うための鎧だ。でも今日は違う。今日は特別な日になる。クローゼットを開けると、普段着ている服が整然と並んでいた。黒、グレー、紺、白。活動家としての自分を象徴する色たち。その奥に、ずっと忘れていた服が眠っていた。普段全く着ない、青いワンピースを取り出した。いつ買ったのかも思い出せない。肌の露出は控えめ、だが少しだけ鎖骨が見えるデザイン。清楚でありながら、どこか色気を感じさせる。今日という日にぴったりだと思った。
鏡の前で何度も合わせてみる。青い布地が肌に映える。この色を選んだのは、自分の名前と同じ色だからだろうか。アオイ。青い。この服を着ることで、活動家としての自分ではなく、一人の女性としての自分を取り戻せる気がした。
二十時。大きなターミナル駅の改札前。天井が高く、人々の足音が反響する空間。週末の夜、帰宅する人々と、これから夜の街へ繰り出す人々が交錯していた。普段の集会では来ない駅だった。ここに来ること自体が、日常からの逸脱を意味していた。
アオイが改札を出ると、ジュンはそこで待っていた。白いシャツに黒いジャケットを羽織っている。シャツの襟元が整然としていて、ジャケットの肩のラインが完璧に身体に沿っている。彼の装いも、普段の集会で見るものとは全く異なっていた。集会では、どこか気後れしたような、自信のなさそうな服装だった。しかし今日の彼は違う。まるで別人のようだった。
「お待たせしましたか」
アオイの声に、ジュンは振り向いた。その瞬間、彼の目が僅かに見開かれた。
「いえ、今来たばかりです」
「ジャケット素敵ですね」
「アオイさんのワンピースも素敵です」
お互いを褒め合う言葉。しかしその言葉の裏に、別の意味が隠されているような気がした。私はあなたを認めている。そんな無言のメッセージが交わされているような感覚。
「特別な日ですからね」
アオイはそう言って、ジュンの隣に立った。彼からは、表現しようのないオーラが放たれているように思われた。好意とも、支配欲とも、性的欲求とも、引力とも取れるような。それは視覚で捉えられるものではなく、もっと原始的な、本能的な感覚で感じ取るものだった。空気が僅かに歪んでいるような、重力場が変化しているような、そんな不思議な感覚。
周囲を行き交う女性たちもチラチラとジュンを見ているような気がする。すれ違いざまに視線を送る女性、立ち止まって振り返る女性。彼女たちもまた、ジュンから発せられる何かを感じ取っているのだろうか。ハイスペが持つという、人を惹きつける力。それが今、目の前で現実として機能しているのを目撃している。
「行きましょう。お店は予約してあります」
ジュンの声は自信に満ちていた。迷いがない。まるで全てが計画通りに進んでいることを知っている者の確信に満ちた声だった。この日の予定はジュンが全て手配をしてくれていた。まるで自分で台本を書き、それを演じるかのように。自分はその台本に組み込まれた登場人物の一人に過ぎないのだろうか。そんな不安がよぎったが、同時に、全てを委ねてしまいたいという欲求も湧き上がってきた。
アオイはジュンに着いていった。彼の後ろ姿を見つめながら、自分の意志で歩いているのか、引き寄せられているだけなのか、もはや判別がつかなくなっていた。




