|灰域《アッシュランド》の冬
錆苔が赤く変色していた。
灰域の言い伝え通りだ。錆苔が赤くなると冬が来る。岩肌にこびりついた苔が、緑から赤錆色に変わり、灰原草の白い穂が銀色の光沢を帯びている。吐く息が白い。朝の気温は氷点下に近い。
カイはケストレルのコックピットから外を見た。
機関温度計は緑の安定域。燃料残量は74%。ケストレルの燃費は残殻よりはるかに良い。高効率のハイブリッド駆動機関がガルドの設計の要だった。動力炉の回転数を巡航に最適化し、無駄な出力変動を抑える。同じ距離を走っても、残殻の七割程度の燃料で済む。だが冬の灰域は、機体にも容赦がない。
関節負荷表示の数値が、普段より高い。
低温が潤滑油の粘度を上げている。操縦桁を引いた時の応答が、昨日より僅かに重い。0.02秒の遅れ。計器の数値で確認する前に、手の感覚が拾っていた。残殻なら気づかない差だが、ケストレルの応答速度に慣れ始めた体が、それを拾った。二日間の試験機動で、ケストレルの「正常な重さ」を体が覚えたのだ。
「関節が重い」
カイが通信に言った。
「気温が下がっている。潤滑油が粘る」
ガルドの声が作業車から返った。作業車のエンジン音がバックに聞こえる。暖機運転が長くなっている。車も寒さに弱い。
「次の停止で対策する。旧世界の合成油を混ぜる。俺が持っているストックは限られるが、ケストレルの分は何とかなる」
「トワの残殻は」
「残殻の関節は精度が低い。公差が大きいから、多少粘っても影響は小さい。問題はお前の機体だ。アルマナック・フレームの関節は精度が高い分、潤滑油の粘度変化に敏感だ。マイクロメートル単位の精度で動いている関節に、粘度の上がった油を入れたら、動作が乱れる」
トワの残殻が右後方を走っている。重い足音が凍り始めた地面を叩く。足跡に白い霜が散っている。鉄殻の排熱が地面の霜を溶かし、溶けた水がまたすぐに凍る。残殻の足元に、小さな氷の欠片が散らばっていた。
リオンが作業車の助手席から通信を入れた。
「セルヴィスなら、ヒーター付きのコックピットだが」
「贅沢だな」
カイは返した。ケストレルのコックピットは冷えている。金属の壁から冷気が染み出し、操縦桁を握る手が悴む。革手袋をしていても、指先が冷たい。
「贅沢じゃない。寒冷地装備は標準だ。セルヴィスの管区は北米東海岸。冬は零下20度になる」
「ケストレルにヒーターはない」
「知っている」
リオンの声に、以前のような棘がなかった。灰域の旅を共にして、二人の間の空気が変わっている。言葉の選び方が柔らかくなった。それでも、互いに踏み込みすぎない距離を保っている。
* * *
午後、気温がさらに下がった。
ケストレルの外装温度計がマイナス2度を示している。関節部の動きが明らかに鈍い。左膝の逆関節が、踏み込む際に一瞬引っかかる感触があった。計器の関節負荷表示が黄色の警告域に触れ、すぐに緑に戻る。カイはスロットルを落とし、巡航速度を下げた。無理に走れば関節に負荷がかかる。銘殻の関節は精密部品だ。壊れたら灰域では直せない。アルマナック・フレームの関節は旧世界の合金で作られている。現在の技術では交換品を作れない。
停止して、ガルドが作業にかかった。
ケストレルの膝関節を開き、潤滑油のドレンプラグを外す。黒く濁った油が金属のバケツに排出される。粘度が上がって、糸を引くように垂れた。
「見ろ。夏場ならさらさらの油が、こうなる」
ガルドが油を指で摘まんだ。粘りがある。これが関節の動きを鈍らせている。代わりに、旧世界の合成油を混合した新しい潤滑油を注入した。缶のラベルに旧世界の文字が印刷されている。30年以上前に製造された油。だが品質は保たれていた。
「これで零下10度までは持つ。それ以下になったら、動く前に30分暖機が要る」
「零下10度になるのか」
「なる。12月の灰域は零下15度まで下がることがある。テオと逃げた冬は零下18度まで行った。残殻の関節が凍りついて、3日間動けなかった」
ガルドは膝関節を閉じ、足首の関節にも同じ処置を施した。手際がいい。同じ作業を何百回もやってきた手だ。トワの残殻にも最低限の処置をする。リオンのポラリスはセルヴィスの寒冷地仕様だが、灰域に出てからの整備ができていない。ガルドが簡易的な潤滑油の交換を行った。
「技匠がいなければ、冬の灰域で鉄殻は動けないな」
トワが煫草を吸いながら言った。手袋越しに煫草を摘まみ、白い息と煙が混じって立ち上る。
「動けなくはない。壊れるのが早くなるだけだ」
ガルドの声は淡々としている。技匠の仕事は、壊れるものを壊れないようにすること。壊れたものを直すこと。季節が変わっても、戦場が変わっても、やることは同じだ。
* * *
夕方、雪が降り始めた。
最初は粉雪だった。灰色の空から、白い粒子が音もなく舞い降りてくる。ケストレルの装甲に触れて、機関の余熱で溶ける。鉄紺色の装甲に、水滴の筋が幾本も走った。メインカメラのレンズに雪が付着し、自動ワイパーが作動した。
やがて雪が強くなった。
視界が白く霧む。メインカメラの解像度が落ちる。センサーの補助パネルに、光学視界の低下を示す警告が点灯した。「光学視界: 60%」。カイは速度をさらに落とし、足元の地面を確認しながら進んだ。音響センサーの数値が変わっている。雪が音を吸収しているのだ。周囲が静かになっていく。
灰域の冬の最初の雪だった。
白い粒子が灰色の空から降り注ぎ、鉄錆色の荒野を薄く覆い始めている。灰原草の穂に雪が積もり、銀色から白に変わっていく。朴ちた鉄殻の残骸が、雪に半分隠されて墓標のように立っている。頭部を失った汎殻の胴体に、白い雪が降り積もっていく。
カイはコックピットから雪を見た。
美しい。灰域にも、こういう景色がある。灰色と鉄錆だけではない。白い季節が来る。旧世界の人間も、同じ雪を見ていたのだろう。同じ空から同じ雪が降り、同じ大地を白く覆った。大崩落が何を変えても、季節だけは変わらない。
だがこの雪の下で、戦争が始まろうとしている。
セルヴィスの先遣がストーンクロスに迫っている。コルヴァスが前線指揮を取る。グランヴェルトのゲルハルトもまだ灰域にいる。二つの統治機構体が、灰域の上で交差しようとしている。灰域の住民にとっては、どちらの側であっても、外からの力だ。
雪が降り続いている。
ケストレルの足跡が、白い地面に深く刻まれていく。三本爪の鳥足が残す、独特の足跡。すぐに雪が埋めていくだろう。だが今は、確かにここを歩いた証が残っている。




