帰る場所
第2部最終話。
雪が降っている。
ストーンクロスの集落の壁の上に立つと、灰域が白く染まっていくのが見えた。灰原草の穂が雪に覆われ、鉄錆色の大地が少しずつ消えていく。旧世界の廃墟の輪郭が雪に溶け、灰色と白だけの世界が広がっていた。
カイは壁の上に座り、足をぶらぶらさせていた。
壁の高さは5メートルほど。旧採石場の断崖を利用した自然の防壁に、コンクリートと鉄板を積み上げた人工の壁が接いである。ストーンクロスの外周を囲む壁は、バートンが15年かけて築いたものだ。
旅を思い返していた。
ラストヘイムを出た日のことは、もう遠い記憶になりかけている。ガルドの旧型作業車で砂の道を走り、枯れた河川を渡り、鉄道橋の下をくぐった。あの日から何ヵ月が経ったのか。
変わった。
自分が変わったことを、カイは自覚していた。ラストヘイムの外を知った。鋳脈を知った。父の影を追い、銘殻を手にした。名前も知らなかった集落の人間と話し、灰谷の子供に「また来てね」と言われた。セルヴィスの軍人と焚き火を囲んで、芋の食べ方について話した。
だが何のためにこれをしているのか。
カイは問い直す。
テオが守ろうとしたものを守る。鋼城を止める。そう宣言した。だがそれは、テオの遺志であってカイの意志ではないのではないか。父がやり残したことを引き継ぐのは、自分の選択なのか、それとも父の影に引きずられているだけなのか。
足元の壁に、雪が積もっていく。白い粒が音もなく落ちてきて、灰色の石の上に留まる。
違う、とカイは思った。
テオの遺志だから動いているのではない。灰谷の子供の顔を思い出す。「また来てね」と言ったあの少女。ストーンクロスの広場で走り回っている子供たち。ネイサンの味覚を失った舌。リーナの疲弊した声。ゲオルグの「帰って来い」。
全部、自分の目で見たものだ。
自分の足で歩いて、自分の耳で聞いて、自分の手で触れたものだ。テオの遺志が最初のきっかけだったとしても、今ここに立っているのは、カイ自身の足だった。
足音が聞こえた。
リオンが壁の階段を上がってきた。軍服は既に脱ぎ、暗色の戦闘服に切り替えている。だがブーツだけはセルヴィスの支給品のままだった。磨かれた黒いブーツが、雪の上に足跡を刻む。
「何を考えている」
リオンが隣に立った。壁の上から、同じ景色を見ている。
「帰る場所のことを」
リオンは少し間を置いた。
「あなたにはラストヘイムがある」
「ああ。ゲオルグとクレアとタリアがいる。壊れた水道管と、直しかけの残殻と、ガルドが隠してるつもりの酒瓶がある」
「賑やかだな」
「うるさいだけだ」
嘘だった。あの雑然とした集落の全てが、カイにとっての「帰る場所」だった。
リオンが壁の縁に手を置いた。
「4日が過ぎた」
声は静かだった。
「今日をもって、私はセルヴィス防衛機構の脱走兵になった。帰還の猶予は消えた」
カイはリオンを見た。
リオンの横顔は静かだった。覚悟を決めた人間の静けさ。だがその目の奥に、喪失がある。故郷を捨てた痛みは、覚悟で消えるものではない。
「灰域は広い」
カイは同じ言葉をもう一度言った。あの丘の上で言ったのと同じ言葉。
「場所ならある。足りないのは、手だ。お前の手は、ここで必要だ」
リオンが振り向いた。
紺色の目がカイを見ている。一瞬、何かを言いかけて、やめた。代わりに、小さく頷いた。
ガルドが壁の下から声をかけた。
「お前ら、いつまでそこにいるんだ。部品の点検が終わってないぞ」
トワが苦笑している。
「おじさんの昔話は後で聞くよ」
「誰がおじさんだ」
カイは壁の上に立ち上がった。
ストーンクロスの集落が眼下に広がっている。旧採石場の地形を利用した街並み。煙突から上がる煙。交易所の前で荷物を運ぶ人影。壁の内側には、800人の暮らしがある。
ここが帰る場所になる。ラストヘイムと同じように。
いや、ラストヘイムとは違う。ここは、自分の足で歩いて辿り着いた場所だ。
壁の階段を降りようとした時、カイの目が東の空に留まった。
煙が上がっていた。
ストーンクロスの東。集落の東端に設置された哨戒陣地の方角。薄い黒煙が、灰色の空に一筋伸びている。
カイの心臓が凍った。
「まさか――」
リオンが同時に気づいた。体が一瞬で軍人のそれに切り替わる。
「哨戒陣地からの煙だ。発煙信号。接敵を知らせている」
カイは壁の階段を駆け下りた。
ケストレルの格納庫へ。推力を全開にすれば、哨戒陣地まで6分。6分で着く。その間に何が起きるか。
壁の上で、リオンが通信機を掴んだ。
「バートン。東の哨戒陣地から発煙信号。接敵の可能性。全防衛隊に待機命令を」
バートンの声が即座に返った。
「了解した。全門を閉鎖する。カイは」
「もう走っている」
カイは走りながら、東の空を見た。
煙はまだ上がっている。一筋だけ。攻撃を受けているなら、もっと煙が出るはずだ。偵察部隊との接触。まだ本格的な戦闘には至っていない。
だがそれは、始まりだった。
ケストレルの格納庫に飛び込んだ。
鉄紺色の機体が、薄暗い格納庫の中で静かに立っている。背部の翼状スラスターが、天井の低い空間の中で折り畳まれている。傷だらけの装甲。17年分の修復痕。父の機体。ガルドが鋳脈機構を外し、カイのために直した銘殻。
コックピットに乗り込む。
ハッチが閉まる。計器が一つずつ点灯していく。燃料残量87%。機関温度、正常。関節負荷、全域グリーン。通信回線、オープン。
ケストレルの目が光った。
カイは操縦桿を握った。
掌に馴染む感触。父が握り、ガルドが調整し、今はカイの手にある操縦桿。
旅は終わった。
ラストヘイムを出て、灰域を歩き、父の足跡を追い、仲間を得て、帰ってきた。だがここから先は、旅ではない。
格納庫の扉が開く。
冬の白い光がコックピットに差し込んだ。雪が舞っている。東の空に、まだ煙が細く伸びている。
セルヴィスの偵察部隊が、ストーンクロスの哨戒圏に触れた。
新しい戦いが、始まろうとしていた。




