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死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します  作者: マグロサメ
第二章 マリーハイツ公約編

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第四十五話 贖罪

 黒が来た。


 海面を裂いて伸びてきたそれは、触手と呼ぶにはあまりに速く、あまりに真っ直ぐだった。狙いを考える余地はない。自分だ、と悟った時には、もう身体のどこも動かなかった。


 銀が割り込む。


 次の瞬間、目の前で黒い肉塊が断たれた。生温い飛沫が頬を打つ。鉄錆に似た臭いが鼻の奥へ刺さり、遅れて、裂けた肉の嫌な音が耳の底を震わせた。


「走れ!」


 怒鳴るというより、叩きつけるような声だった。


 リュシアははっと顔を上げた。カイがいる。ずぶ濡れの髪から雫を散らし、剣を振り切ったまま、もう次の一撃に備えていた。海へ呑まれたはずの男が、どうしてそこに立っているのか。そんなことを考える暇はない。


「止まらないで。右です。坂を上がって」


 今度はシュアラの声だった。白い手袋が石畳の路地を鋭く指し示す。


「兵は列に寄らないで。そっちへ振れます」


 短い。余計な言葉はひとつもない。


 それなのに、足は勝手にそちらへ向いていた。濡れた石畳を蹴る。靴底が滑り、転びかけたところを横から強く引かれた。細い腕のくせに容赦がない。


「……っ、ほんと、ろくでもない作戦ですね……!」


 息の隙間から漏れた悪態に、シュアラは振り向きもしない。


「聞こえています」


 素っ気ない返事だった。だが、その声があるだけで、足は止まらなかった。


 背後で海が吠えた。


 振り返ったのが失敗だった。白い飛沫の向こうで、桟橋も荷箱も兵も、全部がぐしゃぐしゃに混ざっている。その中心で、黒い触手だけが妙にはっきり見えた。先端は、逃げ惑う町人ではなく、こちらを追っている。


 喉が縮む。


 さっきシュアラが口にした仮説が、嫌になるほど鮮明に頭へ戻ってきた。帝都側を優先して狙う。管理する側を削る。だから零札を避難誘導へ回し、自分たちが囮になる。


 成立している。あんな馬鹿げた理屈が、本当に。


「前!」


 シュアラの一声で、リュシアは慌てて視線を戻した。


 目の前を、泣きながら走る親子が横切る。その列へ、帝都兵がひとり割って入ろうとした。子どもを抱き上げかけた瞬間、黒が石壁を舐めるように走る。


「寄るな! 鎧ごと追ってきてんだよ!」


 零札の男が兵の肩を乱暴に突き飛ばし、そのまま子どもを抱え上げた。今度は触手が来ない。黒い先端は兵の銀だけを追うみたいに、角の向こうへ逸れていった。


「兵隊は角までだ! 列の中に入るな!」

「婆さん貸せ、俺が上げる! お前はガキ連れてけ!」

「泣くな! 足だけ動かせ!」


 別の男が老婆を背負い、もう一人が泣きじゃくる子の手首を掴んで石段へ押し上げる。乱暴だった。だが、手は止まらない。誰ひとり置いていく気のない動きだった。


 零札が、人を逃がしていた。いちばん最後に捨てられるはずの連中が、今日は最後尾に残って、他人を上へ流している。


 喉の奥がひくついた。目の前のものを、そのまま意味にしたくなかった。


 その横を、血まみれの帝都兵がよろめきながら駆けてくる。蒼白な顔でカイの背へ縋ろうとした。


「少技士殿、お側へ――」


 言い終わる前に、黒が横殴りに薙いだ。


 短い悲鳴。兵の身体は壁へ叩きつけられ、そのまま崩れ落ちる。


 呼吸が止まった。


 見間違えようがない。標的は選ばれている。自分の近くへ寄った帝都兵だけが、ああして刈られていく。


「見るな!」


 カイの声と同時に剣閃が走る。追いすがった二本目が叩き落とされ、石畳の上でのたうった。


 露骨なまでに守られている。


 胃の底が冷えた。そんな守られ方をされる覚えが、自分にはない。


 成果を出し続けていれば、今日までは沈まずに済む。ずっとそうやってきた。そう言い聞かせていないと、夜も眠れなかった。


 なのに今、いちばん先に狙われているのは自分だった。


「足が止まっています」


 シュアラは振り返りもせず言った。


「考えるのは後です。今は上へ」


 冷たい声だった。だが、切り捨てる響きではない。生きることを先に並べているだけだった。


 また走る。


 港の湿り気が薄れ、石壁の冷たさと漆喰の粉っぽさが鼻に入る。路地は狭まり、坂は急になる。足が重い。肺が焼ける。


 触手が来るたび、カイが半歩前へ出た。斬る。払う。落ちてくる瓦礫を弾く。服が裂け、血が滲む。それでも下がらない。斬るたび、黒の先端がわずかに外れる。次の一撃が来る頃には、人の列との間に半歩ぶんの隙ができていた。


 シュアラはさらに先を見ていた。角、坂、崩れていない階段、避難の流れ。目の動きは忙しいのに、声は妙に静かだった。


「左は半壊です、寄らないで。兵は角まで。零札の人員は列の中へ。子どもを先に。列を切らさないでください」


 命令とも依頼ともつかない口調だった。それでも皆が従っていた。権威ではない。ただ、進むべき順が先に示される。その指示の出し方を、リュシアは知らない。自分が知っているのは、切り捨てる順番だけだった。


 石段の先に、広場の縁が見えた。高台。海から引き剥がせる位置。


 その瞬間、背後から圧が来た。


 今まででいちばん大きい。振り返らなくても分かる。喉が鳴り、足が竦む。追いつかれる。ここで終わる。そう思った時、不意に、前を走っていたシュアラが振り返った。


 白い手袋が、真っ直ぐこちらを指す。


「来なさい!」


 命令だった。


 切り捨ての宣告ではなく、置いていかないという命令。


 リュシアは息を呑んだまま、転がるように最後の数段を駆け上がった。


 石畳が途切れ、視界がひらける。


 広場だった。市場の屋台跡、倒れた木箱、水桶。人影はない。避難は通っている。


「止まるな、散れ! 固まるとまとめて持っていかれる!」


 カイが叫んだ直後、追ってきた黒が階段の最後の数段を粉砕した。


 轟音。


 触手の束が石段ごと食い破るように突き上がる。砕けた石片が広場へ散る。リュシアは咄嗟に腕で頭を庇った。次の瞬間、目の前へ銀が走る。


 横薙ぎ。


 もっとも太い一本が断ち切られる。切断面から噴き出した黒が、頬と首筋へ飛び散った。


 だが、今度はそこで終わらなかった。


 海の上なら、切れた端からすぐに戻った。こんなふうに、石畳の上でもだえたまま遅れることはない。黒い肉がぶつりと嫌な音を立て、次に持ち上がる二本目、三本目も半拍ずつ遅い。海の上とは、戻りが違った。


 供給が落ちている。返りが鈍い。海から引き剥がされたぶん、式の通りが悪くなっている。


「……落ちてる」


 喉が勝手に動いていた。


 シュアラが振り向く。白い手袋の先にまだ細かな震えが残っている。けれど、目だけは静かだった。


「どれくらい」


「止まりは、しません……でも、同じじゃない。返りが遅い。海の上ほど、回ってない」


「押したら」


「……器が先に壊れます」


 言い切った瞬間、自分が何をしているのか分からなくなった。敵に情報を渡しているようなものだ。けれど、もう何が敵で、何が味方なのか、その線引き自体が曖昧だった。


「分かりました」


 シュアラは一拍も置かなかった。


「カイ、あと少しだけ中央へ」


「通す!」


 カイが前へ出る。斬る。払う。受け切れない細い枝は腕と肩で強引にいなす。服が裂け、血が滲む。それでも下がらない。広場の中央へ、触手の向きだけをずらしていく。


「右、二本!」


 気づけば、口が動いていた。


 カイが振り向きもしないまま剣を返し、右から回り込んだ二本をまとめて断つ。


「次、低いの――」

「見えてる!」


 返答と同時にカイが跳ぶ。低く薙いだ黒が空を切り、代わりに噴水跡の石縁を砕いた。跳ねた石片のひとつが額を掠める。ひりつく痛みで、息が戻った。


 その時だった。


 黒い束の奥で、白いものが揺れた。


 儀礼用の白だ。首元の拘束具が青白く脈打っている。だが光り方がさっきまでと違う。一定ではない。弱く、強く、また弱く。乱れた呼吸のように不安定だった。


 リリーシアの身体が、ほんのわずか前へ傾ぐ。


 そのたびに、触手の動きも揺れる。


「……リリーシア、さん」


 声が漏れた。


 白い顔。伏せた睫毛。細い肩。こんな距離で見るのは初めてだった。


 報告書の文字が、唐突に頭へ浮かんだ。


 器:リリーシア。

 適合良好。

 制御刻印、上書き可。

 外洋運用、問題なし。


 署名欄。押印。乾くインク。


 押した指先の感触まで、今さら蘇る。


 印を押した紙は何枚もあった。名前を読まずに押したものもある。その中の一枚が、いま腕を持ち、膝をつき、呼吸している。


 息が乱れた。まるで、今になって指が汚れていたことに気づいたみたいに。


 リリーシアの膝が、石畳についた。


 その口が開く。


「……帝都は、ようやる」


 広場の空気が変わった。


 藍色の目が、まっすぐリュシアを見る。


「紙に書いて、印を押して……終わりじゃ」

「お主も知っておったろう。どこまで使えば、壊れるか」


 指先が勝手に縮こまる。知らなかった、では済まない。


 リュシアの指先が震えた。報告書の束。署名欄。押印。乾くインク。今さら汚れに気づいたみたいに、視界の全部がそこへ引きずられる。


「っ、わたしは……」


 声がひっくり返る。


「わたしは、命令で……」


「命令なら、何でも勘定に入るか」


 老人の声は、怒鳴りもしなければ嘲りもしなかった。ただ、疲れていた。


「じゃが……もう、その勘定に付き合う気はない」


 リリーシアの肩が震えた。老人の声の合間に、かすかな息が混じる。


「……や、めて……」


 今度は、少女の声だった。


 短い一言なのに、リュシアの背筋を冷たく裂いた。報告書の向こうにいたはずのものが、急に顔を持ってこちらを見た。


 視界が歪む。


 震える足で、リュシアは一歩前へ出た。


「……分かってます」


 声が小さかった。


「わたしが、この人に何をしてきたか……分かってます」


 腕を広げようとして、途中で止まる。綺麗に決まらない。膝が笑う。足元が頼りない。


「……わたしがここにいたら、また死にます」

「この人も、誰かも……また」

「だったら、いない方がいい」


 喉の奥が詰まる。息がうまく続かない。


「だから……殺してください」


「おい、リュシア!」


 カイの声が飛ぶ。けれどリュシアは振り返らなかった。振り返ったら、逃げるからだ。


「駄目です」


 即座に、シュアラが言った。


 鋭くも高くもない。静かな声だった。


 それなのに、広場の空気がぴたりと止まる。


「そこで終わったら、あいつらがいちばん楽をします」


 リュシアが目を見開く。


「一人沈めて、それで済んだ顔をするでしょう」


 シュアラは一歩だけ近づいた。いつもの整った声音のままなのに、息だけが少し浅い。


「……返しなさい」


 その声は低かった。


「あなたが壊したぶんは、あなたが返すんです」

「足りないままでいいから、返し続けなさい」


 逃がさない声だった。


 優しくない。慰めでもない。それでも、死ぬことだけは許してくれない。


 最後の触手が、ゆっくり持ち上がる。広場の石畳が軋むほどの距離まで迫り――


 止まった。


 誰の喉も鳴らない。


 風の音だけが残る。


「……やめじゃ」


 黒い先端が、微かに震える。


「お主を殺したとて、過去は変わらぬ」

「この娘も、わしも……静かに暮らしたかっただけじゃ」

「もう、関わるな」


 触手がひとつ、またひとつと下がっていく。石畳に落ちるたび、重たい音がした。


「それじゃあ……眠るからの……」


 深海の藍が、ゆっくりと消えていく。首筋の刻印の光も、弱く、細く、ほどけるように失せた。


 リリーシアの身体が前へ倒れる。


 カイが踏み出しかけた。その前に、リュシアの身体が勝手に動いていた。


 受け止めきれない。


 軽いはずなのに、重い。腕が震える。崩れた体重を支えきれず、リュシアは一緒に膝をついた。


 近い。


 こんなに近くで見るのは初めてだった。


 まぶたが、ゆっくり開く。


 青灰色だった。深海の藍ではない。


「……ここ、どこ……?」


 声が違う。


 威圧も、老成もない。かすれて、細くて、ただの少女の声だった。


「わたし……なんで、外に……?」


 視線が揺れる。広場も、石も、人影も、何もかもが分からないという顔で、少女は小さく息を呑んだ。


「海の匂いが……しない……」


 唇が震える。


「こわい……」


 その一言で、胸の奥が引き裂かれた。


 報告書には書いていない。器にも、適合にも、運用にも、怯えた声は載らない。載らないはずのものが、腕の中で震えている。


 リュシアの喉から、嗚咽が漏れた。


「ごめんなさい……」

「ごめんなさい……」


 初めてだった。数字ではない顔が、こんな重さを持って自分へ倒れてきたのは。


 リリーシアは怯えたまま、何も分かっていない顔で、その小さな背中を見た。それでも、震える手がゆっくりリュシアの頭に触れる。


「……泣かないで」


 ひどく弱い声だった。


「だいじょうぶ……だから……」


 喉の奥がまた潰れた。息を吸おうとしても、うまく入らない。肩だけがみっともなく震えた。


 シュアラがすぐ横に膝をつく。白い手袋が、リリーシアの額にそっと触れた。


「大丈夫です。もう、海へは戻しません」


 その声に、リリーシアの睫毛がわずかに震える。


 カイが周囲を睨みながら立ち位置を取り直す。まだ終わったとは言い切れない顔だったが、剣先はもうリュシアへ向いていなかった。


「軍師」


「人を呼んでください。医者も、担架も。広場には誰も上げないで」


「分かった」


 カイは短く答え、すぐに駆け出す。


 シュアラは、リュシアへ視線を戻した。


「立てますか」


 優しくない問いだった。だが、責めてもいない。


 リュシアは答えられない。涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、ただ首を横に振りそうになって、けれど腕の中の重さがそれを許さなかった。


「……立ち、ます」


 声が掠れる。


「では運びます。腕を離さないで」


 広場を抜ける風は冷たい。石畳の上には、まだ黒い体液と砕けた石が散っている。それでも、腕の中の少女はかすかに呼吸していた。


 リュシアは唇を噛み、震える膝に力を入れた。

 膝はまだ笑っていたが、腕だけは緩めなかった。


 少し離れた場所で、カイが剣を鞘に収める。金属の擦れる音が、ようやく戦いの終わりを告げるみたいに静かに響いた。


「……終わったのか」


 その問いに、シュアラはすぐには答えなかった。


 彼女はリュシアの腕の中にいるリリーシアを見た。次に、そのリリーシアに縋って泣く小さな背中を見た。


「いいえ」


 答えは短かった。


 その背中はひどく頼りなく、歩き方も不格好だった。けれど、もう逃げる足取りではなかった。

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