ジュン㉑
一週間後、ジュンは再び、白磁の静寂に包まれた久遠財閥の研究室に立っていた。無機質な照明が壁を照らし、機械の低い唸りだけが空間を満たしている。外の世界から切り離されたこの場所は、まるで聖域のようでもあり、手術室のようでもあった。
こめかみを削り取るような激痛は、もはや日常の一部となり、彼の意識を濁らせている。目を開けているだけで視界が揺らぎ、光が針のように脳に刺さる。痛みは波のように押し寄せ、引いては、また襲ってくる。夜、眠ろうとしても、脈打つ痛みが頭蓋骨の内側を叩き続ける。鎮痛剤はもう効かない。この一週間、ジュンは地獄を生きていた。
担当の研究員は、モニターに映る複雑な数値——脳波、血流、神経活動のパターン——を眺めながら、事も無げに告げた。まるで機械の不具合を報告するかのように。
「ジュンさん、ご安心ください。原因が判明しました」
ジュンは息を呑んだ。安堵と恐怖が同時に押し寄せる。
「あなたのハイスペック化処置は、実は95%で止まっていたのです。残り5%の完了を待たずに意識が覚醒してしまったため、脳が過負荷を起こし、その拒絶反応が頭痛として現れています」
不完全。その言葉が、ジュンの胸に突き刺さった。自分は「選ばれし者」になりきれていなかったのだ。まだ、旧い自分の残滓が、内側で抵抗していたのだ。
「……治るんですか、それは」
声が震えた。懇願するような、縋るような声だった。
「ええ。残りの5%を書き込み、100%完璧な『ハイスペック』になれば、その痛みは嘘のように消えるでしょう」
完璧な、ハイスペック。その甘美な響きは、今のジュンにとって唯一の福音だった。痛みから解放される。世界の頂点に立つ。すべてが、あと5%で手に入る。彼は迷うことなく、一泊二日の再入院を受け入れた。かつての自分を捨て去り、真の「選ばれし者」へと至るための、これが最後の儀式だと信じて。
再びカプセルの中で、ジュンは深い眠りに落ちた。
冷たいゲルが肌を包み込み、機械の振動が骨を伝わる。意識が遠のいていく中、ジュンは奇妙な安堵を感じていた。次に目覚める時、自分は完成している。もう痛みはない。もう迷いもない——。意識が暗転した直後、かつてないほど鮮明で、暴力的なまでに美しい夢が彼を襲った。それは、アオイとの情事の続きだった。
彼女の指先が肌を滑り、吐息が耳をくすぐる。肌の温もり、髪の匂い、唇の柔らかさ——すべてが現実を超えた解像度で迫ってくる。アオイの瞳が彼を見つめ、囁く。
「ジュンさん……」
その声が全身を駆け巡り、彼の欲望は制御不能なまでに膨れ上がる。愛と所有欲と征服感が渦巻き、脳の奥深くで何かが燃え上がる。ジュンの脳波計の針は狂ったように振れ、測定不能の限界を突き抜ける。グラフは激しく乱れ、警告音が鳴り響く。だが同時に、現実の彼の肉体には異変が起きていた。
「……まずいな、血圧が異常上昇している」
研究員の叫びが響く。モニターに映る数値は、人間の生理的限界を遥かに超えていた。ジュンの全身の血管が、内側からの圧力に耐えかねて膨張し始めた。皮膚の下で、青い血管が蛇のようにうねり、次々と破裂し始めたのだ。白い肌に、毒々しい紫色の斑点が浮かび上がる。まるで、内側から腐敗していくかのように。
「脳が耐えきれず死ぬか、肉体が先に崩壊するか……これは賭けだ」
「処理を中断できないのか」
「無理だ。アップデートの途中で止めれば、脳は修復不能なエラーを起こし、彼は植物状態になる」
「このままだとおそらく肉体が先にダメになりそうだ。もってあと半日、いや数時間……」
研究員たちの声に、初めて焦燥の色が混じった。彼らにとって、これは予想外の事態だった。ジュンの欲望が、彼の脳の出力が、あまりにも強すぎたのだろうか。このまま書き込みを続ければ肉体が崩壊する。書き込みを止めれば植物状態になる。どちらの選択肢もジュンの死を意味していた。そんな絶体絶命の淵で、一人の研究員が言った。
「うちのクローン製造部門から、新しい器を持ってくるのはどうだ。ハイスペのクローンであれば、ジュンの肉体よりも感情の揺れに対する耐性が高いはずだ」
沈黙が落ちた。誰もが、その提案の意味を理解していた。ジュンの「魂」を、別の肉体に移す——。他に選択肢はなかった。研究員は慌ててクローン製造部門に連絡を入れると、オサムというリーダーが出た。低く落ち着いた声だった。
「コールドスリープ状態の#093という個体がある。使えると言えば使える」
「使わせてください」
「構わないが」
オサムは少し間を置いた。
「この時期に製造された個体は一部に製造不具合が出ていたことが分かっていて、実際に、#094、#095、#096には異常が確認された。将来的に、#093にも予測不能の事態が起きるかもしれない」
将来的に問題が発生する可能性はある。しかし、ジュンの生死は今この瞬間の問題だ。研究員は躊躇わなかった。
「ありがとうございます。それでは使わせてください。今から人を送ります」
#093が運び込まれた。カプセルの中で眠る肉体は、ジュンよりも遥かに美しかった。完璧な筋肉のバランス、傷一つない肌、理想的な骨格——それは「人間」というよりも、「作品」だった。神の創造物ではなく、人間の技術が生み出した、完璧な器。ジュンの脳のバックアップデータから、全データが吸い出され、#093の肉体へと転送される。それは「魂」をデジタルコピーする、神への冒涜にも等しい作業だった。記憶、感情、自我——人間を人間たらしめるすべてが、光の速度でケーブルの中を流れていく。
その間も、ジュンの肉体は悲鳴を上げていた。カプセルの中で「パンッ」という乾いた音が響く。両脚の血管が破裂し、血が白いゲルを赤く染めた。続いて右腕が爆発するように形を崩した。骨が軋み、筋肉が裂ける。もはや人間の形を保っていない——それは、欲望に耐えきれず崩壊する、旧人類の末路だった。
「#093への書き込み完了まで、あと少しだな……」
研究員たちは黙って、二つのカプセルを見つめていた。一つには崩壊していく肉体。もう一つには、新たに生まれ変わる肉体。生と死が、この部屋の中で交錯している。五時間を経て、ついにすべてのインジケーターが緑色に点灯した。長い電子音が鳴り響き、完了を告げる。
旧いジュンの肉体は、もはや見る影もなく損壊し、生命維持装置につながれただけの「抜け殻」と化した。血と体液が混じり合い、かつて彼だったものは、もう人の形をしていなかった。一方で、新しい肉体——#093は、激しいデータの流入を、深海のような静けさで受け止めていた。脳波は安定し、血圧も正常。完璧なバイタルサインが、モニターに表示されている。
「さすが本物のハイスペだ。文字通り、キャパシティが違う」
研究員の一人が、感嘆の声を上げた。これが、人間が到達すべき次の段階なのだと、誰もが確信した瞬間だった。
翌朝。ジュンは、かつてないほど清澄な意識の中で目覚めた。視界が、驚くほど鮮明だった。天井のタイルの質感、空気の粒子、研究員たちの毛穴まで見える。聴覚も研ぎ澄まされ、遠くの機械音、換気扇の回転、誰かの心臓の鼓動さえも聞こえる。世界が、まるで高解像度に書き換えられたかのようだった。枕元に駆け寄る研究員たちの顔が、一人ひとり、驚くほど鮮明に見える。彼らの瞳孔の動き、微細な表情の変化、すべてが手に取るように理解できた。
「……お名前は、分かりますか?」
声が聞こえた。
「オ……オレは……。ジュ……ジュンです」
喉の奥から絞り出した声は、以前よりも深く、魅力的な響きを湛えていた。自分でも驚くほど、美しい声だった。研究員たちが一斉に拍手を送る。温かい拍手が、部屋中に響き渡る。なぜ自分が祝福されているのか、ジュンには分からなかったが、ただ一つ、確かなことがあった。
「頭痛は……ありますか?」
研究員が、恐る恐る尋ねる。
「……いえ、全く」
嵐の後の凪のような、完璧な静寂。あの地獄のような痛みは、跡形もなく消えていた。頭の中がこれほど静かだったことは、ハイスペック化以来、一度もなかった。いや、それ以前も。生まれてこの方、これほど明晰に世界を認識したことはなかった。
「良かったです。これでジュンさんは、正真正銘、100%のハイスペックです」
100%——その言葉が、ジュンの胸に染み込んだ。不完全だった自分が、ついに完成した。もう何も欠けていない。もう何も恐れることはない。
退院の手続きを終え、研究所の門を出ると、春の光が新しい皮膚を優しく撫でた。光が、これほど美しいものだったとは。風が、これほど心地よいものだったとは。世界のすべてが、新しく生まれ変わったかのように感じられた。いや、生まれ変わったのは、世界ではなく自分なのだと、ジュンは理解していた。自身のIDカードを確認してみる。そこには、燦然と輝く『HS』の称号が刻まれていた。ハイスペック——。それは、選ばれし者の証。完璧な人間の証明。神に最も近い存在の印。その時、ポケットのスマホが震えた。画面を見ると、アオイからのメッセージだった。心臓が高鳴る。だが、以前のような不安や焦燥はない。ただ、静かな確信だけがあった。
ジュンさん
良かったら来週末の夜、お会いできますか?
アオイ
かつてのアオイの言葉を思い出し、ジュンは確信した。彼女は、愛を完成させる準備ができたのだと。そして今の自分なら、その愛に応えられる。完璧に、欠けることなく。
アオイさん
もちろんです。楽しみです。
ジュン
迷いのない指先で返信を打つ。今の自分なら、アオイを、そして世界を、思うままに愛し、支配できる。そんな全能感が全身を駆け巡った。この新しい肉体、この研ぎ澄まされた精神、この完璧な自分——もう何も恐れるものはない。ジュンは春の街へ颯爽とした足取りで歩き出した。
* * *
新しいジュンがいなくなった研究室で、研究員たちは後片付けをしながら、小声で囁き合っていた。
「結局、欲望が強すぎる人間は、自らの出力に肉体が耐えられないということか」
一人が、タブレットに記録を打ち込みながら言った。
「ハイスペを望む心が、ハイスペ化を拒むなんて皮肉だな」
「ああ。#093はさすがだった」
別の研究員が、モニターに残ったデータを眺めながら頷いた。完璧なバイタルサイン。完璧なデータ転送。完璧な覚醒——すべてが、教科書通りだった。
「ところで……#094、#095、#096に起きた製造不具合って具体的に何が起きるんだ?」
「出荷時は完璧なハイスペだが、時間の経過とともに、非ハイスペへと劣化する可能性があるらしい」
「どのくらいの期間で?」
「分からない。数ヶ月かもしれないし、数年かもしれない。ひょっとしたら彼はもう非ハイスペかもしれない。個体差があるらしい」
「まあ、技術には限界があるということだ」
年配の研究員が、肩をすくめた。
「……彼がいつまで、あの完璧な夢を見ていられるか。興味深い実験材料だよ」
突然、一人の研究員が大声を上げた。
「A―004が目を覚ましそうです」
その場にいた研究員たちは会話を中断し、みな足早にA―004の周囲へと集まりだした。




