疑惑
ふらついたイオが地面に膝をつく前にクライスが受け止める。目の前で倒れたのだから咄嗟に手が出たといってもいい。
「おいっ、大丈夫か?!」
イオを受け止めたクライスはそのままイオをベンチに座らせると、口元に手を当てるイオの前から姿を消した。
空腹のせいもあるのか。夏場はなめてかかってはいけないと反省していると、濡らした手拭いが差し出されイオはそれを受け取り遠慮なく額に押し当てた。
「大丈夫か?」
少しばかり恐ろしい顔つきだが、心配そうに細く黒い瞳がイオを覗き込んでいる。大丈夫だと吐きだしながら身を起こして背をベンチに預けた。
「それで、誰があなたにそんな話を拭き込んだの?」
「それは―――売るような真似は出来ないが、レティシア嬢じゃない。」
濡れた手拭から片方の目だけを覗かせ睨むと、クライスは口籠りながら一度口を引き結んでしばらく考え込み、それからようやく口を開いた。
「あんたがレティシア嬢を虐めているというのは俺の憶測だ。レティシア嬢は己の失敗を俺達に告白して反省していただけで、けしてあんたを貶して売った訳じゃない。」
「見てたってのは?」
「それは言えない。」
「仲間同士で庇い合うのね。」
「仲間―――ではないが…話してくれたのがレティシア嬢の味方だから嘘を言っているとも思えない。」
味方だから口車を合わせるとは思えないのか。そんな考えも出来るなと思いつつ、お友達の騎士ではないのかと思考を巡らせる。イオは額に当てていた手拭で首の後ろを冷やし、あの日の出来事を頭の中で繰り返した。
「確かに、あの時レティシアさんは何度も頭を下げていたわ。虐めていた訳じゃないけど、他の人から見たらそういうふうに映ったかもしれないわね。」
騎士ではない人―――宿舎に勤める人間だけでも結構な数がいるし、通りかかる者も数に入れると途方もない。誰かなんて特定はできないが、少なくともその人間の目にはイオがレティシアを虐めている様に見えた訳だ。
「でも人にどう映るかってより、レティシアさん自身がどう思っているかだわ。明日にでも彼女と直接話してみる。」
けれどレティシア自身がイオを疎ましく思っていたらどうしたらいいのだろうか。女官として城に勤めていた時には虐めにあったと言うし、素直に本当の気持ちを伝えてくれるとは限らない。
「俺は彼女が心配だったんだ。ただ……すまない。」
膝をついて片方の手をベンチに添えイオに頭を下げる。危害を加えるつもりはなかったと言いたいのだろうか。
「心配しないで、ちょっとふらついただけでいたって健康なんだから。それにあなたから話を聞いてなければもっと変な噂が広まっていたかもしれないし。」
するとクライスが口籠り、何だとイオが目で促した。
「実際広がっていると思う。あんたがレティシア嬢を虐めていると結構な人間が認識しているからな。」
「ええっ、本当に?!」
結構な人間ってどれくらいなのだろう。少なくともクライスの周りはそうだと言う事か。それにその筆頭はレティシアを心配して意見して来た彼に違いない。
「そうか。そうよね。あなたもわたしがレティシアさんを虐めているって疑っているのには変わりがないし。」
「彼女を応援する男は多いからな。」
否定しないクライスに、疑いをかけられていると解っていても何故か笑えてしまった。
「みんなレティシアさんが好きなのね。彼女可愛いもの、良くわかるわ。」
するとクライスは日焼けした肌を染めて慌てだした。
「俺は別に彼女とどうこうなれるなんて思っていない。」
没落とはいえレティシアは貴族。自ら労働に従事していようと庶民からはけして手が出せない貴族には変わりがない。十分承知していると暗に含ませるクライスの言葉はイオの胸にも同様に響き渡る。
「身分の差、か。確かに難しい問題ね。」
たとえ愛し合っていたとしても貴族の結婚は当人同士だけの問題ではない。イオ達の様な平民と違って様々な思惑と問題が幾重にも折り重なって存在するのだ。
レティシアに対する不信を抱きながらもクライスはイオの体調を気にしてくれたが、大丈夫だとそのまま別れた。そして翌日仕事に向かうと、レティシアを見つけて人目につかない場所へ誘いこんだ。仕事の手を休めて話している所をサリィに咎められてはかなわない。
何かしらと薄茶の瞳を輝かせるレティシアからは、イオを恐れたり嫌ったりといった感情はまったく窺えなかった。きらきらの笑顔を向けてくれるレティシアに聞き難いと感じながらも、イオは意を決して口を開く。
「わたしがレティシアさんを虐めてるんじゃないかって噂が広がっているんだけど、知ってる?」
恐る恐ると言った感じで伺えば、レティシアから瞬く間に笑顔が失われた。
「知らないわ、なんですのそれ。まさかイオさん、わたしがお嫌いで―――!」
悲しそうに眉を寄せ瞳を潤ませたレティシアにイオは慌てて否定した。
「違うわよ、絶対に違う。レティシアさんの事はとてもいい子だって思っているんだから。ただね、そんな噂があるって聞いて、もしかしたらレティシアさんはわたしの事をあまりよく思っていてくれないんじゃないかって心配になっただけなのよ。」
「よく思わないなんて事はまったくありませんわ。何時もわたしの失敗を助けて頂いているし、とても親切にご指導下さっているんですもの。いったい何処の誰ですの、そんな根も葉もない噂を流した不届き者は!」
成敗してくれますと憤るレティシアをイオは大慌てで諌めた。
「大丈夫、噂なんてすぐになくなるから。レティシアさんに嫌われていないって事がわかっただけでわたしは十分よ!」
あえてなんでもない事の様に振舞えば、レティシアは納得できないような不貞腐れた様な表情を浮かべる。どんな表情をしても可愛い人は可愛いままなのだなと、やはりどんな表情をしても美しいままのイグジュアートを思い出した。
「でも……わたしの態度が勘違いを生んでしまったのかしれないわ。ああなんてことなの、イオさんに迷惑をかけてしまってわたしったら本当に―――」
「だからあなたのせいではないのよ、勘違いする方が悪いんだからっ!」
わたしのせいでなんて事にとしくしく泣き始めたレティシアをイオは慌てて慰めた。こんな所を誰かに見られたら更に変な噂が広まってしまうに違いない。そしてその嫌な予想通り、イオとレティシアが影でやり取りしている姿を目撃した人間によって、イオの知らないうちに新たな噂が広がっていったのだった。
その新たな噂の広がりをイオが知ったのは十日ほど後、イオが仕事中に行動する範囲で初めてクライスに出くわしたときである。
「あんた本当はどっちなんだよ!」
イオを捕まえたクライスは先日と違い脅しともとれる怖い顔に低い声色でイオを壁際に追い詰め、イオが痛みに顔を顰める程度にわざと強い力で腕を掴んで壁に押し付けた。
「レティシアさんの事なら完全な誤解よ。彼女にも直接確認を取ったら、自分の態度が勘違いを生んでしまったのかもしれないって落ち込んでいたわ。」
「逆らえなくてそう言わざるを得ない状況だったんじゃないのか。」
「あなたは噂を真に受けてわたしがレティシアさんを脅しているとでもいうの!」
「違うって言うのかよ!」
ドンと顔の真横の壁を殴られイオは小さな悲鳴を上げた。
壁に追い詰められたイオを見下ろすクライスの黒い瞳が怒りに燃えている。正義感を感じてイオに直接話を持って来たクライスだ、あの時は噂の真相を確かめようとしたのだろう。けれど今は違う。真面目そうな人間だとしても彼が信じるのはイオの言葉ではなくて―――
「まさかレティシアさんがそう話したの?」
ふいに過った不安を口にすれば冷たい眼光が突き刺さった。
「彼女はあんたに告げ口した人間を捜して俺に辿り着いたよ。そして言ったんだ、俺に縋り付いて泣きながらな。余計なお節介のせいで居辛くなった、もう耐えられないってな!」
縋り付いて泣きながら?
もう耐えられない?
今日も元気に可愛らしい笑顔を振りまきながら、慣れないながらも同じ新人のルルと肩を並べて仕事をしていた。
そのレティシアが耐えられない?
クライスはイオに脅しをかける様に顔を寄せて睨みつけて来る。レティシアを傷付けたイオに向ける怒りは本物だ。
「レティシアさんはあなたにわたしからの虐めが酷くて耐えられないって訴えたのね?」
「それ以外に何があるって言うんだ!」
「わたしのせいで、と、言ったのよね?!」
「それはっ―――だから余計なお節介で居辛くなったって泣いてたんだろ。そういう事だろうが!」
「絶対違うわ、わたしはレティシアさんをそんな風に思っていないもの!」
イオは自分を壁際に囲み込むクライスの手首を取って逃れようとしたが、鍛え上げられた騎士の腕はびくともしない。クライスは唸るイオを更に脅すかに、掴まれていない方の手でさらに肩を押し壁に押し付けた。
「ちょっと、痛い!」
「彼女はもっと痛めているだろうよ。」
イオに虐げられて心を痛めているんだと、更なる肉体的苦痛を与えてきそうなクライスにイオはぞっとした。
「今から二人でレティシアさんの所に行って話をしましょう。事実が何かすぐに解るわ。」
「あんたを前にして本当の事が言えるわけないだろ!」
「だからあなたが一緒に行くんじゃない。あなたは縋り付いて泣かれる様な相手なんでしょ。そんなに頼りになる男の人が側で加勢してくれるなら彼女もさぞ心強いでしょうね!」
僅かに逡巡したクライスだったがゆっくりとイオの拘束を解く。屈強な男の囲いが無くなりようやく息がしやすくなった。
「彼女を脅すような真似をしたらたとえ女でも容赦しないからな。」
「いいわよ。あなたの思い込みが事実なら殴ろうが蹴ろうが逃げずに正面から受けてやるわ。」
クライスを見上げ真っ直ぐに睨みつける偽りのない瞳を受けたクライスは僅かに眉を顰めたが、脅しにもめげず怒りを湛えて歩き出したイオの後に黙ってついて歩いた。
目当てのレティシアはすぐに見つかった。比較的余裕のある午後の時間帯、レティシアは休憩をとっていたのか数人の騎士らに囲まれ楽しそうに談笑していたが、騎士達はイオとクライスの姿を目にしてそそくさと仕事に戻っていく。取り残されたレティシアはいつも通りの明るさで去っていく騎士らに手を振ってから笑顔のままで二人に向き合った。
「休憩している所悪いんだけど、ちょっといいかしら?」
「なぁに? なんだか二人とも深刻そうですのね。」
無邪気に指摘しながらレティシアの薄茶色の瞳は楽しそうに細められる。
「レティシアさんに酷くするなってクライスさんから注意されたの。クライスさんはレティシアさんにもう耐えられないって泣きながら訴えられたそうだけど、本当?」
イオはレティシアに対してそんなに酷い扱いをしているかしらと問いかける。するとレティシアはきょとんとして、それからゆっくりと可愛らしい眉間に皺をつくり涙を浮かべた。
「そんなわたし……そんなつもりであなたに話したんじゃなくてよ!」
レティシアの容姿は悲痛に歪められても可愛らしさを失わない。白く柔かそうな両手を握り締め愛らしい声で訴えるレティシアに、言葉を向けられたクライスも眉間に皺を寄せた。
「俺はっ―――君が不当な扱いを受けているのだとばかり思って君の為にっ!」
あんた、じゃなく君。
イオにはあんたという癖に恋心を抱くレティシアには君なんだなと、相手は貴族のお嬢様だからまぁ仕方がないのかなと思いながらイオは二人のやり取りに耳を傾けた。
「わたしの為だと思うならイオさんに接触しないでとお願いしたのにどうして? 泣きながら訴えたのはイオさんから虐められているって意味じゃなくて、そんな噂を流されて辛いという感情が高ぶってしまっただけですのに。本当ですのよ、どうして信じて下さらないの。」
「それはっ―――その、悪かった。」
どうして、酷いわと詰め寄られるクライスはイオに見せる威勢の良さなどまるで皆無で、騎士らしい大きな体を小さくしてなんとかレティシアの機嫌を取ろうと必死で、ついには見ていられなくなったイオが間に入りこの場を治めたのであった。




