名前
灰原草の白い穂が、雪のように揺れていた。
ストーンクロス近郊の丘。旧世界の送電塔の残骸が、灰色の空に骨のように突き出している。錆びた鉄骨の間を風が抜け、低い唄りを立てた。
カイは丘の上に立っていた。
眼下にストーンクロスの稜線が見える。旧採石場の断崖を利用した集落の外壁。煙突から上がる細い煙。人の営みの気配。あそこに戻れば、また忙しくなる。2週間の猶予。バートンに報告し、集落の防備を固め、周辺の集落に警告を出す。やることは山ほどある。
だが今は、少しだけ立ち止まっていたかった。
リオンが隣にいた。
二人とも立ったまま、ストーンクロスの方角を見ている。風が強い。リオンの黒髪が風に流れ、頬にかかった。
「何を考えている」
リオンが聞いた。
「別に」
「嘘だな。考え事をしている時、あなたは右手の指を動かす癖がある」
カイは自分の右手を見た。確かに、無意識に指が動いていた。工具を握る時の癖だ。考え事をする時に出る。リオンに見抜かれていることに、少し驚いた。
「帰る場所のことを考えていた」
「ラストヘイムか」
「ラストヘイムもそうだ。でも、それだけじゃない」
カイは風に目を細めた。灰原草の白い穂が丘の斜面を覆い、風に波を作っている。冬の入口の灰域は、灰色と白の世界だった。
「旅に出る前は、ラストヘイムが全てだった。あの集落の外に世界があることは知っていたが、自分には関係ないと思っていた」
「今は違うのか」
「今は、関係ないとは言えない。ストーンクロスも、灰谷も、ブリッジトンも。会った人間の顔が、全部残ってる」
リオンは黙って聞いていた。
「親父が守ろうとしたものが、少しだけ分かった気がする。一つの集落じゃない。この大地の上にいる人間全部だ。でかすぎて、俺には手に負えない」
「手に負えないと分かっていて、それでも動くのか」
「動かなきゃ、親父と同じだ。分かっていて、何もしなかった」
言ってから、カイは自分の言葉に少し驚いた。テオは「何もしなかった」のではない。全てを賭けて動いた。だがカイにとって、テオは「いなくなった人」だ。動いた結果、消えた人。
リオンが口を開いた。
「私には、帰る場所がなくなるかもしれない」
声は平坦だった。感情を排した、報告のような口調。だがその奥に、かすかな震えがあった。
「セルヴィスに戻れば裏切り者だ。参謀長の娘が脱走兵になる。母を苦しめる。アイリスの立場を危うくする。それでもここに残ると決めた」
カイはリオンの横顔を見た。
紺色の目が、ストーンクロスの方角を見つめている。硬い目だった。覚悟を決めた人間の目。だがその瞳の奥に、喪失の影がある。帰る場所を失う痛みを、リオンは一人で飲み込もうとしている。
「灰域は広い」
カイは言った。
「場所ならある」
ぶっきらぼうな言葉だった。気の利いたことは言えない。いつもそうだ。大事なことほど、うまく言葉にならない。
だがリオンが、わずかに目を伏せた。唇が緩んだのは一瞬だったが、カイはそれを見た。
風が吹いた。灰原草の穂が二人の間を抜けていく。白い穂が風に舞い上がり、灰色の空に散った。
沈黙が長かった。だが気まずくはなかった。
リオンが口を開いた。
「カイ」
カイの肩が、わずかに跳ねた。
リオンが自分を名前で呼んだのは、初めてだった。これまではいつも「あなた」だった。時折「セヴァル」と姓で呼ぶこともあったが、名前は一度もなかった。
「……何だ」
「いや。呼んでみただけだ」
リオンの頬がかすかに赤い。風のせいか、別の理由か。
カイは視線を逸らした。丘の斜面。灰原草の波。ストーンクロスの稜線。何を見ても落ち着かない。
名前を返さなければならない。そう思った。
「リオン」
声がぎこちなかった。今まで「アスフォード」と呼んでいた人間を、急に名前で呼ぶのは妙な感覚だった。距離が縮まったというより、壁が一枚剥がれたような感覚。その下にある生身を見てしまったような。
リオンが顔を上げた。目が合った。
何も起きなかった。劇的な言葉も、大きな感情の爆発もない。ただ名前を呼んだだけ。だがそれが、この二人にとっては、途方もなく大きな一歩だった。
空から白いものが落ちてきた。
雪だった。灰色の雲から、細かい粒が音もなく降り始めている。二人の肩に、白い点が積もっていく。
リオンが立ち上がった。
「明日から、戦いが始まる」
カイも立った。雪が髪に積もる。
「ああ。でもその前に、丘を降りないとな」
リオンは少しだけ笑った。
唇の端がわずかに上がっただけの、控えめな笑み。だがカイはそれを、この旅で見たどの景色よりも鮮明に記憶した。
二人は丘を降りた。雪は静かに降り続けている。灰域の冬が来た。




