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死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します  作者: マグロサメ
第二章 マリーハイツ公約編

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第四十六話 判決

 朝の港は、潮の匂いより先に、壊れたものの匂いがした。


 濡れた木材。裂けた網。ひっくり返った樽から流れ出た油。海水を吸った麻袋。防波堤の欠けた石。冬を越すために積み上げていた備えが、海にいちど噛み砕かれたあとみたいに、そこかしこへ散っている。


 死者は出なかった。


 それでも、助かった、の一言で畳める朝ではなかった。


 担架はいまも行き来している。頭を打った者、腕を折った者、瓦礫の下敷きになって足を痛めた者。命は繋がっていても、明日からの暮らしまで無傷で済んだわけではない。割れた舟底も、流された保存食も、崩れた倉庫の壁も、ぜんぶ冬の帳尻へそのまま乗ってくる。


 シュアラは、冷えた指先を袖の内で握った。


 数える。


 数えなければ、ただ圧に呑まれる。


 崩れた防波堤、南側が三間ぶん。小型漁船、横転二、半壊三。塩漬け魚の樽、流失十七。網、破損多数。荷揚げ場の板材、交換必須。怪我人、いま見えるだけで二十を超える。数字に直したところで軽くはならない。だが、数字にしなければ取り返せない。


「……まだ増えそうですか」


 横でフィンが、小声で言った。


「物損は、はい。人は……これ以上増やしたくありません」


 答えながら、視線を前へ戻す。


 被害地区の広場だった。荷車をどけて空けた場所に、人が集められている。漁師、網元、荷運び、倉庫番、家族連れ。泣いている子どももいれば、腕を組んだまま黙っている老人もいる。怒鳴る気力もなく、唇だけきつく結んでいる顔がいちばん多かった。


 その正面に、リュシアが立っていた。


 まだ十三の、小柄な子どもだった。


 昨夜の広場で腕の中にリリーシアを抱いたあとの姿を、シュアラは見ている。背筋を伸ばそうとしている。だが、膝がわずかに内側へ入り、肩は冷えた鳥みたいにすぼまっている。顔色は白いというより、色が抜けていた。


 それでも逃がさなかったのは、シュアラだ。


 ここで隠したら、帝都がいちばん楽をする。


 死んだことにする。見えないところへ下げる。書類のどこかへ移す。そういう終わらせ方を、もう一度だけ許したら、第45話の夜に戻ってきたものまで帳簿の底へ沈む。


 だから立たせた。


 ここへ。


 カイは、リュシアの斜め前にいた。半歩だけ前だ。いざという時に割って入れる距離を、最初から測って立っている。


 その背中を見ていると、胸の奥の冷えが少しだけ均された。


 シュアラはひとつ息を吸った。


「始めます」


 大きく張った声ではない。


 だが、人のざわめきは薄く引いた。


 視線が集まる。


 広場の真ん中で、リュシアの喉が小さく動いた。


「……帝国海務院、海洋魔導計算局少技士、リュシア・フォン・クラウゼです」


 最初の一文だけで、群衆の温度が落ちる。落ちたぶんだけ、次の怒りは冷えた。


 誰かが鼻で笑った。


「ご立派な肩書きだな」


 別の誰かが吐き捨てる。


「うちの倉庫をぶっ壊したのも、その計算様か」


 リュシアの睫毛が震えた。


 それでも、逃げなかった。


「……昨日の航海、および深海契約の強制出力増幅によって、マリーハイツ港に重大な損害を発生させました」


 声は細い。だが、途中で言い換えなかったのは偉い、とシュアラは思った。事故ではなく損害。発生した、ではなく発生させた。主語を曖昧にしない。その一点だけで、帝都の書類よりずっとましだった。


「わたしの判断と、わたしの計算と、わたしの沈黙で……人を傷つけました。申し訳、ありませんでした」


 頭が下がる。


 綺麗ではない。途中で息が詰まり、最後の「でした」がひどく掠れた。


 その不格好さに、逆に何人かが息を呑んだ。


 だが、すぐに別の声が重なる。


「申し訳ありませんで、網が戻るのかよ!」

「うちの弟、まだ立てねえんだぞ!」

「謝って済むなら、海なんかいらねえ!」


 一つ怒鳴り声が上がれば、あとは早かった。


 言葉が次々に飛ぶ。家が傾いた。稼ぎが消えた。舟が駄目になった。娘が泣き止まない。冬をどう越す。誰が払う。誰の責任だ。


 どれも正しかった。


 シュアラは、言葉の一本一本を否定しない。否定できない。昨夜の波が持っていったものの重さを、帳簿上の都合で軽く見積もる気はなかった。


 その中で、女の声がひとつ、ほかより低く刺さった。


「うちの亭主、まだ起きねえんだよ」


 人垣の前から、三十代半ばほどの女が一歩出る。腕の中に、小さな上衣を抱えていた。子どものものだ。泥と塩で汚れている。


「舟は割れた。倉庫もやられた。息子は昨夜から熱出してる。あんたが頭下げたら、それで今日から飯が湧くのかい」


 リュシアが言葉を失う。


 数字では切れる。だが、目の前に出されたのは帳面の項目ではなく、乾いていない生活そのものだった。


 誰かの足元で、小石が鳴った。


 嫌な音だった。


 誰かが靴先で押し出した、小さな石。最初はそれだけだ。


 だが、人間は最初の一つが飛ぶと、次を出しやすくなる。


「待ってください」


 シュアラが口を開くより速く、石が飛んだ。


 一直線に、リュシアの額を狙った軌道だった。


 その前へ、カイが出る。


 鈍い音。


 石は肩口に当たって落ちた。


 広場が静まる。


 カイは眉ひとつ動かさなかった。石を拾い上げることもしない。ただ、前を見たまま言う。


「この子に石を投げたいなら──その前に俺を倒してからにしろ」


 低い声だった。


 怒鳴ってはいないのに、妙によく通る。


「沈める相手を選びたいなら、顔も知らねえ子どもじゃなくて──ちゃんと戦える大人から順にやれ」


 その言葉で、何人かが顔をしかめた。


 図星だったのだと思う。目の前の小さい背中に怒りを全部ぶつける方が、ずっと楽だ。けれど、それを口に出してしまえば、自分が何をしているかまで見えてしまう。


 だから代わりに、別の怒りが来る。


「子どもなら何をやってもいいのかよ!」

「庇うなよ、騎士様!」

「てめえら、結局またよそ者同士で庇い合うのか!」


 カイは一歩も引かなかった。


「いいなんて言ってねえ」


 短い。


「だから立たせてんだろうが」


 広場に、また別の沈黙が落ちた。


 そこでようやく、シュアラは前へ出た。


 カイの半歩後ろ、リュシアの斜め横。怒りがいちばんぶつかりやすく、それでも言葉が届く場所へ。


「怒るのは、当然です」


 まず、そこから言う。


「壊された物も、怪我をした人も、戻らない時間もあります。いまここで許してくださいなどとは言いません」


 群衆はまだ固い。


 それでも耳は向いた。


「ですが、殴って終わりにはしません」


 何人かが眉を上げた。


「ここでこの子を潰しても、帝都の帳簿は喜ぶだけです。責任者死亡。原因不明。再発防止は上位機関へ一任。そう書かれて終わります」


 言葉にした途端、何人かの顔に嫌悪が走る。実際にありそうだと分かるからだ。


「だから、生かします」


 シュアラは、リュシアを見ずに言った。


「この港の損害を、一銭も漏らさず計算させます。壊れた船も、網も、倉庫も、働けなくなった日数も。帝都式の“想定損耗”ではなく、この町で実際に失われた額として、全部」


 前列にいた男が、腕を組み直した。


 さっきまで喚いていた若い荷運びが、口を閉じる。


「それを帝都に出させます。補償請求書にします。再建に必要な物資の算定も、この子にやらせます。机の上にいた人間なら、机の上で返させるのがいちばん重い」


 漁師の男が、苦い顔で言った。


「そんなもん、帝都が払うと思うのか」


「払わせます」


 シュアラは即答した。


「払わなかった記録も残します。逃げたら逃げたで、その数字が次の武器になります」


 その時、フィンが息を呑む気配が横であった。少し離れた位置で、零札たちも黙って聞いている。


 リュシアはまだうつむいていた。


 だが、肩だけがさっきと違う。恐怖で縮んでいるだけではなく、逃げ道を一つずつ塞がれていると理解した人間の固さだった。


 シュアラはそちらを振り向く。


「リュシア・フォン・クラウゼ少技士」


 公の場で、肩書きまで付けて呼ぶ。


 逃がさないためだ。


「命じます。この港の被害額を算定してください。物損、人件費、操業停止による損失、応急修繕費、再建費用。使える帳簿と台帳を全部使って、一銭も漏らさず」


 リュシアの唇が震えた。


「……はい」


 かろうじて出た返事だった。


「声が小さい」


 厳しく言う。


 優しくしたら、その場しのぎの赦しに見える。


 リュシアはぐっと喉を鳴らした。


「……はい!」


 今度は広場に届いた。


 その返事のあとで、ようやく別の声が入る。


「で、あの白いのはどうなる」


 誰かがリリーシアの方を見る。


 護衛に囲まれた向こうで、リリーシアは毛布に包まれていた。目は閉じたままだが、眠っているというより、熱を出した子どもみたいに浅く息をしている。


 その問いに答えたのは、シュアラではなかった。


「深海契約が原因でした」


 年嵩の海務院士官が一歩前へ出た。


 昨日から見かけている男だ。若い連中のような保身の色が薄く、かわりに疲労が顔に出ている。たぶん、全部分かったうえで、この場へ出てきたのだろう。


「リリーシア・アルスリスの負担は限界です。これ以上、彼女を使った比較は不可能と判断します」


 広場がざわめく。


 士官は続けた。


「ついては、リリーシア抜きで、帝都案とマリーハイツ案の再検証を提案します」


 そこで、女がさっきより強い声で割って入る。


「提案、ね」


 抱えていた子どもの上衣を、女は胸に押しつけた。


「壊したのはそっちだ。提案じゃなくて、尻拭いだろ」


 士官は一瞬だけ黙った。


 その黙り方は、若い役人が逃げる時の黙りではなかった。言い返せないと知っている人間の間だった。


「……その通りです」


 後ろの方で、誰かが短く舌打ちした。


 別の誰かが「だったら最初からそう言え」と吐く。


 それでも、さっきまでみたいな無秩序な怒鳴り方ではなかった。


 シュアラは男を見る。


「純粋な航路設計の比較、という意味ですか」


「はい」


 士官は頷く。


「深海契約なしで。条件を揃えた再検証です」


 条件を揃える。


 その言葉に、まだ信じ切れないものがある。だが昨夜のように、最初から汚された盤ではない。少なくとも、ここで言質は取れる。


 シュアラは、短く考えた。


 感情で蹴るのは簡単だ。けれどいま必要なのは、帝都の顔に泥を塗ることではなく、マリーハイツとヴァルムに通る道を一度でも現実にすることだ。


「分かりました」


 答える。


「受けます。ただし、記録係は双方から出してください。航路条件、出航時刻、貨物量、乗員数、全部開示で」


 士官の目が細くなる。


「……ずいぶん厳しい」


「昨日のあとですから」


 それだけ返す。


 男は苦く息を吐いたあと、頷いた。


「妥当です」


 そこで、群衆の中からまた声が上がる。


「じゃあ、この子はそのまま働かせるってのか」


 さっきまで怒鳴っていた女だった。目の縁が赤い。たぶん、家族に怪我人がいる。


 シュアラはそちらを見る。


「はい」


 女の顔が険しくなる。


「やさしいんだね、死人文官様は」


 皮肉だった。


 けれど、シュアラはそれをそのまま受ける。


「やさしくはありません」


「だったら、なんで生かす」


 その問いだけは、広場全体の代弁だった。


 シュアラは、一拍だけ黙る。


 答えは単純だ。けれど、ここで綺麗な言葉にすると、また嘘になる。


「死ぬ方が楽だからです」


 広場がしんとした。


「ここで潰れたら、痛いのは一度だけで済む。残るのは、怒った側の手応えと、帝都の綺麗な整理だけです」


 それでは足りない。


「この子は、生きて、自分が壊したものの額を見続けるべきです。自分の計算で削ったぶんを、今度は返す側の計算に使うべきです。それが、この場で選べるいちばん重い形です」


 女はすぐには返さなかった。


 ただ、腕の中の上衣を見下ろしたあと、低く言う。


「……じゃあ、最初にうちへ来な」


 リュシアの肩が跳ねる。


「うちの亭主が何日寝込むか、舟がいくらで直るか、全部書け。見て書け。聞いて書け」


 それは赦しではない。仕事の順番を決めただけだ。


 前列の男が、小さく頷いた。


 誰かが「うちは倉庫からだ」と言い、別の誰かが「網の束も数えろ」と続ける。


 カイがそこで、少しだけ振り向いた。


「聞いたな」


 リュシアへ向けた声だ。


 低い。けれど、昨日の広場ほど硬くはない。


「ここで楽になる道は、もうねえぞ」


 リュシアは答えなかった。


 代わりに、ぎゅっと歯を食いしばった音だけが近くで聞こえた。


 群衆はすぐには散らない。


 怒りはそんなに綺麗に片づかない。けれど石はもう飛ばなかった。怒鳴り声は残っていても、いまこの場で潰して終わりにする方向からは、少しだけずれていた。


「フィン」


「はい」


「役所と倉庫組合の台帳を借ります。漁協の被害報告も集めて。仮の再建一覧表を切ります」


「もうですか」


「もうです」


 躊躇えば、そのぶんだけ帝都が整理する。


 フィンは短く頷いて走った。


 次に、零札たちへ目を向ける。


「人手を貸してください。壊れた場所の実測をします」


 零札の男が鼻を鳴らした。


「帝都の嬢ちゃんに、俺らが被害額教えるってか」


「ええ」


「気分わりいな」


「分かります」


「でも、やるんだな」


「やります」


 男は少し黙ったあと、肩をすくめた。


「……だったら、桟橋から順だ。見た目より流されてる」


 そう言って歩き出す。


 もう一人が続く。乱暴な足取りだが、止まらない。


 広場の端で、毛布に包まれたリリーシアが小さく咳いた。


 シュアラはそちらを見る。


 昨夜、青灰色の瞳で怯えていた少女。いまはまだ目を開けない。だが、その呼吸がここにあるというだけで、進める話がある。


「医者は」


 シュアラが訊くと、海務院士官がすぐ答えた。


「町医者と帝都側の術師、両方つけています」


「海へは戻しません」


 確認ではなく宣言だった。


 士官は、少しだけ目を伏せる。


「……承知しています」


 その返事を信じるほど甘くはない。だが、いまは言質で十分だ。


 リュシアが、ふいに口を開いた。


「……あの」


 誰に向けた声か、一瞬分からないほど小さい。


 シュアラが見ると、リュシアはまだ正面を向いたまま、唇だけ動かしていた。


「被害額の算定……倉庫単位で切ると、港の仕事が止まった日数の方が大きく出ます。船だけじゃなく、荷役も、塩漬けも、網の修繕も……」


 途中から、言葉が少しずつ速くなる。


 いつもの計算の声だ。


 それが逆に痛々しい。壊した側の頭が、壊したあとも正確に回ってしまう残酷さ。


 シュアラは頷く。


「分かっています。だから全部載せます」


「……はい」


 またその返事。


 今度は最初より、少しだけ人間の声だった。


 昼前には、被害地区の人の流れが少し変わっていた。


 怒鳴る者はいても、手を動かす者が増える。割れた板をどけ、濡れた麻袋を運び、怪我人を日向へ移し、仮の見積もりのために壊れた箇所を指差す。人は、怒りだけでは長く立っていられない。結局は、生きるための作業へ戻っていく。


 その中に、リュシアも立たせた。


 女の家の前だった。割れた舟板が壁にもたれ、戸口には濡れた縄が山のように積まれている。土間の奥では、男が寝台に横たわっていた。右足を添え木で固定され、顔色が悪い。


 リュシアは帳面を開いたまま、そこから先が一瞬進めなくなる。


 男の胸は浅く上下している。寝台の脇の桶には濁った水と血のついた布。土間には、海水を吸って重くなった網がまだ放り出されていた。


 リュシアの指先が、紙の端を持ったまま止まる。


「書け」


 女が言う。


「舟は半壊。網は三束駄目。亭主はしばらく海に出られない。塩場も二日止まる」


 リュシアはすぐには返さなかった。


 唇が一度開いて、閉じる。


 寝台の男の固定された足へ目が落ちる。すぐ逸らす。逸らした先に、濡れた縄と、割れた舟板と、戸口で乾ききらない泥がある。


 喉が鳴った。


「……二日では」


 そこまで言って、声が掠れた。


 小さく息を吸い直す。


「……済まない、可能性もあります」


「だったら、そのぶんも書け」


 女は容赦しなかった。


「こっちは足し算を甘くされる方が困るんだよ」


 リュシアのペン先が震える。


 インクが、最初の一文字のところで少し滲んだ。


 それでも、ようやく数字を書いた。


 ひとつ、またひとつ。


 そのたびに、目の前の男の息づかいと、紙の上の数字が結びついていく。


 シュアラは少し離れて、その様子を見る。

 袖の中で握った指先に、紙の角が食い込んだ。


 カイはさらに少し離れた木箱の上に腰掛け、腕を組んで周囲を見ている。誰かが近づきすぎれば立つつもりの姿勢だ。だが、過剰には庇わない。


 ちょうどいい位置だった。


 シュアラはその横へ行く。


「肩は」


「石一個だ」


「当たり前みたいに言わないでください」


「当たり前だろ」


 カイは前を見たまま言う。


「殴る相手を間違えさせるのも、前に立つ奴の仕事だ」


 少しだけ、シュアラは息を吐いた。


「……助かりました」


「礼は早え」


「まだ何も終わってませんからね」


「だろうな」


 そこでようやく、カイがシュアラを見た。


「でも、今日の分は前に進んだ顔してるぞ」


 シュアラは返事をしなかった。


 言い返そうとしたが、先に海風が頬を撫でた。冷たい。


 壊れた港の匂いはまだ消えない。それでも、昨夜の“終わるしかない”空気とは違う朝だった。


 遠くでフィンが叫ぶ。


「死人文官さん! 役所の奥から古い税台帳も出てきました! これ、過去三年の荷揚げ量まで追えます!」


「持ってきてください!」


 シュアラが返す。


 声が自分でも驚くほどよく通った。


 その時、リュシアが顔を上げる。


 目が合った。


 リュシアの喉が一度だけ動く。視線が揺れて、それでも逸れない。逃げたいのに、もう後ろへ下がれない顔だった。


 シュアラは、その視線を受け止める。


「あとで、再検証の条件を詰めます」


 仕事の話として言う。


 そうするしかない。


 リュシアは、ほんのわずかに背筋を伸ばした。


「……はい。今度は、条件を揃えます」


 シュアラは頷く。


「ええ。今度は最初から」


 広場の端で、潮を吸った板がきしむ音がした。


 港はまだ傷んでいる。怒りも消えていない。帳簿に乗せるべき損害は山ほどある。帝都はこれから逃げるかもしれないし、再検証だって綺麗には進まないだろう。


 シュアラは、濡れた紙の束を抱え直した。


 紙はまだ重い。端の方は乾ききらず、指に冷たく貼りつく。


 少し離れたところで、リュシアのペン先がまた止まる。


 それでも、次の数字を書くために、もう一度だけ動いた。


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