第五話 過去〜ルイside
リーゼロッテ第一皇女とのお茶会が終わり、気付けば私は客室へと戻っていた。
ここまでいつ、どうやって戻って来たのか……思い出せない。
こんなことは初めてだった————。
私の名はルイ・ヴァロワール————ヴァロワール王国の第一王子であり、つい数ヵ月前まで王太子だった男だ。
私と元婚約者の関係は、はっきり言って最悪だった……と言ってもいいだろう。
幼い頃に婚約した当初は、まだ良かったのだと思う。
————しかし、そんな関係はすぐに終わった。
元婚約者はヴァロワールの公爵令嬢で、ここ数代の間で王妃を輩出していなかったという理由で『選ばれただけ』の女だった。
高位貴族令嬢としては——まあ、優秀な方なのだろう。
だが、私からしてみれば他の者と大差なく見えていた。
自分で言うのも何だが、私は幼い頃から異様に『記憶力が良い』。
……いや、『良すぎた』のだ。
一度読んだ書物の内容はページ数まで全て記憶し、二度と忘れることはない。
私にとっては、それが『当たり前』のことで『普通』のことだった。
だからこそ、この記憶力のことを知った教師や臣下たちが「天才だ!」「さすが王太子殿下だ!」と騒ぎ立てる意味が分からなかった。
確かに『普通の者』からすれば、素晴らしいことなのだろう。
しかし、記憶力が良いというのは決して良いことばかりではなく、嫌なこと、悪いことも忘れることなく『全て覚えている』ということに気付く者はいなかった。
それこそ、国王である父や母でさえも…………。
『過ぎたこと』となるのは、その記憶を『忘れた者』だけなのだ。
忘れることが出来ない私からすれば言われた言葉、やられたこと、全てが昨日のことと同じように鮮明に思い出せるのだ。
それこそ、その時に雨が降っていたなら雨の匂い、その相手の服装、ドレスの色、髪型…………何一つ忘れることなどない。
もちろん人間関係において、全く不快な思いをしないということが難しいことくらい分かっている。
だが、一度投げ付けられた言葉や視線、表情が、いつまでも頭の中に残り続けるのだ。
「殿下、もう少し他の者の意見に耳を貸して差し上げて下さい」
「……何故だ? 事実は事実だろう?」
ある年——大雨の影響でとある地方の川が氾濫し、橋が落ち、田畑が流され、多くの民の命が失われることとなった。
早く復興するには、その村を捨て、別の土地に新たに村を作り直した方が効率的だ。
しかし、その村の住人たちは生まれ育った土地から離れることを嫌がった。
復興する為に国庫から支援金を払うことになっており、再び同じ土地に村を再興するには堤防を作り、橋を掛け直し、村に流れ込んだ土石などを除くなど……どれほどの時間と金が掛かるか分からない。
国庫の金は有限で、たかが一つの小さな村にそこまで金を掛けるわけにはいかないのだ。
貴族院会議の場でそう発言した私に対し、元婚約者が会議後に苦言を呈してきた。
「それはもちろん存じております。ですが効率だけではなく、もう少し被害にあった者たちに寄り添って……」
「寄り添えば事態は変わるのか? 金が増えるのか? 村が元に戻るのか? それよりも普通の生活に戻す方が村民の為になるのではないのか?」
そう問い掛けた私に対し、元婚約者は顔を歪め苦悶の表情を浮かべた。
……いつもそうだ。この女はいつも私の言葉に「他者に寄り添え」だの「もう少し柔らかく言え」だの、苦言を呈してくる。
その度に事実を問えば、この表情を浮かべる。
まるで私が悪いかのように、軽蔑したとでも言うかのように。
お前は私に寄り添ったことなど、一度たりともないくせに————。
しかし、それは元婚約者に限った話ではない。
両親や弟、臣下たちも同様だ。
「王太子殿下は優秀だが、いかんせん融通が利かない」
「他者に寄り添えることができる婚約者がいなければ、王太子としてやっていけないだろうに……」
「それに比べ、第二王子殿下は他者の言葉に耳を傾けることが出来る。国を思えば第二王子殿下を王太子の座について頂いた方が良いのでは?」
このような言葉は何度も聞いた。勝手なことばかり……ならば、お前たちが寄り添えば良い。
口ではそのような綺麗事を言い「ならば、他に案があるのか?」と問えば、一様に黙り込むくせに。
…………鬱陶しい。
そうして私は、人の心を持たない『氷の王子』と呼ばれるようになった。
それは王立貴族学園に入学しても変わらず……だが、二年生になった頃に変化が訪れた————。
「あっ!すみません!!」
それは昼休みに校内を側近たちと歩いていた時だった。
教室へ戻ろうと廊下の角を曲がると、何かがドン!と私の体にぶつかって来た。
人にぶつかったことに気付いたその令嬢は、はっと顔を上げて私の顔を確認した後、謝罪の言葉と共に勢い良く深く頭を下げた。
その様子は私の知る貴族令嬢の物とは全く違った。
「何だその態度は!! 王太子殿下に無礼だろう!!」
「えっ! 王太子殿下……!? す、すみません!! わたし、辺境出身で王太子殿下の顔を知らなくて……!!」
側近の一人が怒鳴りつけると彼女は再び勢い良く頭を上げて、その大きな瞳に涙を浮かべた。
普段の私なら捨て置いただろうが、貴族令嬢あるまじき言動に興味が湧いた。
「……名を、何と言う?」
「……え? ……あっ! すみません! わたしはアッシュベリー子爵家のアリスと申します!」
予想外の反応に驚いたように一瞬呆けた顔をしたが、すぐに名を問われていることに気付き、拙いカーテシーをしながら自分の名を名乗った。
アッシュベリー子爵家……確かに辺境に領地を持つ家だったな。
特筆すべき事柄のない家門で、領主一族は殆ど領地から出てくることがないと聞く。
「……そうか。貴族令嬢なら廊下は走るな。……以後、気を付けろ」
「は、はい!! ありがとうございます!!」
私の言葉ににっこりと笑い、再び頭を深く下げた。
その後、何故か彼女と出くわす機会があり、その度に言葉を交わすことが増えていった。
今まで周囲にいた貴族令嬢たちは私の顔色を窺い、喜色を浮かべ頬を染めるか、元婚約者のように内心では何を思っているか分からないような作り物のような笑みを浮かべる者たちばかりだった。
聞けば殆ど領地から出なかった為、貴族令嬢としての礼儀作法やマナーを気にすることなく育ってきたらしい。
そのうち偶然出くわすのではなく、共に昼食を摂ったり、勉強を教えてやったりと……少しずつ交流が増えていき、互いのことを「アリス」「ルイ様」と呼び合うようになるまで時間は掛からなかった。
感情が素直に表情と言葉に表れるアリスが私には眩しく、そして楽だった。
いちいち言葉の裏を読む必要もない。
少し疲れたように溜め息を吐けば、「大丈夫ですか? 何か疲れていませんか?」と気遣ってくれる。
元婚約者との間にはないものばかりだった。
そんなアリスを好む者は当然私だけではなく、多くの貴族子息たちがアリスを慕っていた。
そして、そのことを良く思わない令嬢たちから嫌がらせを受けた。
分かった時点でその令嬢たちには警告をしたが、そのうち元婚約者がアリスや私に苦言を呈してくるようになった。
「————アッシュベリー子爵令嬢。何度も申し上げておりますが、婚約者でもない子息との距離を考え直して下さい」
「そ、そんな……わたし、何も……。皆さん、ただのお友だちで……」
「何をしている!!」
アリスが呼び出された報告があり急ぎ駆け付ければ、元婚約者を始めとした数名の令嬢に囲まれた彼女の姿があった。
ディープローズクォーツのような瞳に大粒の涙を浮かべ、怯えたように体を縮こまらせている姿を見て、私はカッとなり思わず彼女の側に駆け寄り「大丈夫か?」と問い掛けた。
見たところ、体に傷を付けられたような痕はなさそうだ。
アリスは「はい……」と小さく頷いたが、それまで堪えていた涙が同時に零れ、その様子に胸が締め付けられたように痛む。
私は彼女を庇うように元婚約者たちの前に立つと、強く睨み付けた。
「……一人の下位貴族令嬢を複数人で囲むなど……公爵令嬢として、人として、恥ずかしくないのか?」
「……わたくしは殿下にも何度も申し上げました。アッシュベリー子爵令嬢との距離をお考え下さいと……」
「私が誰と交流しようとお前には関係ないはずだ。私とアリスは疚しい関係ではない。……なのに、このような真似をするなど……ただ単にお前の嫉妬心をアリスにぶつけているだけではないのか?」
私の言葉に元婚約者は顔を歪めた。……また、この表情だ。
いつも私が何かを言えば、この表情をする。
「図星なのだろう? ……実に醜いな……」
その瞬間、元婚約者の表情は悲痛に満ちたものに変わった。
————傷付けた。いつも私を傷付ける言葉しか吐かないこの女が、今確実に傷付いたのだ。
私の中に歪んだ……仄暗い感情が湧き上がったのが分かった。
その日から私は元婚約者を徹底的に『拒絶した』。
だが、その代わりにアリスの持ち物が壊されたり、制服が破られたり……嫌がらせが悪化した。
アリスに嫉妬した令嬢や、元婚約者の意を汲んだ者の仕業なのは明らかだった。
「……ルイ様は悪くありません。わたしたちは何もしていないのに……嫌がらせをしてくる方が悪いに決まってます!」
「……アリス…………。私は婚約を破棄しようと思う。こんなことを仕出かす……いや、直接指示したわけではなくとも自分の取り巻きの管理も出来ない者が王妃に相応しいわけがない。……だから、アリス……もし、婚約が無事に破棄出来たら……私と婚約してくれないか?」
嫌がらせで破り捨てられた自分のノートを前にしても、アリスの心は決して折れなかった。
————そんな強さが、私には眩しく映った。
だから元婚約者との婚約を破棄し、アリスを新たな王太子妃に迎えようと思ったのだ。
私の隣に立つのは、アリスだけだと————。




