後編
「咲耶さん、一緒に縁日に行きませんか」
最近、すっかり雅耶の部屋に馴染んでしまった和穂である。
週末に近所の神社であるという縁日のことを聞き及び、
いつものように茶菓子を運んでくれた咲耶を誘ったのだ。
「お前、弟の前で、その姉を誘うのか」
呆れたような雅耶のセリフに、和穂はしれっと言葉を継ぐ。
「咲耶さんが、俺と二人じゃ不安だという場合、
お前も同行させるためだ、それは」
ちらりと咲耶を見遣ると、眉間に薄く皺を寄せている。
「何で私が、森君に不安にならなくちゃいけないのよ」
あちゃー、と雅耶が手で目を覆った。
「じゃあ、二人で行けますか?」
「もちろんよ」
咲耶が足音荒く部屋を出ていくと、雅耶が和穂の頭をぺちと叩いた。
「……お前。咲の扱い上手すぎ」
くくく、と和穂が笑う。
「何というか、非常にわかりやすくはある。
でも、だからといって、簡単なわけじゃない。
どちらかといえば、難易度高めだろう?
何せ、俺には『弟の友人』という肩書のハンデがある。
さて、どうしたものか」
「やめてくれないかな。
仮にも弟の前で、その姉を攻略する算段をするのは」
「でも、止めはしないんだろう?」
雅耶は、ふう、とため息を吐いた。
「……咲には、咲に相応しい場所で生きてほしいんだ。
どこかの、誰かの、単なるオマケじゃない、人生を」
「俺なら、それが出来る」
終戦から十年近く。
時代は、戦後の殺伐とした雰囲気をどうにか払拭し、
まだ見ぬ、新しい何かを生み出そうとするかのような熱を孕んでいる。
昨日よりは今日、今日よりは明日。
より素晴らしいものが待つと信ずる未来に向かって、
目に見えぬ流れは、今や奔流となって和穂たち若者を飲みこもうとしている。
飲みこまれないように――しかし、取り残されぬように。
皆、その流れに舟を出そうと、固唾をのんでその「時」を伺っているのだ。
彼女は――咲耶には、そんな流れが見えているのではないか。
それに乗り遅れまいと舟を出そうとする男たちを前に、
「女であるから」という理由で、その舟を取り上げられようとしている、
そんな、咲耶の焦燥と憤懣が、和穂にはわかるような気がした。
「咲耶さんの見ているものが、俺には見えていると思う」
「その根拠のない自信は、どこから来るんだろうね。
まあ、当たって砕けてみればいいよ。
骨は、拾ってやる」
和穂は、にっこり微笑んで見せた。
整った容貌は、こういった作り笑いを浮かべると、
一種の凄みを漂わせるようで、雅耶が嫌そうに顔を顰めた。
「やだな。強引なことはしないでくれよ。
咲を傷つけたら、許さないからね」
「俺は紳士だからな」
雅耶は、胡散臭そうに和穂を見る。
「……何で咲に拘る。
もっと面倒くさくなくて、お手頃で、綺麗なのが、
和穂の周りにいっぱいいるだろう?」
「ついでに、中味は空っぽのな。
ただ単に、見せびらかすためのモノなんかいらないね。
俺には、俺の信じる幸せを求める権利がある」
――縁日当日。
夕刻和穂が迎えに行くと、咲耶は既に玄関先で待っていた。
藍の地に、菖蒲が白抜きされた柄の浴衣を、深紅の帯で締めている。
菖蒲……元い、しょうぶ……勝負、ね。
あるいは、魔除けとかけている、とか。
和穂は、何だか可笑しくなった。
俺は、そんなに危険でアヤシイものと認識されているのか?
それなのに、夕闇が降りてくるこんな時間から、一緒に祭りに行こうとしている?
いや、もしかしたら考えすぎかもしれないが、
彼女の、この挑戦的な視線は、何か含むものを感じる。
そして、咲耶の隣には、雅耶が保護者よろしく腕を組み突っ立っていた。
口では色々言いながら、やはり心配なのだろう。
だが、お前と一緒に行くつもりはないね。
和穂は、こんばんは、と挨拶してから咲耶に尋ねた。
「どうします? 雅耶も連れて行きますか?」
その途端、咲耶は口許をぴくりとさせた。
「何故? 保護者が必要な年齢じゃないわよ。
しかも、弟を保護者認定されるなんて、心外だわ」
そう言って、和穂の前を通り抜ける。
「お前、ほんっとーに、咲の扱い上手すぎ」
そう呟く雅耶に笑って手を上げ、和穂は咲耶を追った。
浴衣姿で髪を結い上げた咲耶は、実際年相応の色気を漂わせていて、
雅耶が心配するのも最もな様子である。
「その浴衣、似合いますね。菖蒲ですか」
「花菖蒲かもしれないわね」
和穂はくくく、と笑った。
「咲耶さんは、そんな姿でも何かと勝負するつもりなんですか」
「そうよ。私は、いつも何かと戦うよう宿命づけられているんだと思うわ」
「でも今は」
そう言って和穂は咲耶の手を取った。
「薙刀は持っていない。
だから今日は俺が、咲耶さんの代わりに戦いますよ」
ぱっと顔を赤らめた咲耶が、手を引き抜こうとジタバタした。
「こんな所で、何と戦うつもりなのよ」
「咲耶さんこそ、何と戦うつもりだったんですか?」
「そ、それは……」
あんな武具を扱うというのに、咲耶の手は思いのほか小さく華奢だ。
そんな咲耶の手をいささか強引に引きながら、和穂は神社までの道を楽しんだ。
「咲ちゃん、今年もまた雅君と一緒……じゃ、ないみたいだね」
気安く声を掛けたものの、繋がれた手と和穂の顔を見て慌てて言い繕う、
そんな人たちにも、にこりと微笑んで和穂は如才なく振舞う。
「はい。今年は僕がお供しています」
「あの」
そういうのではありません、と続くであろう言葉を、
和穂は巧みに口にさせない。
「……森君。君は、何がしたいのかしら」
「わからないですか?」
いわゆる、所有権の主張というヤツですよ。
あるいは、外堀の一端を埋める地道な作業。
もしくは、貴女へ続く遠い道程の一歩。
鳥居をくぐり、二人は神社に足を踏み入れた。
夏の日も既に落ち、沢山の提灯に照らされた境内には、屋台が立ち並んでいる。
「縁日なんて、久しぶりです」
和穂は、咲耶に言った。
浴衣を着た人々が賑やかに行き交い、
露天商の威勢のいい客寄せの声が、あちらこちらから聞こえている。
「こういう猥雑な雰囲気って、ワクワクしない?」
咲耶の弾んだ声に「そうですね」と答えながら、
和穂は繋がれた手に意識が流れた。
無意識にだろう、く、と自分の手を握り締めている咲耶の手――
少し、鼓動が乱れたのは、気のせいだ。
まさか、そんな、こんなことくらいで。
和穂は、動揺を隠すように咲耶に尋ねる。
「何をしましょうか」
「それは、やっぱり金魚掬いでしょう」
咲耶は先に立ち、無邪気に和穂を先導する。
先程までとは逆の立ち位置だ。
人混みを縫って歩きながら、和穂はその手を離さぬよう、そっと力を込めた。
「咲先生! あ。先生のお友達も一緒だ!」
紅い金魚数匹と、黒い出目金一匹を下げて歩いていると、
背後から声を掛けられた。
振り返ると、先日和穂に、薙刀と剣道はどちらが強いか、
と尋ねた少女であった。
白地に朝顔の柄の浴衣を着て、ピンクの兵児帯をふわりと蝶に結んである。
手には、綿菓子の袋と、ヨーヨーを下げていた。
「美沙っ! ひとりで勝手に行ったら危ないだろう!」
その後ろから慌てて追いかけてきたのは、
恐らく少女よりも二つか三つ年上の少年である。
少女は、ぷ、と口を尖らせて言う。
「いつも遊んでいる神社だもん。ちっとも危なくないよ」
「今は暗いだろう。知らない人だっていっぱいいる」
少年は、ちらりと和穂を見た。
「咲先生とお友達は、知らない人じゃないもん。秀は、煩い」
成程。拗らせてる少年か。
和穂はその少女に向かって少し腰をかがめた。
「良く知っている場所でも、夜にひとりでいたら危ない。
咲先生も、ほら」
そう言って、繋いだ手をその少女に見せた。
「ちゃんと、手を繋いでいる」
「――っなっ!」
慌てて手を振りほどこうとする咲耶に向かってにっこりと微笑み、
身を起こすと、次いで、その少年に向かってこう言った。
「大事なものは、ちゃんと守らないといけない」
少年は目を瞬かせると、少女の手をやにわにむず、と掴んだ。
それから、和穂に向かってぺこ、と頭を下げると、
「行くぞ」と少女を促した。
少年に手を引かれて、小走りに去っていく少女を見送りながら、
咲耶はくす、と笑った。
「子供相手に何を言っているのやら」
「真剣な想いに、子供も大人も関係ないですよ」
「秀君が真剣だと?」
「子供なりにね」
和穂は肩を竦めた。
「さて、次はどこに行きましょう?」
焼きそばや飛行船焼きを食べ、射的を二人で競った。
リンゴ飴を片手に、ひよこ売りの店の前から動けない咲耶に、
和穂は意地悪く言う。
「咲耶さんはニワトリが欲しいんですか」
「ニワトリじゃなくて、ひよこです。
『大きくならない』って書いてあるわ」
「まさか、それを信じると?」
「新しい品種かもしれないじゃない。
いつか飼いたいって、子供の頃から思っていたの。
今日は邪魔する雅耶もいないし……」
「そんな生物の発達過程を無視するようなこと、
出来るわけないじゃないですか。
この『大きくならない』は、『ニワトリにならない』って
意味じゃないと思いますよ。
せいぜい、『小型のニワトリ』ぐらいの意味合いです。
すぐに赤いトサカが生えてきますよ」
「何でまたそう、夢のない事を言うのかしら。
いいのよ、大きくなったら庭で放し飼いするし、
もしかしたら卵を産むかも!」
「オスかもしれません。時の声は強烈だと思いますよ」
「……今日のところは、この金魚でヨシとしておくわ」
一通りの店を冷やかした後、二人は綿菓子を買って帰路に着いた。
賑やかなざわめきを背に、
和穂は咲耶の手を引きながら宵の住宅街を歩いていく。
上弦の月が、二人の足元に長い影を刻んだ。
「買う時には、ふんわりと袋いっぱいなのに、
家に持ち帰る頃には、小さくなっているのよ。
綿菓子って、何だかお祭りの後の、少し物悲しい気分の象徴みたい」
咲耶が、綿菓子の袋を持ち上げながら言った。
「でも、買わずにはいられないの」
「もともとスプーン一杯のザラメですからね。
それが、そんな袋いっぱいになるってことの方が、俺には不思議でしたよ」
「ふうん。そんな風に考えたことはなかったな」
「俺にとって綿菓子は、縁日の妖しさの象徴みたいなものでしたね」
「妖しさ?」
「明るい日の光の中では、大した物には見えないのに、
あの屋台の裸電球の灯りの下では、不思議と魅力的に見える。
ひよこがいい例ですよ」
ふふふ、と咲耶は笑った。
「いつか、絶対手に入れてやるわ。
そうしたら、森君に見せてあげる。
いいのよ、トサカが生えたって」
「じゃあ、これからも咲耶さんを見張らないといけないですね」
――俺が。
そんな意味を込めて咲耶を見下ろすと、
彼女は少し困ったように眉を下げた。
「生意気よ、森和穂。
年下のくせに私を見張ろうとするなんて」
和穂は足を止め、ぐいと咲耶の手を引いた。
少しよろめいて、咲耶がこちらに向き直る。
「――貴女は『女だから』という、貴女にはどうしようもない理由で、
望む道から遠ざけられようとしている。
同じことを俺にするんですか」
「何のこと……」
「僅か一年、貴女より遅れて生まれたという、
俺にはどうしようもない理由で、俺を貴女から遠ざけないで下さい」
和穂の真剣な声と眼差しに、咲耶は目を瞬かせた。
「ご存知かもしれませんが、雅耶は官僚を目指すそうです。
官僚になって、この国の舵取りをしたいんだとか。
俺は、家業の商事会社を継ぎたいと思っています。
まだ小さい会社ですが、それで世界に乗り出したいと思っている。
――一緒に」
和穂は、一歩咲耶に向かって踏み出した。
「俺と一緒に、世界に乗り出しませんか。
俺ならば、貴女を決まりきった枠の中に押し込んだりしない。
そこからはみ出すことを咎めない。
俺と一緒に、冒険しませんか」
「……冒険?」
日中の暑さが嘘のような、涼やかな風が吹き抜けた。
握っていた――というよりも、掴んでいた手をそっと放して、
和穂は首を傾けた。
「一人称の人生。
貴女が望んでいるのは、それじゃないんですか?」
誰かのオマケじゃなくて。
「……あなた、本当に、生意気」
そう呟いた咲耶は、からり、と下駄の音をさせて歩き始めた。
いつかのように、和穂はその数歩後を、ゆっくりと追う。
暫く無言で歩き続けた咲耶がであったが、
やがて、ちらり、と和穂を振り返った。
「最後までちゃんと、エスコートしなさいよ」
そう言って、手を差し出す。
月灯りに照らされた咲耶の表情が、少しはにかんだように見えた。
「冒険は大好きよ」