転がされる男
おかしい、どうしてだとクライスは思案に暮れていた。
イオがレティシアに意地悪をしているというのは多くの人間が知る事実だ。大抵の人間がレティシア本人から確かに聞いているのだから間違いない。宿舎で寝泊まりする人間はその宿舎で働く侍女との間でいざこざを起こしたくないのか、噂を信じなかったり知らぬ振りをする者が多いが、クライスの様に外勤が多い輩は誰もがレティシアの言い分を信じていた。
ちょっと強く持てば折れてしまいそうに小さく愛らしい努力家な彼女の為に、何とか力になってやりたいと街で見かけたイオに話しかけはしたが、そのせいでレティシアが更に酷い虐めを受ける様になってしまったのだとばかり思っていたが……本当に違うのか?
耐えられないとクライスの胸で泣いた小さく柔かなレティシアを思い出す。けれどその言葉をレティシア自身に否定されてしまった。本当に自分の勘違いだったのか、それでいいのかと仕事を終え帰路につきながら思案に暮れるクライスの前に、彼の心を支配する可愛らしい娘が顔をのぞかせた。
「とても大切なお話があるの。」
誰にも邪魔されない静かな場所で話がしたいと思い詰めた表情を浮かべたレティシアは、昼間見た彼女とはまるで異なっていた。
邪魔されない場所といわれ密室を想像してしまったがそうはいかない。夕暮れ時の静かな公園へ誘い後ろをついて来るレティシに向き直ると、眉間に皺を寄せ薄茶の瞳に零れんばかりの涙を湛えた愛しい娘がクライスを見上げていた。
「昼間はごめんなさい。ああ言わなければあなたにも危害が加えられてしまうと思って。」
「危害って―――やっぱり酷い目に合わされていたのか?」
こくりと頷いたレティシアの瞳からぽろりと涙が零れ落ちた。
「わたしの話を真剣に聞いてくれたのはあなただけだった。聞いてくれるだけで良かったのにイオさんに意見までしてくれて。そんなあなたがわたしのせいで酷い目に合わされるのはとても嫌でしたの。」
「俺は騎士だ。あんな小娘一人に引けを取ったりしない。」
昼間はイオを恐れて本当の事が言えなかっただけなのだ。クライスは何時如何なる時もレティシアの側で守ってやれるわけではない。同僚として常に側にいる人間と少しでも穏便にやっていく為にはああするしかなかったのだと気付き、クライスは己の浅はかさに苛立って強く拳を握り締めた。
そんなクライスの握り締めた拳をレティシアの傷一つない柔かな掌が包み込む。
「いいえ、彼女にはそれだけの力があるの。」
「力?」
あの娘に何の力があるというのだと怒りを湛えるクライスに、レティシアはいけないとでも言うかに首を振った。
「だってあの人は―――騎士団長の情婦なんですもの。」
レティシアの言葉にクライスは驚きと同時に戸惑いの色をのぞかせる。
「情婦? 団長の?」
騎士団長といえば王より宝剣を賜り、王族を退いたあのレオン閣下しか思い浮かばない。クライスよりも二つほど年上で王国の騎士団を束ねる長となっているが、その地位はけして血筋によるものだけではなかった。
騎士団長は剣を握った幼少期より天賦の才に溢れ、剣で彼に敵う人間はごく稀にしか存在しない程だ。高い位置から命令を下すのではなく、危険な場所には自らも率先して真っ先に駆けつけ誰からも慕われる存在。剣に生きる御方で女性に対しても誠実であると噂され、クライスもそれを信じて疑わない敬愛する騎士団長に情婦となる女人が―――いてもおかしくないのだろうが、それがまさか騎士団宿舎に勤めるあの侍女だと?
「なんの冗談だ?」
間違いじゃないのかときつい目元を緩めたクライスに、本当の事だとレティシアの真剣な眼差しが襲いかかった。
「彼女はね、カーリィーンからの難民という身分にもかかわらず、騎士団長が管理されるお屋敷の一つに住まわされておりますの。それだけではありませんわ。騎士団長の情婦でありながら恐れ多くも王太子殿下と通じられ、春風祭の夜には王太子殿下の寝所に篭られたイオさんを騎士団長が迎えに行かれたのです。しかも事が済むまでの数時間、騎士団長は控えの間にて待ちぼうけだったのですわ。」
「レティシア嬢、ちょっとまってくれ。それが事実ならとんでもない話しだぞ?」
誰かに聞かれてやしないかとクライスは声を落として夕焼け色に染まる周囲を見回す。
「女官時代の同僚から聞いた話だもの、間違いなく事実ですわ。」
貴族の娘として城に上がっていたが没落を理由に虐められ、それが原因で気楽な騎士団宿舎の侍女となりはしたが、女官時代を過ごした城内では様々な噂が飛び交っていた。けれどこれはただの噂ではなく事実だとレティシアは訴える。
迂闊に外に漏らしてはレティシア自身の命にもかかわる問題だというのは彼女とて承知しているだろう。それをこの場で話して聞かされている意味をクライスは正しく受け取る。偽りではない、事実なのだと。
「彼女は騎士団長を顎で使うばかりか、王太子殿下を誑かすしたたかな人間なのですもの。これ以上関わればクライス、あなたに身の危険が降りかかってしまいますわ。そんなのわたしは嫌。だからお願い、もうイオさんには関わらないで。わたしは話を聞いてくれるだけで大丈夫、あなたと心を開いて話せるだけで幸せなのですもの。」
イオが騎士団長に訴えればクライスを僻地へ飛ばすなど容易くできてしまう。権力の下では従うか職を失うかの選択しか与えられない。それでは嫌だ、クライスを失うくらいならイオの虐めなど苦にはならないと切実に訴えるレティシアを、クライスは不敬と知りながら自らの腕で引き寄せ抱き締めた。
「レティシア嬢―――」
「大丈夫、こう見えてもわたしは強くてよ。」
涙を流しながら強がるレティシアが愛しくてたまらない。守ってやりたくて、けれどレティシアの言葉がすべて真実ならイオという魔性の女を止める術はクライスにはないだろう。
無力な己が憎らしい。
すまないと抱き締めて来る男の胸で、レティシアは涙を流しながらも不敵に微笑んでいた。
*****
レティシアを疑う訳ではないが、事が事だけに裏を取る必要がある。クライス如き一介の騎士に特別な何かが出来る訳ではないが、やはりレティシアの為に何かをしなくてはという使命感に踊らされていた。まずは事実関係の確認とばかりにイオの監視を始めたクライスだったが、イオが帰宅する後をつけていると何かしらの邪魔が入りなかなか最後まで後をつける事が叶わない。
唯一解ったのはイグジュアートという名のそれはそれは美しい新人騎士がイオの通勤に常に寄り添い同行しているという事くらいだった。
しかもそれはかなり有名な事実であり、確認を取った同僚には今更かと呆れられる始末。何でもイグジュアートはその美貌もさることながら、騎士団長の再来と謳われる程の才能溢れる新人らしく、それでいて驕り高ぶりのない好感度抜群の将来有望株として目を付けられているらしい。
そのイグジュアートが唯一本気で怒る出来事というのが女性と見紛う美貌を囃したてられからかわれるのではなく、イオに対して嫌らしい目を向けられる事。イオへの恋慕。イオへのちょっかい……要するにイオに手を出そうとした時点で同期先輩上司関係なく稽古と称して剣を片手に襲いかかり、たとえ負けても相手が根を上げるまで執拗に襲いかかっていくというのだ。最終的にどうしようもなくなればその美貌をフル活用して危ない世界へ誘うという―――危険な新人らしかった。
そんなどうでもいい話に時間を割いている暇はない。こうしている間にもレティシアは虐げられているのだと思うとクライスの心は絞め付けられた。肝心なのはイオの動向。彼女が本当に騎士団長や王太子と通じているとして、もしかしたらそこから何かの糸口が見えて来るやもしれないのだ。愛しいレティシアを救ってやらねばという使命感からクライスは今日もイオの後をつけていたのだったが。
ふいに背後を取られ路地に引き込まれた。
薄闇迫る時間帯、後ろを取られるまで相手の気配をまったく感じなかった。腕を拘束され口を塞がれた状態で相手の顔は全く見えないが、今すぐどうこうされる気配がないのでされるままに身を任せる。
「誰の手の者だ。」
「何の話だ?」
抑揚のない声色に手がかりを掴もうと意識を集中するクライスの腕が絞め上げられ、痛みのせいで眉間に皺が寄った。
「ここ数週間、彼女を付け回しているだろう。いったい何の用だ?」
「興味がある女を知りたいと思うのは男として当たり前だろう?」
「貴様になど手の届かぬ娘だ、諦めろ。でなければ次はない。」
どんと背中を押され放り出される。慌てて振り返るがその時すでに相手の姿はなった。
話し方からして貴族―――だが相当の訓練を受けている。いったい何者だ、騎士団長がつけた護衛かとクライスは考えるが、実際にはハイベルがイオにつけている王の近衛の一人に過ぎない。けれどこの事件がクライスに間違った判断を仰がせる切っ掛けとなってしまった。
イオには間違いなく大きな力が付いている。やはりレティシアの言葉は本当だったのだと、クライスはイオが消えた先を睨みつけた。
*****
食後のお茶も済みイグジュアートが部屋に引き上げた夜更け。茶器を洗い終えたイオが居間に戻ってくるとアルフェオンが剣を磨く手を止めた。
「なにか困ったことはない?」
「困ったこと?」
イオはどきりとしたが、心配をかけたくないので素知らぬ風に何もと首を振る。
「どうして?」
クライスという男の出現で謂れのない疑いをかけられていると知ったが、もしかしたらアルフェオンもその噂を耳にしたのだろうか。アルフェオンの事だから噂を鵜呑みにしてしまう様な事はないと思うが、出来るなら同僚を虐めているなんて不名誉な噂を知られたくはなかった。イオが様子を窺っていると、アルフェオンが剣を鞘に戻してイオに座るよう促した。
「近頃元気がないから心配しているんだ。」
「元気は……あるわよ。疲れて見える?」
虐めを受けていると噂されるレティシア自身は否定してくれているが、噂が騎士達の間に広まっていると知ってから人目が気になる様になってしまった。そうなると視線を合わせた人たちが目を反らす様子が酷く気になる。誰も彼もがイオがレティシアを虐めていると思っているのか。クライスの様に確認してくれる相手は他におらず、最近彼氏と別れて沈んでいるサリィにも相談しずらくて誰にも話せず仕舞いになっていたのだ。クライスにでも会えれば聞いてみる事も出来たが顔を合わせる機会はなく時間ばかりが過ぎて行く。
誘いに従わず立ったままでいるイオの側にアルフェオンの方が歩み寄った。
「イオの所に新しく入った新人のお嬢さんがいたけど、彼女になにか言われていないか?」
「レティシアさんに?」
アルフェオンとレティシア、二人が楽しそうに腕を組んでいる場面がふと思い出された。
「イオは彼女が誰か知っている?」
「え、誰ってレティシアさんでしょう?」
何を言っているのと首を傾けると、アルフェオンは僅かに目を伏せて思案した後、やっぱりいいよと話を畳む。
そんなアルフェオンの態度を、二人の間には何かあるのかとイオは悲しい気持ちで受け止めてしまった。
語らないアルフェオンにイオもそれ以上の詮索はしない。けれどアルフェオンも他の騎士達の様にレティシアに惹かれているのかと、有りもしない噂を信じてしまっているのかと感じて、イオは心がきしきしと疼くのを必死で耐えていた。




