安らぎの場所は
指先をくすぐるような感覚がイオを現の世界へ誘う。
ゆっくりと瞼を持ちあげ刺激が与えられる方へ僅かに頭を傾けると、アルフェオンがイオの手を濡らした布で丁寧に拭う様が映し出された。
為されるがままに声をかけるでもなくぼんやり見つめていると、視線に気付いたアルフェオンが動きを止めて顔を上げる。
「おはよう。」
思わずこちらが赤面してしまいそうになる微笑みは何時もの笑顔だ。目を細めて優しく穏やかな声を向けられイオも同様に挨拶を返す。
「おはようございます。」
返答を受けたアルフェオンは笑みを深くし、視線を落としてイオの手を拭うのを再開した。
「爪の間に入り込んだのがなかなか取れなくてね。」
「ありがとう、あとは自分で。」
アルフェオンはイオの落ち着いた声に一つ頷くと、何時までも女性の手を握っているものじゃないなと冗談めかして手を離す。
「男手ばかりだったから着替えさせるわけにはいかなくて。悪いとは思ったけどそのまま寝かせたよ。」
イオはイグジュアートの血を浴びたままの状態で眠らされていた。敷布の下で寝巻きを探ると、既に血は乾いて布がごわついている。洗濯が大変だと思いながら両手を持ちあげ確認してみると、爪の間にはほんの僅か茶色に変色した血が残っているだけだった。
「イグは目を覚ました? アスギルは? 」
アスギルに眠るよう指示されそのまま受け入れたのは、信頼を寄せる彼に疑いの気持ちを抱いていなかったから。前には思わなかったが、アスギルにかかればあらゆる奇跡が可能になってしまうような気がするのはどうしてだろうか。
「アスギルはあの後すぐに行ってしまった。イグジュアートは先程目を覚まして君に会いたがっていたが、体調が万全ではないからそのまま寝台に押し込んでおいたよ。今はまた眠っている。」
「そう。じゃあ着替えたらイグの様子を見に行くわ。」
アルフェオンはイオの言葉に頷くと、離したばかりのイオの手を取り首を垂れて額に押し当てた。
「アル―――?」
思わぬ行動にイオは半身を起こして首を傾げる。
「イグジュアートを守る為に素手で暴漢に立ち向かったと聞いた。ありがとう。それから酷い目に合わせて済まなかった。」
「どうしてアルが謝るの、済まないなんてそんな事ない。」
「亡命した限り国境を越えての追手は無いと考えていた私の落ち度だ。昨夜のは審問官の勝手な行動だったとしても、私がもっと慎重になるべきだった。」
どうして自分のせいにするのか、そんな事ないと言いかけたイオだったが口を噤んだ。
俯いてイオの手を額にすり寄せるアルフェオンの肩が震えているのに気付き、アルフェオンはイグジュアートを失うのが何よりも恐ろしいのだと実感した。全てをかけてカーリィーンから連れ出したのだ、死なせてしまっては後悔しか残らないだろう。
イオは入り込める場所がないと感じ、胸につきりとした痛みを覚えたが明るい声で答える。
「家族だもの、当然よ!」
はっと顔を上げたアルフェオンにイオは、褒めてくれと言わんばかりに口角を上げ大げさに笑ってみせた。けれど隠し事の苦手なイオの寂しさを宿した瞳に気付けない程アルフェオンは鈍くはない。
アルフェオンはイオに抱かせた疎外感を否定するように腕を伸ばし、硬い笑顔を無理矢理作るイオを腕に抱き込む。
「イオもイグジュアートも同じ私の家族だ。目の前で君の命が奪われそうになれば己の命をかけて守りきって見せる。イグジュアートが君を守ってくれたなら彼にも同じように感謝する。二人とも失いたくない、君もイグジュアートも私にとっては絶対に守り抜きたい大切な存在なのだよ。」
声が震え掠れて聞こえたのは気のせいではないのだろうか。
大事に思ってくれる。イグジュアートの様に気持ちを込め、失えば同じように泣いてくれるのだろう。ふとした瞬間に築いてしまう壁にもけして叱り付けずに温もりで迎えてくれる。イオの向ける言葉や態度に傷ついてもそれを匂わせもせず、こうして手を広げて迎えてくれる温かいアルフェオンを疑った自分が恥ずかしくなった。
イオもアルフェオンの背に腕を回す。紫の瞳にはじんわりと涙が浮かんだ。
「怖かったの、すごく怖かった。イグが殺されるのも、自分が殺されるのもどっちも怖かった。だから魔法を恐れて拒絶していたのもとても後悔したわ。何もできない自分が怖かった。何もかもが怖くて怖くてたまらなかったのよ。」
怖い怖いと繰り返していると惨劇が思い出され、助かった安堵に涙が込み上げる。弱みを吐露することで心が開くのを感じた。鼻を啜りアルフェオンの胸に額を押し当てると、ぐっと力を込められさらに顔を胸に押し付けられる。
「二度とないと約束する。絶対に守ってやるから―――」
巻き込んでしまった責任もあるが、純粋に守りたい人だとの想いを伝える。イオにかけられている疑いなど今のアルフェオンにとっては馬鹿らしい問題でしかなかった。ただイオの自由が奪われる事だけは回避してやりたいと願い、イオが意識を失ってからの出来事を思い出す。
けれどアルフェオンにとっては目に見え、そこで感じたことだけが事実だ。アスギルがなんであっても恩人であるのには変わりなく、そしてイオは何があっても大切な家族だった。
*****
レオンがモーリスと共に国王への報告を済ませ、城内に設けられた私室に入ったのは夜明け前だった。薄っすらと白み始めた東の空が白銀となった世界を照らし出す瞬間、レオンは現実から逃れる様に窓の外から視線を外し寝台に倒れ込む。
魔物調査に出た疲れを引きずり都へ戻って来たそこで、カーリィーン国王の血を引くイグジュアートが刺客に襲われたとの一報を受ける。カーリィーンよりイクサーンへと国境を超え亡命して来る魔法使いは少なくなく、イクサーンもそれを受け入れ、受け入れた以上は責任を持って守る様にしている。それについてはカーリィーンも了解し、イクサーンが受け入れた亡命者に手出しをしないとの約束は何代も前の王の時代に取り付けられこれまで守られて来た。
だというのに今回の事件。
相手が王の庶子であったのが災いしたのか。アルフェオンによると男がイグジュアートの命を狙ったのはカーリィーン王国が送り出した追手というよりも、男自身の単独行動である可能性が大きいらしい。王がイオに付けていた見張りの話ではイオの命も狙っていたのは確実だというが、今現在のイクサーン王国にとってそれ自体は大した問題ではなかった。
問題はその後。イオの隣に忽然と姿を現したアスギルという魔法使いにある。
確認は取れていないがあの魔法使いが過去に世界を闇に落とした魔法使いである確率は極めて高く、そしてどういう理由かは知れないがアスギルがイオを気に入っている様子はレオン自身もその目で確認した。他者に向けるのとは明らかに違う眼差し。熱が篭っている訳ではないが、あの眼差しは大切な存在であるのは確かだと一目で感じ取れるものだった。
王がイオを手なずけろと命令して来る訳だ。王はイオをレオンに惚れさせ、いざという時に利用しようと考えたのだろう。惚れさせておきながら手を出すなとの忠告は、アスギルがイオに抱く感情が何であるのか掴めていないから。
王はアスギルを闇の魔法使いであると心内で確定していた。そして今回初めて対峙したモーリスは、あの男が闇の魔法使いだとしたらお手上げだと正直な意見を漏らす。見ただけで何が解るかと思うが、同じ魔法使いとして感じるのだと言われればそれまでだ。
しかし本当にそうなのかとレオンは感じてならない。アスギルという男はイグジュアートを二度にわたり命の危険から救い出した。しかもアルフェオンが前に話してくれた情報によると、アスギルは魔物退治に奔走しているというではないか。そして何よりも、国王でありレオンの父であるハイベルの病が完治したのはそのアスギルの力によるものだという。イオを守る対価だと勝手に治癒していったというが、世界を崩壊へ導いた闇の魔法使いの所業だとはとてもじゃないが思えない。それとも回りくどいやり方が必要な何かがあるというのか。
世界の将来に関わるとても重要な事態だったが、どう考えてもレオンが見たアスギルからは邪悪な印象は微塵も感じ取れなかったのだ。
だがレオン一人がどう感じようと国王の言葉は絶対である。イオら三人は暫くの間レオン監視の下で幽閉同然の扱いとなる。アルフェオンは話せば理解してくれるだろうが、それを実行するのが自分であるという事が嫌でならない。やらない訳ではないが、感情として正直な所はそれだ。そして何よりも気になるのはイオの反応。
「やっと仕事を与えてやれたというのに―――」
働く事を望んでいたイオから仕事を取り上げる事になってしまう。監視下に置き屋敷に閉じ込めて、命令を下すレオンを恨むのだろうなと想像すると胸が軋んだ。
大きな寝台に靴も脱がずに横になったまま寝室を見渡せば、至る事ろに見事な生花が飾られ存在を主張しているように感じた。温室で育てられた花々には野花の様な可憐さはない。
心の安らぎを失うのかと思うと急に世界が重暗く見えてしまう。
レオンは現実から目を背けるように瞼を下ろし、僅かな睡眠に現実逃避を試みた。




