無力と嘆きと救い
アルフェオンが魔物の新種確認に向かって五日目。
今回は騎士団長であるレオンも新種確認に向かったお陰で、イオの耳にも明日には一行が戻ってくるとの情報が入った。
明日は職について初めての休み。戻って来るアルフェオンの為に腕を揮おうと配達された食材を前に唸っていると、調理場に入って来たイグジュアートがくすくすと笑い声を上げた。
「明日の夜は御馳走になりそうだな。」
「別に今夜も手抜きをした訳じゃないのよ!」
仕事を初めてから簡単に作れる料理が増えたのは事実だが、今夜は何時もより手の込んだ料理であったのは確かだ。
「知ってるよ。今夜も暖かくて美味しかった。」
幽閉されていた頃は冷え切った物しか口にした事のなかったイグジュアートだ。どんなに質素な料理であったとしても、自分の為に用意される温かな食事は身も心も豊かに満たしてくれる。勿論イオも誰かの為に食事を作れるのはとても楽しい。一人きりになる寂しさを恐れる気持ちは互いが共有できる部分でもあった。
二人で話をしながら片付けを終えると、戸締りを確認して部屋に入る。「おやすみ」と就寝の挨拶を交わし扉を潜ると朝まで一人きりだ。ここに来たばかりの頃には一度だけイグジュアートがイオの部屋で眠った事があったが、イオの『今日だけ』という言葉を守ってなのか、おやすみの挨拶を交わした後にイグジュアートがイオの部屋を訪れることは無くなった。大人になっているのだ、あんな珍事がそうある筈もない。あの頃は互いに不安定な心でもあったと思い出して苦笑いが浮かぶ。
明かりを落としてどれほど過ぎたのか。深い眠りについていたイオだったが物音に気付いて瞼を持ちあげた。
「イグ?」
扉に向かって問いかけるが返事は無い。風が出て来たようで窓がカタカタと揺れており、そのせいかと思って掛布を引き寄せると、今度は明らかにイグジュアートと解る声が耳に届いた。
何だろう、隣とはいえイオの部屋にまで届く声だなんてうなされでもしているのだろうか。イオは寝台を抜け扉を開いて廊下へと出る。イグジュアートの部屋の前に立ち明らかな異変を感じ慌てて扉を押し開けると、寝台の上でイグジュアートに圧し掛かる黒尽くめの男が目に飛び込んだ。
男の手には短剣が握られ、その剣は今にもイグジュアートの喉を掻き切らんとしている。イオは声にならない悲鳴を上げ、咄嗟に側にあった椅子を掴むと男目掛けて投げつけた。
飛んでくる椅子を男が避けると、イオが投げた椅子は勢いを失わず窓に向かって飛んで行き、ガラスを突き破り外へと吸い込まれて行った。
割れた窓から風が舞い込む。その間にイグジュアートは体を捻って男から逃れ、イオはイグジュアートに駆け寄り後ろに庇うが、男が握る短剣の先は迷いなくイグジュアートを狙っていた。
「逃げろ、狙いは俺だ!」
背中に庇うイグジュアートが前に出ようとするのをイオは押し込める。いったい何故イグジュアートを狙うのかと黒尽くめの男を恐怖に震えながら睨みつけ、男の額にある物にはっと息を飲んだ。
「魔法使い?!」
頭巾に隠れてはいるが額に垣間見えるのは焼印。男の額にある印が話に聞いたそれと同じなら、目の前にいるのは間違いなくカーリィーンの魔法使いだ。
「魔法審問官、お前らなどと一緒にするな!」
冷たく憎しみの篭った声。審問官と聞いてカーリィーン出国の際にイグジュアートを追ってきていたという審問官を思い出した。額の印からして魔法が使えるのは間違いない。まさか審問官が魔法使い上がりだとは知らなかったが、執念深くイクサーンにまで追いかけて来た今の状況からして二人とも殺すつもりなのは明らかだった。
丸腰の二人に向かって男の剣が襲いかかる。
最初の一撃は逃げ果せたが、次の攻撃をかわす為に互いが左右に分かれて逃げたせいで、イオは守るべき存在であるイグジュアートと離れてしまった。そして男は迷いなくイグジュアートへと剣を突き付ける。
「やめてっ!」
悲鳴を上げてもどうにもならない。学んだ魔法もこの場で使いこなせず役に立つのは我が身だけだ。イオが男の背後に飛びつくと、イグジュアートに向けられていた剣が後ろに振り下ろされ、右腕に痛みを感じた瞬間には蹴り飛ばされ床に叩き付けられた。
「イオっ!」
イグジュアートの叫び声が上がり鈍い音を聞く。
目を開けると煌めく剣先が二本、イオの目前で交差されていた。
突然現れた見も知らぬ新たな男が審問官の剣を弾く。男が一瞬の動きで審問官の背後に回り腕を拘束して喉元に剣を寄せた。
一連の動きからかなりの使い手と見て取れる。イオ達にとっては救いの神。しかしこれで終わりでない事をイオは瞬時に感じ取っり警告の声を上げた。
「何か来る!」
しかしその警告は一歩遅く、眩い光が辺り一面を覆い尽くす。闇に慣れた目が光の攻撃に衝撃を受け瞼を閉ざした。
目を閉じたのはほんの一瞬。けれど恐怖の中ではとても長く感じる。
イオが無理矢理目を開けると辺りは暗闇に戻っていたが、その目に映ったのは倒れ込む二つの人影だ。
イオに近い位置で血を流し、目を大きく見開いたままで絶命しているのはカーリィーンからの追手である審問官。そしてもう一人は―――
「イグジュアートっ!」
床に倒れたイグジュアートに追い縋る。イオを助けてくれた男はイグジュアートの胸を押さえ止血していたが、追い縋って来たイオの腕を強引に掴んで引き寄せると、止血を試みる己の腕とすり替えた。
「治癒魔法は?!」
イオは必死で傷口を押さえながら首を横に振る。熱い血が溢れだすのを掌で感じながらイグジュアートを見ると苦痛に顔を歪めきつく瞼を閉じていた。
「人を呼ぶ。それまで絶対に手を離すな。」
言うが早いか男が部屋を出て行く。静まり返る闇の中に男が走る音だけがいやに大きく響いた。
「イグジュアート、お願いだから頑張って!」
これ以上血を流さないようにと必死で止血しながらイオは何もできない自分自身を呪っていた。
怖いからと、不安だからと魔法を拒絶してきた。便利で簡単な部分だけにしか触れず、膨大な魔力を秘めていると知らされても必要ないと魔法を恐れて望まなかった。
それに比べカーリィーンでは一瞬でイグジュアートを癒やしたアスギル。彼ほどの力が欲しいなんて贅沢は言わない。けれどせめて自分に出来る範囲で学んでおけばよかったと己を恨み後悔しながら、たった今出て行ったばかりの見知らぬ男を信じて頼り、どうか死なないでと必死の思いで傷口を押さえて待ち続ける。
*****
ちょうどその頃、レオン率いる一行は暗闇の中を王都の中心に向かって進んでいた。
本来なら都入りは明日の予定だったのだが、徐々に天候が悪化しており明日には大雪になるかもしれないと予想された為に、動けなくなる前にと夜の闇に疲れた体で馬を歩ませる。
進むにつれ風が強くなり雪まで舞い始め、誰もが一刻も早く暖炉の前に陣取りたいと願う程に体が冷え切っていたちょうどその時、前方からかけて来る人影に馬を止めた。
何者かと二人の騎士がレオンを護るように前に出て有事に備える。走ってくる影は早くからこちらに気付いているようで速度を緩めず走り寄ってきたかと思うと、前に出た騎士が声を発する前に怒鳴るように叫んだ。
「イグジュアート殿が追手に!」
男の顔に見覚えのあったアルフェオンは、それだけを聞いて直ぐ様馬の腹を蹴り全速力で駆けだした。イオを監視していた男で、男からは血の生臭い臭いがしていたのだ。
状況を察したレオンは男がモーリスを呼びに向かっているのだと理解し、手の内の騎士二人をモーリスの屋敷へと向かわせ、同行していた結界師を屋敷へ行くよう命じる。それを見届けた男は一礼して踵を返し、レオンがそれに待ったをかけたが男は急いでいるからと来た道を戻って行こうとした。
纏う衣服は異なるが王の近衛騎士であるのには間違いない。国王の命令を受けイオを監視してたのならレオンの命令など後回しだろう。
イグジュアートも心配だがイオがどうしているかも気になった。レオンは後続の騎士に男を乗せる様に命じると自身も馬の腹を蹴りアルフェオンを追う。
先に駆けだしたアルフェオンは屋敷につくなり声を上げた。イグジュアートとイオの名を叫びながら階段を駆け上がり開いたままの扉に向かって駆け込むと、割れた窓から容赦なく冷たい風が吹き付け、蹲るイオの長い銀の髪を渦巻く様に巻き上げていた。
「あ…アル―――イグジュアート様がっ!!!」
イオの悲痛な叫び声に竦んでいた足が動き出す。遺体となった男を飛び越し仰向けに倒れたイグジュアートの側に膝をついた。意識は無いが革の手袋を外して首の動脈を確認するとかなり早いが脈はある。しかし暗闇の中でも解る程におびただしい血が流れ出していた。
後に駆けつけた結界師が魔法で明かりを灯すと更に悲惨な光景が浮かびあがる。暗闇の中で見るよりも赤く、そして大量の血液が辺りを埋め尽くし、イグジュアートの顔も唇も真っ青だった。しかも冷え切った空気に曝され皮膚は冷たくなっているのに、額には粒となり滴る程の汗をかいている。
これ以上の出血は許されない。結界師はイオに止血させたまま治癒を始めるが、流れる血を止めるだけで精一杯だった。魔力を使い果たし大きく肩で息をつき始めたちょうどその時、レオンが駆け付け惨状に息を飲む。
「どうした、治療を続けないか!」
「これ以上は無理です!」
力量にも限界があり、この結界師に出来るのはここまでだ。有り余る魔力を分け与えられたらどんなによかっただろうと震えるイオの前から、イグジュアートの体が取り上げられた。
「イグっ―――」
「他に運ぶ。」
破れた窓からは雪が吹き込んでおり凍えるように寒い。アルフェオンは抱え上げたイグジュアートを隣にある自分の部屋へ運び込み、イオは真っ青になりながらも暖炉に火を熾して部屋を暖めた。追加の薪を放り込んでいるとレオンに腕を取られる。
「怪我をしている。」
「こんなの平気。」
忘れていた傷に気付かされ痛みが走ったが、イオは何でもないと首を振って暖炉に薪を投げ入れると、直ぐ様寝台に寝かされたイグジュアートへと駆け寄った。
他に傷がないか体を確認していたアルフェオンから「くそっ」と悪態が漏れ、イオが覗き込むと腹部が真っ青に鬱血し膨らんでいた。
内臓に損傷があり、それもかなり酷くやられている。直ぐに処置しても人為的な救命は困難だ。魔法での処置を急いでも間に合う可能性は極めて低い。ぎりっと奥歯を噛みしめるアルフェオンの様子にイオの不安は大きくなる一方だった。
安心させるようにモーリスを呼んだとレオンは言うが、イグジュアートの様子は目に見えて悪化の一途を辿る。力を使い果たした結界師を振りかえると視線を外された。もう無理と宣告された気持ちになり、それを否定したくて再びイグジュアートの様子を伺うと、脈は更に速くなり、そして打ち付ける力は極めて弱くなってしまっていた。
どうしたらいい、どうしたら。モーリスの到着を待つしかないのは解っているが、それまでイグジュアートが頑張れるのかと不安だけが全てを覆い尽くす。
「イグジュアート!」
突然アルフェオンが大声でイグジュアートの名を呼ぶ。呼吸が低く今にも消えてしまいそうな状況にイオは震えた。
「イグっ、お願いだから頑張って。お願い誰か―――!」
いったい誰に縋ればいい。イグジュアートを助けてくれるなら自分はどうなっても良いとイオは、そしてアルフェオンも同様に祈り、必死にイグジュアートの名を呼んだ。
モーリスは間に合わない。それに間に合ったとしてもこんな状況で対処できるのだろうか。イオの出会った最高の魔法使いはいつでも呼べと言ってくれたが、居場所も知らないのにどうやって呼べばいいというのだろう。それに彼はモーリスよりもさらに遠い場所にいるに違いなく。
「アスギル―――お願いアスギル、イグを助けて――――っ」
どうすればいい、どうすれば助けられるのと必死に問うても誰も答えてはくれない。
涙に擦れた声で祈るように必死に訴える。祈ってどうなる訳ではないが藁にもすがる思いだ。誰かに頼るしか出来ない無力さを痛感し、悔しさでいっぱいだった。
そんなイオにふわりと暖かい腕が回され、優しく肩を抱かれる。
はっとして涙に濡れた瞳を開けると、黒く埃っぽいローブが目に入った。
「大丈夫です。必ず助けるから安心なさい。」
驚き声の主を見上げると、ここにいない筈のその人が赤い瞳を優しく細め、穏やかに微笑んでイオを見下ろしていた。




