第1話 52歳の男
俺は、52歳になる。
朝、鏡を見るたびに思う。
――老けたな。
額は昔よりずっと広くなった。
髪も薄くなった。
腹は出ている。
顔にはシミが増え、若い頃にはなかった疲れが、いつの間にか顔に染みついていた。
いわゆる、どこにでもいる中年男。
建設会社で働いている。
資格は運転免許しか持っていない。
会社からは、もう何年も前から言われている。
「よしおさん、そろそろ資格取ったほうがいいですよ」
特に言われるのが、1級土木施工管理技士だった。
「分かってます」
俺も、分かっている。
本当は取りたい。
資格を取れば給料も変わる。
仕事の幅も広がる。
何より――
52歳になった今からでも、何か一つくらい、自分の力で成し遂げたかった。
だから参考書も買った。
机も用意した。
仕事から帰ったら勉強する。
そう決めていた。
その日も、仕事を終えて家に帰った。
時計は午後7時半。
飯を食べ、風呂に入り、机に向かった。
参考書を開く。
最初のページを読んだ。
「施工計画……」
眠い。
だが、今日はやる。
そう思った。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
「もしもし?」
『よしお、今どこや?』
「家やけど」
『飲みに行こうや』
「今日はええわ。勉強せなあかんから」
『また勉強かいな』
「試験近いからな」
『一杯だけやって』
「いや、ほんま今日は――」
『付き合い悪いなぁ』
その言葉を聞いた瞬間、俺は黙った。
昔からそうだった。
断ればいい。
ただ、それだけのことなのに。
「……一杯だけやぞ」
『さすが、よしおや!』
電話を切る。
俺は参考書を閉じた。
そして、家を出た。
そのときはまだ知らなかった。
俺が人生で何度も繰り返してきた、
「まあ、一日くらいええか」
という選択が、どれだけ自分の人生を変えてしまうのかを。
◇
店に着くと、友人たちがすでに集まっていた。
「おう、よしお!」
「遅いやんけ!」
「今日は飲めよ!」
「俺、酒弱いからな」
「何言うてんねん。男やろ」
笑い声が飛ぶ。
俺も笑った。
そしてビールを渡された。
「乾杯!」
グラスを合わせる。
最初の一杯はうまかった。
二杯目からは、少し苦しくなった。
三杯目になると、もう何を話しているのか分からなくなってきた。
それでも、みんな楽しそうだった。
「よしお、今日の会計頼むわ!」
「え?」
「あとで割り勘するから」
俺は財布を出した。
「……分かった」
会計を済ませる。
店を出ると、友人の一人が俺の肩を叩いた。
「やっぱり、よしおは男やな!」
その言葉を聞いて、少し嬉しくなった。
俺は、こういう言葉に弱かった。
男気がある。
頼りになる。
仲間を大切にする。
そんなふうに言われると、断ることができなかった。
家に帰ったのは、午前0時を過ぎていた。
机の上には、閉じたままの参考書。
俺はそれを見た。
「……明日やればええか」
そう言って、寝た。
翌朝。
頭が重かった。
会社へ向かう車の中で、昨日のことを思い出す。
勉強できなかった。
まただ。
そう思った。
それでも、
「今日は絶対やろう」
そう自分に言い聞かせた。
◇
そんな生活を繰り返していたある日。
俺は、つばさという女性と出会った。
23歳。
俺とは29歳も年が離れている。
最初に会ったとき、正直に言う。
――綺麗な子だと思った。
小柄で、細身。
清潔感があって、派手ではない。
静かな雰囲気なのに、目には芯があった。
話をしていると、仕事にも真面目だった。
無駄遣いもしない。
休日にはボクシングジムにも通っているらしい。
「休みの日まで運動するん?」
「はい。体を動かすのが好きなので」
「偉いなぁ」
俺は笑った。
つばさは笑わなかった。
いや、正確には――
小さく微笑んだ。
その表情が妙に印象に残った。
俺は、彼女と話すうちに、自分がどんな女性を求めていたのかを初めて考えた。
俺は、堅実な女性が好きだった。
仕事をしていて。
無駄遣いをせず。
家庭を大切にして。
俺のことを支えてくれる女性。
そんな女性と結婚できたら――。
俺の人生も変わるかもしれない。
そう思った。
そして俺は、まだ知らなかった。
つばさが求めている男性が、
俺とはまったく違う人間だったことを。
俺が彼女に惹かれていくほど、
彼女が俺の人生から離れていくことになることを。
そして――。
この恋が終わったとき、俺が初めて、
「自分の人生を自分で選ぶ」
という意味を知ることになることを。




