帰れない線
星が回っていた。
リオンは野営地の外れに座って夜空を見上げていた。灰域の空は暗く管区の街灯も基地の投光器もない。ただ星と闇だけがある。
眠れなかった。
焚き火の傍ではカイが毛布にくるまって寝息を立て、トワも浅い眠りの中にいる。ガルドは火の番をしながら時折酒瓶を傾けていた。
リオンは自分の手を見た。
セルヴィスの軍人の手。訓練で硬くなった掌や操縦桿の形に馴染んだ指。この手で報告書を書き、敬礼をしてポラリスの計器を読んできた。
その手がもうセルヴィスに戻ることを許されなくなりつつある。
偵察任務中の遭難。
リオンが灰域に来た時の公式上の理由だ。アイリスが作りルイ・ヴェルデが承認した「管区外偵察中に通信途絶、捜索中」という偽の書類にはその「捜索」の期限がある。期限を過ぎれば遭難ではなく脱走として処理されてしまう。
期限はあと4日だった。
4日以内にセルヴィスの管区に戻ればまだ間に合う。遭難からの帰還として処理されれば査問はあっても銃殺刑にはならず、降格と監視強化で済む可能性がある。
だが4日を過ぎれば脱走兵となり軍法会議にかけられて最悪は銃殺刑だ。
リオンは膝を抱え、セルヴィスに戻りたいのかと自分自身に問う。
戻ればアイリスの身は守れるし内部から浄化計画を妨害する可能性も残る。父と向き合うこともできる。だが戻った瞬間に監視下に置かれ二度と灰域に来ることはできない。ここで見て知ったことや出会った人々をすべて報告書の紙面に閉じ込めるしかなくなるのだ。
近づいてきた足音はガルドだった。酒瓶を片手にリオンの横へ腰を下ろすと何も言わずに酒を差し出す。受け取って一口含めば遺灰酒の辛さが喉を焼いた。
「眠れないか」
「考え事をしている」
「見りゃ分かる」
沈黙が落ちて遠くで焚き火の灯りが揺れている。
「あなたは、グランヴェルトを出た時、後悔しなかったのか」
リオンは自分でも驚くほど率直に聞いた。この男にだけは聞ける気がしたのだ。
ガルドは酒瓶を膝の上に置いて空を見上げた。
「後悔しない日はない」
短い沈黙。
「だが戻りたいとは一度も思わなかった」
「矛盾している」
「ああ、矛盾だ。だが人間は矛盾で動く。論理で動くのは機械だけだ」
ガルドが煙草を取り出して火を点けると橙色の光が技匠の顔を照らした。皺の深い疲れた顔だがその目は静かな確信を湛えていた。
「俺がグランヴェルトを出た理由は一つだ。テオを見殺しにできなかった。組織に残れば安全だった。金も地位もあった。だが、自分が作った技術で親友が壊れていくのを、机の向こうから見ていることができなかった」
ガルドは煙を吐いた。
「お前も同じだろう。中にいれば安全だ。だが安全な場所から、目の前で起きていることを見ていられるか」
リオンは答えず8歳の日の記憶を蘇らせる。燃える集落と逃げ惑う民間人。それを「秩序維持」と呼ぶ父の横顔。あの日から自分の中にある亀裂だ。
「私はまだ、セルヴィスの中から変えられると思っていた」
リオンは膝を抱えたまま言った。
「でもここに来て分かった。中からでは壁は動かない」
「壁を壊すのは外からだ」
ガルドはそう言ってさらに付け加える。
「だが外にいれば、壁の中の人間を助けられない」
答えのない問いだった。中にいても変えられず外に出れば中の人間を守れない。どちらを選んでも何かを失う。
リオンは長い間星を見ていた。基地の灯りが星を消すセルヴィスの明るい夜空とは違いここでは全ての星が見える。この空の下でカイは育ちテオは消え、灰域の人々は生きているのだ。
壁の中から変えられないなら。
壁の外から壁そのものの形を変える。
夜が明けて灰色の空が東から白く染まっていく。燃え尽きた焚き火の灰だけが残るなか、カイが目を覚ましトワが伸びをしていた。
立ち上がったリオンはストーンクロスの方角を見た。東。灰色の地平線の向こうにまだ見えない集落がある。
「私はここに残る」
声は震えていなかった。
4日の期限が過ぎればリオン・アスフォードはセルヴィス防衛機構の脱走兵になる。参謀長の娘が脱走兵になれば父の名に泥を塗り、母を苦しめ、アイリスの立場を危うくすることになるだろう。
それでも。
リオンは東の空を見つめた。灰色の雲の切れ間から差し込む朝日は決して温かくはなく、灰域の冬の朝日は白くて冷たい。
だがその光の中にこそリオンは自分の選択を見た。




